42日前 落書きの跡①
翌朝、王城の外壁から、乾いた音が聞こえていた。
ハインが門の脇から顔を出すと、男が木べらのようなもので壁をこすっている。その足元には水桶があり、少し離れたところでは年配の女が濡らした布を絞っていた。
壁にはまだ、黒い文字が残っている。
宝石より民を守れ。
何度も水をかけられたのか、昨日より輪郭は崩れていた。
「それ、落ちますか」
ハインが声をかけると、男は手を止めずに答えた。
「落ちなきゃ上から塗る」
「兵がやりますよ」
「書かれた側に消させるのも変だろ」
男がようやく振り返る。
昨日、娘の話をした男だった。
「それに俺が書いたわけじゃねえけど、昨日ここで好き勝手言ったからな。これくらいはやる」
「好き勝手というほどでも」
「兵隊さん、昨日より話しやすくなったな」
ハインは少し迷い、苦笑した。
年配の女が壁へ布を押しつけながら口を挟む。
「喋ってるなら手ぇ動かしな」
「やってるだろ」
「口の方が動いてるよ」
男は何か言い返しかけ、やめた。
門前には他にも人がいた。
昨日のように王城へ詰め寄っているわけではない。籠を置いて帰る者や、兵士へ水差しを渡している者がいる。
若い兵が困った顔でハインを見る。
「これ、受け取っていいんですか」
籠の中には焼いたパンが入っていた。
持ってきた女が先に答える。
「朝の余りだよ」
「こんなに余ります?」
「細かいねえ。食べな」
若い兵がまだ戸惑っているので、ハインが一つ取った。
「では、ありがたく」
「最初からそうしな」
女は満足したように帰っていった。
壁をこすっていた男が、手を動かしたまま言う。
「娘にも話したよ」
「昨日の話ですか」
「ああ。王様が何で断ったか」
少し間が空いた。
「怖いのは変わらんけどな」
「俺もです」
男が振り返った。
「兵隊がそれ言っていいのか」
「昨日、あなたに言われましたから」
「何を」
「兵士でも父親だろって」
男の手が止まる。
「……言ったな」
「なので、怖いものは怖いです」
「そりゃそうだ」
木べらが再び壁をこすり始めた。
さっきより少し大きな黒い欠片が、地面へ落ちた。
◇
「民の支持が戻ったことと、戦に勝てることは別です」
王城の会議室で、オルフェンが大きな紙を机いっぱいに広げていた。
向かいに座るレオンハルトは、すでにいつもの革鎧へ着替えている。昨日の正装より、本人にはこちらの方が落ち着くらしかった。
「分かってる」
「昨日の広場を見て気が大きくなる王もおりますので」
「誰の話だ」
「一般論です」
「俺を見ながら言うな」
オルフェンは答えず、地図の一角を指で叩いた。
国境から王都までの街道と、周辺の村や町が記されている。
「国境の巡回は増やします。ただし兵を露骨に集めれば、こちらが先に戦を望んでいるようにも見える」
「見張りと伝令を増やせ。兵の配置は大きく変えるな」
「同意見です」
別の紙には、穀物、井戸、馬、荷車、倉庫の記録が並んでいた。
「備蓄量は帳簿だけでは足りません。実際に使える穀物がどこにどれだけあるか、古い在庫が混じっていないかまで確認します。水も井戸の数だけでなく、現在の水位と回復量を見る必要があります」
「最近下がってる場所がある」
「ですから平時の記録は当てにしません」
セシリアが別の紙を引き寄せる。
「薬と布も確認を。怪我人が出てから集めるのでは遅いでしょう」
「医務室だけじゃ足りなくなるかもしれんな」
「その場合、どこを救護所にするかも先に決めておく必要があります」
「街道、橋、倉庫、井戸、救護場所、避難先。それに馬と荷車ですな。ただし、軍へ回しすぎれば畑と市場が止まる」
「戦う前に腹が減ったら意味ないな」
「その通りです」
扉が叩かれた。
入ってきた文官は数枚の紙を抱えていた。
「失礼します。城下から申し出が届いております」
「何の申し出だ」
「荷車を出せるという者が数名。商人からは、必要なら空いている倉庫を使ってほしいと。井戸の位置や水量に詳しい者から、調査に協力するとの申し出もあります」
レオンハルトが文官を見る。
「募集したのか」
「まだです」
部屋が一瞬静かになった。
「昨日の話を聞いた者たちから、何かできることはないか、と」
レオンハルトはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「受けろ。ただし、出せるものを全部持ってこさせるな」
「はい?」
「荷車が二台あるから二台出せるとは限らん。仕事に一台必要なら一台でいい。倉庫も商売を止めてまで空けさせるな」
オルフェンが頷いた。
「協力できる範囲を確認する、と」
「ああ。出せない理由も残しておけ。あとになって足りなくなったから出せと言い始めたら同じことだ」
文官が紙へ書き込み、頭を下げる。
「承知しました」
扉が閉じた。
セシリアが静かに言う。
「昨日まで、説明を求めて城へ来ていた方たちですね」
「戦争がなくなったわけじゃない」
「ええ」
「だから、今のうちにできることをやる」
オルフェンが資料をまとめる。
「その協力を実際に使える形へ整理するのはこちらの仕事です」
レオンハルトは椅子から立ち上がった。
「ギルドへ行ってくる」
オルフェンが嫌そうな顔をする。
「今からですか」
「昨日の今日だからだ」
「せめて護衛を」
「城下だぞ」
「昨日、御自身が国王だと王都中へ教えたばかりです」
レオンハルトは少し考え、顔をしかめた。
「……二人でいい」
「最初からそう言ってください」
◇
帝国側の国境近くに置かれた連絡所へ、王都からの報告が届いていた。
国王が自ら民衆の前へ出たこと。
宝玉を拒否した理由だけでなく、帝国側の事情や、王冠完成によって大陸を救える可能性まで公にしたこと。
そして、国王が冒険者として長く市井に出ていた人物だと知られたことで、王国内の反発が収まりつつあること。
机の向こうに座る男は、最後まで読み終えてから紙を置いた。
「城前の集まりは」
「解散しています。暴動には至っておりません」
「治安維持への兵力投入は?」
「大きなものは確認できません」
隣に立つ将校が、わずかに眉を寄せる。
「国内から譲渡を迫らせるのは難しい、と」
「少なくとも、これだけで宝玉を得るのは難しい」
男は少し考えた。
「次の手順へ移る」
「承知しました」
将校はそれ以上聞かなかった。
男も説明しなかった。
「戦わずに渡すなら、その方がいい」
そう言って、次の報告書を開いた。




