40日前 国境②
前線へ着いた頃には、日が落ちかけていた。
国境守備隊の司令所は、小高い丘の上に置かれている。
王国軍の天幕が並び、兵たちが夜に備えて動いていた。
レオンハルトが馬を降りると、守備隊の指揮官が駆け寄ってきた。
「陛下」
「状況は」
挨拶を返すより先に問われ、男もすぐ報告へ切り替えた。
「帝国軍はまだ国境を越えておりません。前衛が街道側へ移動しています」
「地図を」
「こちらです」
司令所へ入る。
机には周辺の地図が広げられていた。
指揮官が位置を示す。
「帝国軍の主力はこの平野です。前衛は街道沿いに移っています」
レオンハルトが指を置く。
「ここは森か」
「はい」
「人は通れる?」
「徒歩なら。ただし広い隊列は組めません」
「こっちは」
「農道です。荷車なら軽いものだけでしょう」
指が地図の上を移る。
「橋は」
「主街道に一つ。北に古い木橋があります」
「浅瀬は?」
指揮官が二か所を示す。
「ここ。それと下流です。下流側は足場が悪い」
「退路」
男が線をなぞる。
「中央はこの街道。東は農道。西は丘の裏へ抜けられます」
「避難民とぶつからないか」
「国境近くの村は今日中に退避させます」
「まだ残ってる者は」
「一部おります」
「明るいうちにもう一度回れ。夜まで残っていたら連れ出せ」
「承知しました」
レオンハルトは地図から目を離す。
「帝国軍を見たい」
◇
丘の端まで出ると、帝国側の平野が見えた。
夕暮れの向こうに、火が並んでいる。
数が多い。
だが、目についたのはそれだけではなかった。
宿営地の列だけでなく、馬を置く場所や荷車の配置、見張りの位置まで整っている。
人が通るための道もきちんと空けられていた。
王国軍側では、兵が何度も持ち場を確認していた。
忘れ物を取りに戻る者もいる。
仲間と小声で話し続ける者もいる。
帝国側では、見張りが交代した。
同じ人数が出て、同じ人数が下がる。少しすると、別の場所でも同じように交代した。
守備隊の指揮官が呟く。
「静かです」
レオンハルトは返事をしなかった。
あれだけの兵がいるのに、向こうから迷いが伝わってこない。
後ろから声がする。
「陛下」
若い兵士だった。
「何だ」
「あの……本当に、向こうが越えるまで撃たないのですか」
「ああ」
「弓が届くところまで来ても?」
「国境を越えなければ撃つな」
兵士が帝国側を見る。
「あそこまで来ているのに」
「来てるだけだ」
「でも……」
レオンハルトが兵士を見る。
「怖いか」
兵士は一瞬黙った。
「……はい」
「俺もだ」
兵士が顔を上げる。
「怖くない奴がいたら、そいつを前に出すな」
「え?」
「勝手に突っ込むかもしれん」
近くにいた兵が小さく笑った。
若い兵士も少しだけ口元を緩める。
レオンハルトは再び帝国側を見る。
「怖いままでいい。持ち場だけ離れるな」
「はい」
「向こうが越えるまでは、何も始めるな」
「はい」
その命令は、日が沈むまでに各部隊へ伝えられた。
◇
夜が深くなっても、眠れない兵は多かった。
王国軍の陣では小さな声が残っている。
「寝ろ」
「寝られるか」
「明日起きられなくなるぞ」
「どうせ起こされる」
誰かが水を飲む。
別の兵は剣を抜きかけ、やめた。
弓兵が弦を指で確かめる。
「それ、さっきもやってただろ」
「気になるんだよ」
「切れるまで触るなよ」
「縁起悪いこと言うな」
いつもの夜とは違う。
レオンハルトは司令所の外で報告を読んでいた。
帝国軍は多く、経験もおそらく向こうが上だ。
王国兵にも魔物や盗賊と戦った者はいるが、国同士の戦争を経験した者はほとんどいない。
レオンハルトは報告書を置き、遠くに並ぶ帝国側の明かりを見た。
守備隊の指揮官が隣へ来た。
「眠られませんか」
「そっちもだろ」
「私は仕事です」
「俺もだ」
男が少し笑う。
しばらく二人とも黙っていた。
やがて指揮官が言う。
「……勝てますか」
レオンハルトは帝国の火を見た。
「知らん」
男が横を見る。
「やる前から分かるなら楽なんだけどな」
「そうですな」
「明日、来た奴を止める。それだけ考えろ」
指揮官は少し間を置いてから頷いた。
「はい」
夜が過ぎていった。
◇
空が白み始めた頃。
最初に変化へ気づいたのは見張りだった。
「動いた」
近くの兵が起きる。
「どこだ」
「正面」
帝国側の火が一つずつ消えていく。
代わりに、人の列が見え始める。
盾。
槍。
旗。
まだ遠い。
だが、確実にこちらへ近づいている。
伝令が司令所へ走った。
「帝国軍、前進開始!」
眠っていた兵たちが一斉に起きる。
「持ち場へ!」
「弓隊、丘へ!」
「槍、前!」
「走るな! 列を崩すな!」
王国軍の陣が一気に動き出す。
レオンハルトは丘へ上がった。
帝国軍が見える。
前衛の歩兵が街道を進んでいる。
その後ろにも列がある。
さらに後ろにも。
旗が朝の風に揺れていた。
王国軍の弓兵が矢をつがえる。
「まだだ!」
命令が飛ぶ。
弓が下がる。
帝国軍は進む。
国境までの距離が縮まる。
兵たちの呼吸が聞こえるほど、王国側は静かになった。
帝国軍が止まる様子はない。
王国の兵士が槍を握り直す。
隣の兵が唾を飲み込む。
レオンハルトは国境線を見る。
地面に置かれた古い石標。
その向こうから帝国兵の列が近づいてくる。
まだ向こう側。
帝国軍の先頭が石標へ達した。
一歩。
その足が、王国側の土を踏んだ。
見張りの声が響く。
「越境!」
次の兵も入る。
その後ろも続く。
帝国軍の列が国境を越え始めた。
レオンハルトは前を見たまま、右手を上げた。
王国軍の兵たちが武器を構える。
「全軍」
声が通る。
「構えろ」
槍が一斉に前を向いた。




