42日前 落書きの跡③
午後になると、王城へ届く紙はさらに増えた。
「東市場の穀物商。倉庫一棟ではなく、奥の二区画なら空けられるそうです」
「今使っている区画は?」
「商売用です。そちらは出せないと」
「それでよい。空けられる場所だけ記録を」
次は城外の農家からだった。
荷車は二台あるが、出せるのは一台。馬も一頭なら貸せる。ただし畑仕事の日は使えない。
レオンハルトが紙を覗き込む。
「使えない日も残せ。馬を持っていったせいで畑が駄目になったら意味がない」
別の机では、水路や井戸に詳しい職人たちが役人と地図を囲んでいた。
「この井戸は深いけど、最近は戻りが遅い。こっちは浅い。朝ならまだ出るが、一気に汲むと昼には落ちるぞ」
少し離れた場所では薬師が、必要な物を指折り数えている。
「薬草だけ集めても駄目だよ。煮る水と薪がいる。怪我人が増えるなら、布を洗う水も必要になる」
紙の上では一つの項目だったものが、実際に使おうとするといくつもの条件に分かれていく。
レオンハルトはしばらく机の間を歩いていたが、やがて足を止めた。
「思ったより面倒だな」
オルフェンが顔を上げる。
「戦争準備が簡単だとでも?」
「言ってない」
「顔に出ております」
「お前は俺の顔を何だと思ってる」
「長年見ておりますので」
そこへ市場組合からの使者が入ってきた。
「保存の利く食料について、余剰分をまとめられるか確認したいとのことです。ただ、買い占めを恐れる声もあります」
「王城が全部買うな」
レオンハルトが答える。
「軍用だからって安く取るな。市場から食い物を消すのも駄目だ」
「価格と流通量を見ながら段階的に集めます。組合にもそう伝えてください」
オルフェンの言葉に、使者が頭を下げる。
退出したあと、レオンハルトが隣を見る。
「最初からそれ言えばよかったな」
「陛下が先に全部言いましたので」
「そうか」
「珍しく内容は合っていました」
「珍しくは余計だ」
近くにいたセシリアが笑った。
◇
夕食の席には、久しぶりに四人が揃っていた。
レオンハルトの向かいにセシリア。その隣にエリオットとリゼットが座っている。
食卓には焼いた肉と豆、少量の野菜が並んでいた。
エリオットは父を見たまま、まだ少し納得していない顔をしている。
「父上」
「何だ」
「昨日の話ですが」
「まだあるのか」
「あります」
エリオットは皿へ目を落とし、また父を見る。
「町へ出ていたのは知っていました。でも、あんなに色々な人と知り合いだとは思いませんでした」
「俺も全員覚えてるわけじゃない」
「芋を買っていた人までいました」
リゼットが笑う。
「お父様も芋くらい買うでしょ」
「それは分かっています」
「じゃあ何が気になるの」
「王なのに、普通に買っていたことです」
レオンハルトが肉を切りながら言う。
「店に入ったら買うだろ」
エリオットは何か言い返そうとしてやめた。
リゼットが父を見る。
「私も町へ行っていい?」
「話が飛んだな」
「お父様はずっと行ってたんでしょ」
「お前は条件守って行ってるだろ」
「もっと普通に」
「駄目」
「早い」
「護衛はつけろ」
リゼットが頬を膨らませる。
セシリアが食事を続けながら言った。
「昨日、王都中に御自身の秘密を明かした方が言うと説得力がありますね」
レオンハルトが妻を見る。
「俺のは仕事だ」
「酒場も?」
「情報収集だ」
「芋も?」
「食事だ」
エリオットが吹き出した。
リゼットも笑い出す。
「笑うな」
「すみません、父上」
まったく反省していない顔だった。
しばらくは、いつもの食卓だった。
そこへ廊下から急ぐ足音が近づいてきた。
一度通り過ぎかけ、すぐ戻る。
扉が強く叩かれた。
「陛下!」
レオンハルトとセシリアの表情が変わる。
「入れ」
兵が入ってきた。
息を切らしている。
「国境より早馬です。至急、会議室へ」
エリオットが父を見る。
リゼットの笑顔も消えた。
「何があった」
兵が息を整えた。
「帝国軍が、国境付近へ移動を始めています」
レオンハルトは立ち上がった。
◇
会議室には、すでにオルフェンがいた。
国境から来た伝令は、土埃をかぶったまま立っている。
レオンハルトは席にもつかず尋ねた。
「越えたか」
「いいえ。国境は越えておりません」
「どこまで来てる」
「帝国領側の街道と平野です。後方にいたと思われる部隊が、国境寄りへ移動しています。本日になって、複数の宿営地を確認しました」
オルフェンが地図を見る。
「急に集めた軍ではない、と?」
「はい。動きから見て、以前から後方に準備されていた可能性が高いとの報告です」
レオンハルトの目が細くなる。
「数は」
伝令が首を振る。
「まだ正確には。ですが、使節の護衛とは比較になりません。歩兵、騎兵、荷車、物資車列を確認しています。さらに後方から来る部隊もあります」
「旗は?」
「帝国軍です」
「こちらの兵は動いたか」
「巡回隊は規定の位置を維持しています。国境守備から増援要請を出すべきか、判断を求められています」
レオンハルトは地図へ近づいた。
国境を示す線の向こう側。
「まだ手を出すな」
伝令が姿勢を正す。
「向こうが越えるまで、こちらから始めない」
「はい」
「ただし見張りは切らすな。兵だけじゃなく、荷車と騎兵の動きも送れ。部隊が分からなくても、どちらへ動いたかは必要だ」
オルフェンが尋ねる。
「準備は?」
レオンハルトは朝から積み上がった報告書を見る。
食料。
水。
馬。
荷車。
薬。
倉庫。
道。
「本格的に始める」
オルフェンが頷いた。
「承知しました」
伝令が部屋を出ていく。
レオンハルトは、しばらく国境の線を見ていた。
◇
同じ頃、王国側の国境監視所からは、帝国領の平野が見えていた。
夕暮れが深くなるにつれ、向こう側に火が灯っていく。
街道沿いに並んだ火の奥へ、また別の列ができる。そのさらに向こうにも、次々と光が増えていた。
昼間には見えにくかった天幕の影が、炎に照らされて浮かんでは消える。
見張りの兵は、最初のうちは火の数を数えていた。
途中でやめた。
隣の兵が低く言う。
「越えてはないな」
「ああ」
二人とも、国境を示す暗い地面から目を離さなかった。
帝国軍の火だけが、夜の向こうで増え続けていた。




