40日前 国境①
王国からの返答が帝国軍の陣へ届いたのは、朝だった。
王都を日が落ちてから出た騎手は、途中で馬を替えながら国境まで走った。
封書は王国側の国境守備隊から帝国の軍使へ渡され、そこからさらに帝国軍の陣へ運ばれた。
ひときわ大きな天幕の中へ持ち込まれ、机を囲んでいた将校の一人が封を確かめる。
外では、すでに兵たちが動いている。
馬へ水を与え、武器を確かめ、荷車を所定の場所へ移していく。
大勢が行き交っているはずなのに、怒鳴り声はほとんど聞こえなかった。
書面を読み終えた将校が顔を上げる。
「拒否です」
向かいにいた男が手を出した。
書面が渡される。
王国は宝玉の譲渡を拒否する。
帝国軍が国境を越えない限り、王国側から攻撃を開始する意思はない。
これまでと同じ内容が、正式な外交文書として記されていた。
男は最後まで読むと、紙を机へ置いた。
「そうか」
それだけだった。
天幕の中で、誰も驚かなかった。
少し離れた場所に立っていた若い将校が、机の上の返答書へ一度だけ目を向ける。
「……明朝、越境するのですね」
男が若い将校を見る。
「そうだ」
「承知しました」
返事はした。
だが、動かなかった。
男が尋ねる。
「初めてか」
若い将校がわずかに間を置く。
「……はい」
「なら今日のうちに済ませておけ」
「何をでしょうか」
「迷うのをだ」
若い将校は黙った。
男はもう彼を見ていなかった。
別の将校へ顔を向ける。
「予定通りだ」
「はっ」
「前衛は明朝。騎兵は先に出すな。斥候だけ出せ」
「承知しました」
「補給は」
「前衛分はすでに移しています」
「見張りの交代は崩すな」
「はっ」
指示が処理されていく。
若い将校も一礼して天幕を出た。誰も戦いが始まることを喜んではいない。
それでも外では、兵たちがすでに次の仕事へ移っていた。誰かが走り回らなくても、
それぞれが自分のやるべきことを知っている。
明日の朝、国境を越える。 帝国軍はその時を、静かに待っていた。
◇
同じ朝。
王都では、レオンハルトが地図を見ていた。
机には昨夜までに届いた国境守備隊の報告が広げられている。
帝国軍の宿営地と確認された前衛。
そこから伸びる街道、森、そして国境線までが地図の上に記されていた。
オルフェンが新しい紙を一枚置いた。
「昨夜の騎手は予定通り出ています」
「ああ」
「今頃は国境へ近づいている頃でしょう」
帝国が受け取ったかどうかまでは、まだ王都には分からない。
レオンハルトは地図から目を離さなかった。
「俺も行く」
オルフェンは聞き返さなかった。
「前線ですな」
「ああ」
「いつ出られます」
「すぐだ」
「やはり」
レオンハルトが顔を上げる。
「何だ」
「そう仰ると思っておりました」
オルフェンは別の紙を取った。
「王都側はこちらで引き受けます。食料、避難、街道、各村との連絡も、昨日までに決めた通り進めます」
「頼む」
「陛下」
「何だ」
「御自身で何もかもやろうとはなさらぬよう」
レオンハルトは少し黙った。
「分かってる」
「本当に?」
「最近そればっかり言われるな」
「最近ようやく聞くようになられましたので」
扉が開いた。
セシリアが入ってくる。
その後ろにエリオットとリゼットもいた。
レオンハルトが三人を見る。
「聞いたか」
「はい」
セシリアが答える。
エリオットが一歩前へ出た。
「父上。前線へ行かれるのですか」
「ああ」
「私も同行させてください」
「駄目だ」
即答だった。
エリオットの眉が動く。
「やはり駄目ですか」
「駄目だ」
「理由を聞いても?」
「お前を連れていく理由がない」
エリオットは言葉に詰まった。
レオンハルトが続ける。
「剣を振るだけが仕事じゃない。昨日やっただろ」
少年は机の上の紙を見る。
「帳簿ですか」
「帳簿もだ。入ってくる物と出ていく物を見ろ。足りない物があれば報告しろ。数字がおかしければ確認させろ」
エリオットが少しだけ目を見開く。
「私が言ってもいいのですか?」
「お前が気づいたならな。ただし勝手に全部決めるな」
「分かっています」
少し間があった。
「昨日、一つ見つけたんだろ」
「はい」
「なら今日も見ろ」
エリオットは父を見た。
