↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
35/61

42日前 落書きの跡①

翌朝、王城の外壁から、乾いた音が聞こえていた。


ハインが門の脇から顔を出すと、男が木べらのようなもので壁をこすっている。その足元には水桶があり、少し離れたところでは年配の女が濡らした布を絞っていた。


壁にはまだ、黒い文字が残っている。


宝石より民を守れ。


何度も水をかけられたのか、昨日より輪郭は崩れていた。


「それ、落ちますか」


ハインが声をかけると、男は手を止めずに答えた。


「落ちなきゃ上から塗る」


「兵がやりますよ」


「書かれた側に消させるのも変だろ」


男がようやく振り返る。


昨日、娘の話をした男だった。


「それに俺が書いたわけじゃねえけど、昨日ここで好き勝手言ったからな。これくらいはやる」


「好き勝手というほどでも」


「兵隊さん、昨日より話しやすくなったな」


ハインは少し迷い、苦笑した。


年配の女が壁へ布を押しつけながら口を挟む。


「喋ってるなら手ぇ動かしな」


「やってるだろ」


「口の方が動いてるよ」


男は何か言い返しかけ、やめた。


門前には他にも人がいた。


昨日のように王城へ詰め寄っているわけではない。籠を置いて帰る者や、兵士へ水差しを渡している者がいる。


若い兵が困った顔でハインを見る。


「これ、受け取っていいんですか」


籠の中には焼いたパンが入っていた。


持ってきた女が先に答える。


「朝の余りだよ」


「こんなに余ります?」


「細かいねえ。食べな」


若い兵がまだ戸惑っているので、ハインが一つ取った。


「では、ありがたく」


「最初からそうしな」


女は満足したように帰っていった。


壁をこすっていた男が、手を動かしたまま言う。


「娘にも話したよ」


「昨日の話ですか」


「ああ。王様が何で断ったか」


少し間が空いた。


「怖いのは変わらんけどな」


「俺もです」


男が振り返った。


「兵隊がそれ言っていいのか」


「昨日、あなたに言われましたから」


「何を」


「兵士でも父親だろって」


男の手が止まる。


「……言ったな」


「なので、怖いものは怖いです」


「そりゃそうだ」


木べらが再び壁をこすり始めた。


さっきより少し大きな黒い欠片が、地面へ落ちた。


◇


「民の支持が戻ったことと、戦に勝てることは別です」


王城の会議室で、オルフェンが大きな紙を机いっぱいに広げていた。


向かいに座るレオンハルトは、すでにいつもの革鎧へ着替えている。昨日の正装より、本人にはこちらの方が落ち着くらしかった。


「分かってる」


「昨日の広場を見て気が大きくなる王もおりますので」


「誰の話だ」


「一般論です」


「俺を見ながら言うな」


オルフェンは答えず、地図の一角を指で叩いた。


国境から王都までの街道と、周辺の村や町が記されている。


「国境の巡回は増やします。ただし兵を露骨に集めれば、こちらが先に戦を望んでいるようにも見える」


「見張りと伝令を増やせ。兵の配置は大きく変えるな」


「同意見です」


別の紙には、穀物、井戸、馬、荷車、倉庫の記録が並んでいた。


「備蓄量は帳簿だけでは足りません。実際に使える穀物がどこにどれだけあるか、古い在庫が混じっていないかまで確認します。水も井戸の数だけでなく、現在の水位と回復量を見る必要があります」


「最近下がってる場所がある」


「ですから平時の記録は当てにしません」


セシリアが別の紙を引き寄せる。


「薬と布も確認を。怪我人が出てから集めるのでは遅いでしょう」


「医務室だけじゃ足りなくなるかもしれんな」


「その場合、どこを救護所にするかも先に決めておく必要があります」


「街道、橋、倉庫、井戸、救護場所、避難先。それに馬と荷車ですな。ただし、軍へ回しすぎれば畑と市場が止まる」


「戦う前に腹が減ったら意味ないな」


「その通りです」


扉が叩かれた。


入ってきた文官は数枚の紙を抱えていた。


「失礼します。城下から申し出が届いております」


「何の申し出だ」


「荷車を出せるという者が数名。商人からは、必要なら空いている倉庫を使ってほしいと。井戸の位置や水量に詳しい者から、調査に協力するとの申し出もあります」


レオンハルトが文官を見る。


「募集したのか」


「まだです」


部屋が一瞬静かになった。


「昨日の話を聞いた者たちから、何かできることはないか、と」


レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて言った。


「受けろ。ただし、出せるものを全部持ってこさせるな」


「はい?」


「荷車が二台あるから二台出せるとは限らん。仕事に一台必要なら一台でいい。倉庫も商売を止めてまで空けさせるな」


オルフェンが頷いた。


「協力できる範囲を確認する、と」


「ああ。出せない理由も残しておけ。あとになって足りなくなったから出せと言い始めたら同じことだ」


文官が紙へ書き込み、頭を下げる。


「承知しました」


扉が閉じた。


セシリアが静かに言う。


「昨日まで、説明を求めて城へ来ていた方たちですね」


「戦争がなくなったわけじゃない」


「ええ」


「だから、今のうちにできることをやる」


オルフェンが資料をまとめる。


「その協力を実際に使える形へ整理するのはこちらの仕事です」


レオンハルトは椅子から立ち上がった。


「ギルドへ行ってくる」


オルフェンが嫌そうな顔をする。


「今からですか」


「昨日の今日だからだ」


「せめて護衛を」


「城下だぞ」


「昨日、御自身が国王だと王都中へ教えたばかりです」


レオンハルトは少し考え、顔をしかめた。


「……二人でいい」


「最初からそう言ってください」


◇


帝国側の国境近くに置かれた連絡所へ、王都からの報告が届いていた。


国王が自ら民衆の前へ出たこと。


宝玉を拒否した理由だけでなく、帝国側の事情や、王冠完成によって大陸を救える可能性まで公にしたこと。


そして、国王が冒険者として長く市井に出ていた人物だと知られたことで、王国内の反発が収まりつつあること。


机の向こうに座る男は、最後まで読み終えてから紙を置いた。


「城前の集まりは」


「解散しています。暴動には至っておりません」


「治安維持への兵力投入は?」


「大きなものは確認できません」


隣に立つ将校が、わずかに眉を寄せる。


「国内から譲渡を迫らせるのは難しい、と」


「少なくとも、これだけで宝玉を得るのは難しい」


男は少し考えた。


「次の手順へ移る」


「承知しました」


将校はそれ以上聞かなかった。


男も説明しなかった。


「戦わずに渡すなら、その方がいい」


そう言って、次の報告書を開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。