41日前 最後の返答
夜明け前から、王都のあちこちに灯りがついていた。
昨日集まった荷車には、すでに保存食や布が積まれている。
井戸のそばには水量を書いた札が下がり、城門では街道へ出る者の名前を役人が確認していた。
鍛冶場では、農具の横に兵士の槍が置かれている。
「軍のを先に頼む」
兵士が言うと、鍛冶屋は槍を一度持ち上げた。
「夕方だな」
「もっと早くならないか」
鍛冶屋は隣の農具を顎で示した。
「こっち止めていいならな」
兵士は少し黙った。
「……夕方でいい」
「なら置いとけ」
槌の音が戻った。
城門近くの告知には、帝国軍が国境付近へ集結していること、まだ越境していないこと、王国側から攻撃を始めないことだけが書かれていた。
その前を、物資を積んだ荷車が通り過ぎていった。
◇
朝。
国境守備隊から、帝国の印が押された封書が届いた。
「帝国側の軍使から渡されたものです」
伝令が差し出す。
レオンハルトは封を切った。
オルフェンとセシリアも部屋にいる。
紙を開き、最後まで読む。
「最後だそうだ」
オルフェンが受け取り、目を通した。
「宝玉を引き渡せば、帝国軍は進軍しない」
「ああ」
「受け入れ条件も変更なし」
セシリアが静かに尋ねる。
「およそ半数ですか」
「そうだ」
王家も重臣もその家族も別枠ではない。
王国総人口のおよそ半数まで。
そこまでは帝国が受け入れと保護を約束する。
残る者については保証しない。
オルフェンが紙を机へ戻した。
「軍を国境へ置いた上での最終確認、ということですな」
「そういうことだろ」
「御返答は」
レオンハルトは書面をもう一度見た。
「断る」
オルフェンはすぐに筆を取った。
「理由はこれまでと同じでよろしいですね」
「ああ。宝玉を渡した後、この国が安全だと確認できない。それに、半分を助けるために残りを見捨てる決定はしない」
「王国側から開戦する意思がないことも入れます」
「入れろ。越境しない限り、こちらから攻撃しない」
オルフェンが書き始める。
しばらくして、筆が止まった。
「陛下」
「何だ」
「このままでは少々短いので、外交文書として整えます」
「意味は変えるな」
「変えません」
「長くしすぎるなよ」
「それはお約束できませんな」
セシリアが小さく笑った。
レオンハルトは椅子へ座った。
もう一度考え直すための書面ではなかった。
返すための書面だった。
◇
返答が整えられている間も、王城の中では人が行き来していた。
エリオットの前には、物資の帳簿が置かれている。
「こちらを確認すればいいのですか?」
「はい。入った数と、出した数が合っているかを見てください」
役人が答えた。
エリオットは一枚めくる。
穀物。
油。
布。
薬。
少し離れたところでは、リゼットが侍女たちと集められた布を仕分けていた。
「これは洗えば使えます」
侍女が言う。
「では、そちらへ。これは?」
「穴が大きいですね」
リゼットが布を広げた。
「切れば包帯にできない?」
「できます」
「じゃあ捨てないで」
エリオットが顔を上げる。
「姉上の方が分かりやすそうですね」
「交換する?」
「してくれるのですか?」
「嫌」
「では言わないでください」
リゼットが笑った。
「自分から言ったんでしょう」
「そうですけど」
エリオットは帳簿へ戻る。
何枚か進んだところで、指が止まった。
「これ、数字が違いませんか?」
役人が近づく。
「どこです?」
「油です。十二樽入って、四樽出ています。残りは八のはずですよね」
「はい」
「ここは七になっています」
役人が別の紙を確認した。
「あ……記入漏れかもしれません。確認してきます」
紙を持って出ていく。
リゼットが弟を見る。
「役に立ったね」
「一つ見つけただけです」
「でも見つけなかったら、そのままだったでしょ」
エリオットは少し考えた。
「……そうですね」
さっきより丁寧に、次の紙をめくった。
◇
冒険者ギルドでは、ミレイが朝から何枚も依頼書を貼り替えていた。
物資輸送。
村への連絡。
避難路の確認。
街道警戒。
フィンが一枚を取る。
「これ、行っていいですか?」
王都から西の村までの連絡だった。
ミレイが内容を確認する。
「一人では行かない」
「はい」
「途中で危ないと思ったら戻る」
「はい」
「帝国軍を見に行かない」
「行きません」
ミレイがじっと見る。
「本当に?」
「何でそこだけ二回聞くんですか」
ガルドが横から笑った。
「信用だな」
「ガルドさんも勝手に国境へ行かないでくださいね」
「俺までかよ」
ノアが入口から入ってきた。