「……はい」
今度の返事には、不満より力があった。
リゼットが横から弟を見る。
「よかったじゃない」
「何がですか」
「仕事を任せてもらえて」
「姉上もでしょう」
「私は昨日からやってるもの」
「私も昨日からです」
「じゃあ同じね」
「何で姉上が先輩みたいに言うんですか」
「気分?」
「聞かなければよかったです」
レオンハルトが二人を見る。
「喧嘩するなら俺が出たあとにしろ」
「してません」
二人同時だった。
セシリアが小さく笑う。
そのあと、レオンハルトを見る。
「こちらは任せてください」
「ああ」
「救護所も、避難者の受け入れも進めます」
「無理するなよ」
「それはこちらの台詞です」
レオンハルトは何か返そうとして、やめた。
セシリアが少しだけ近づく。
「戻ってきてください」
レオンハルトは少しだけセシリアを見た。
「ああ」
◇
日が昇って間もなく、王都の門が開いた。
レオンハルトは護衛と伝令を伴い、国境へ向かう街道へ出た。
今回は顔を隠していない。
粗末な冒険者の服でもない。
王国軍の外套をまとい、胸には王家の紋章がある。
街道では、王都へ向かう荷車と何度もすれ違った。
家財や毛布、鍋、樽。積めるだけの物を載せた荷車には、子供の姿もある。
人々は持ち出せるものだけを持ち、国境から離れていった。
昼を過ぎた頃、一台の荷車の横を歩いていた女が、馬上のレオンハルトに気づいた。
「あ……」
周りも見る。
何人かが足を止めた。
レオンハルトも馬を止める。
「どこの村だ」
「東の……国境から二つ目の村です」
「全員出たか」
女が後ろを見る。
「年寄りが何人か遅れてます。でも兵隊さんが手伝ってくれてます」
「家畜は」
「全部は無理です」
横にいた男が答えた。
「牛だけでも連れていきたかったんですが」
荷車の後ろで、子供が縄を握っていた。
縄の先には山羊が一頭いる。
子供がレオンハルトを見上げた。
「鶏は置いてきた」
「そうか」
「戻れる?」
周囲の大人が黙った。
レオンハルトも、すぐには答えなかった。
「戻れるようにする」
子供は少し考えてから頷いた。
「うん」
荷車が再び動き出す。
レオンハルトはそれを見送った。
護衛の一人が尋ねる。
「陛下、先を急ぎますか」
「ああ」
馬が再び走り出した。
◇
国境へ近づくにつれ、人の流れははっきり分かれていった。
後ろへ向かう住民。
前へ向かう兵。
その間を荷車と伝令が行き来する。
午後遅く、一つの村へ入った。
ほとんどの家の戸が開いている。
人がいない。
道の脇には、持っていけなかった桶や壊れた椅子が残されていた。
畑にはまだ作物がある。
収穫前だった。
一軒の家の前で、老人が兵士と言い合っている。
「だから、明日の朝でいいと言っとるだろう」
「駄目です。今日です」
「畑がまだ半分残っとる」
「命令です」
「麦は命令じゃ育たんぞ」
兵士が困った顔をしていた。
レオンハルトが馬を止める。
老人がこちらを見る。
一瞬だけ驚いたが、すぐに眉を寄せた。
「王様か」
「ああ」
「ちょうどいい。こいつに言ってくれ。明日の朝まで待てと」
兵士の顔がさらに困る。
レオンハルトは畑を見た。
「駄目だ」
「王様までか」
「今日出ろ」
老人が不満そうに鼻を鳴らす。
「この畑、誰が見る」
「誰も見ない」
「駄目になるぞ」
「そうだな」
「分かっとるなら――」
「畑より先にあんたが残ったら、畑を守る意味がなくなる」
老人が黙った。
レオンハルトは続ける。
「戻ってきた時に文句言え」
「誰に」
「俺に」
老人はしばらく王の顔を見ていた。
やがて大きく息を吐く。
「忘れるなよ」
「ああ」
「この畑だぞ」
「覚えられるか」
「王様だろうが」
「王でも畑全部は覚えられん」
老人が少しだけ笑った。
「なら、この道の右から三つ目だ」
「分かった」
「本当か?」
「多分な」
「多分か」
さっきまで困っていた兵士が顔を逸らした。
老人は家へ戻る。
「荷物取ってくる」
兵士が頭を下げる。
「ありがとうございます」
「礼はいい。ちゃんと連れていけ」
「はい」
レオンハルトたちは再び国境へ向かった。
後ろでは、老人がまだ何か兵士に文句を言っていた。