「北の脇道、石が落ちてる。荷車はそのままじゃ通れない」
ミレイがすぐ紙へ書く。
「帝国兵は?」
「見てない」
「なら今日はそれで十分」
ノアが別の依頼書へ手を伸ばす。
「次は?」
「休んでから」
「まだ歩ける」
「知らない。休んで」
少し離れた壁際で、ティオが立っていた。
いつものようにフィンへ何か言ってくるでもなく、依頼書を見るでもない。
顔色が悪かった。
「……ミレイさん」
声も小さい。
ミレイが振り返る。
「何?」
ティオは一度口を開き、閉じた。
それから、皆の顔を見ないまま言った。
「俺……今日、国を出る」
フィンが振り返った。
「え?」
「父さんと母さんも連れてく」
ギルドの中に、短い沈黙が落ちた。
フィンが手にしていた依頼書を下ろす。
「今日って……」
「ああ」
ティオは頷いた。
「まだ通れるうちに行く」
ミレイが聞く。
「もう決めたの?」
「昨日、家で話した」
「二人とも?」
「最初は嫌だって言ってた。でも、俺が行くって言った」
フィンがティオを見る。
「何で」
ティオはすぐには答えなかった。
顔を上げる。
「怖いから」
誰も笑わなかった。
「帝国と戦争になるんだろ」
「まだ決まったわけじゃない」
ミレイが言う。
「でも、軍は来てる」
「……そうね」
「俺、無理だ」
ティオは唇を舐めた。
「魔物なら仕事だって思えた。危なくても、逃げるか戦うか、自分で決められた」
腰の片手剣へ一度だけ目を落とす。
「でも軍隊と戦うのは違う。何百人とか何千人とか来るんだろ。そんなの……無理だ」
フィンが何か言おうとして、止まった。
ティオは続ける。
「父さんも母さんもここにいる。二人だけ逃がして、俺は残るってのも嫌なんだ」
ガルドが杯を置いた。
「行き先はあるのか」
「しばらくなら頼れる親戚がいる。そこまで行ければ何とかする」
「そうか」
「……はい」
ティオはガルドを見る。
「いいんですか」
「何がだ」
「俺、冒険者なのに」
ガルドの眉が少し動いた。
「兵士じゃねえだろ」
ティオが黙る。
「国のために死ぬって契約した覚えでもあるのか」
「……ないです」
「なら、家族連れて逃げるって決めたなら行け」
ガルドはそれだけ言って、杯へ手を戻した。
「道が開いてるうちにな」
ティオはしばらく動かなかった。
やがて、小さく頭を下げた。
「……はい」
フィンが聞く。
「戻ってきますよね」
ティオがフィンを見る。
「戦争が終わったらな」
「絶対ですよ」
「お前こそ」
「何ですか」
「俺より先に死ぬなよ」
フィンの眉が寄った。
「何ですか、それ」
「一応、俺の方が先輩だから」
「二年だけじゃないですか」
「二年は二年だ」
「そういう時だけ先輩ぶるんですね」
「そういう時って何だよ」
ほんの少しだけ。
ティオの顔に、いつもの調子が戻った。
フィンも少し笑った。
「じゃあ、また」
「ああ」
ティオはミレイへ向き直った。
「今までありがとうございました」
「まだ早いわよ」
「え?」
「戦争が終わったら戻るんでしょう」
ミレイは受付の紙へ目を落とした。
「その時に言いなさい」
ティオは一瞬だけ目を丸くして。
「……はい」
今度は、少しだけ笑った。
いつもの調子で言い合いながら、仕事だけが増えていった。
◇
午後。
セシリアは救護所に使う予定の部屋を見て回っていた。
寝台代わりの板。
洗った布。
水桶。
まだ誰も寝ていない。
「入口側は空けておいてください」
「運び込むためですか?」
「ええ。人が増えてから動かす余裕はありません」
侍女が頷く。
窓の外を、荷車が通っていく。
セシリアは少しだけそちらを見たあと、次の部屋へ向かった。
◇
夕方になると、市場にはいつもの客が戻っていた。
野菜を選ぶ者。
パンを買う者。
値段を聞いて諦める者。
その横を、城から出た荷車が通る。
ある家では、父親が遅れて食卓へ座った。
「今日も荷車?」
子供が聞く。
「ああ」
「戦争になるの?」
父親は椀を持ったまま少し止まった。
「まだだ」
「明日は?」
「分からん」
妻がパンを切る。
「冷めるよ」
「食う」
子供もそれ以上聞かなかった。
◇
日が落ちる頃、オルフェンが完成した書面を持ってきた。
レオンハルトは最初から最後まで読み、最後に王家の印を押した。
「これで?」
「ああ」
返答を受け取った騎手が一礼する。
王城の門が開いた。
外はもう暗い。
門番が尋ねた。
「国境までか」
「ああ」
「途中で馬は?」
「替える」
門番は道の先を見る。
「気をつけろ」
騎手が片手を上げた。
馬が走り出す。
蹄の音が、夜の街道へ遠ざかっていった。




