43日前 王であるということ ②
王城の扉が開いた。
兵が数人出る。
その後ろからオルフェン。
広場の声がゆっくり小さくなる。
そして、レオンハルトが出た。
フィンは最初、分からなかった。
王城から出てきた男を見ている。
王家の紋章。
正装。
兵士たちが道を開け、オルフェンが一歩後ろを歩いている。
あれが王なのだろう。
そう思った。
男が前へ進む。
距離が縮まった。
顔が見える。
フィンの口が少し開いた。
「……え?」
隣でガルドの動きが止まった。
ミレイの眉が寄る。
「……は?」
レオンハルトがさらに前へ出る。
服が違う。
立っている場所も違う。
それでも。
顔は変わらない。
「……レオンさん?」
フィンの声は大きくなかった。
近くにいた者がフィンを見る。
それから王を見る。
ガルドが低い声を出した。
「おい」
別の冒険者も気づいた。
「待て」
目を細める。
「レオンじゃねえか?」
そこから声が広がった。
「レオン?」
「誰だ?」
「ギルドの冒険者だよ」
「嘘だろ」
「いや、あいつだ」
市場の方でも声が上がる。
麦を運んできた農夫が、人の間から前を見る。
「……あいつじゃねえか」
隣の商人が聞く。
「誰だよ」
「前に市場で話した奴だよ」
「は?」
「俺と商人が揉めてた時に入ってきた」
少し離れたところでは、別の男が声を上げた。
「俺も知ってるぞ!」
「どこで?」
「荷車が泥にはまった時、押してくれた奴だ!」
「王様がか?」
「王様だって知ってたら押させるかよ!」
別の場所からも声が飛んだ。
「うちの店にも来てた!」
「何しに?」
「芋買いに!」
「何で王様が芋買ってんだ!」
「知らねえよ!」
ざわめきが広場を走った。
村で。
市場で。
街道で。
ギルドで。
それだけではなかった。
人々がそれぞれに持っていた、小さなレオンとの記憶がつながっていく。
フィンはまだ目の前の男を見ていた。
森で牙鼠を倒した時のこと。山間村で共に戦ったこと。剣の扱いも、食事の席で聞いた家族の話も思い出す。既婚者で、子どもが二人いる。物価や農村の事情に妙に詳しく、王城のことも時々知りすぎていた。
今になって、全部がつながった。
フィンが勢いよく振り向いた。
ノアは目を逸らした。
「ノアさん」
「今は前見ろ」
「知ってたんですか」
「今は前見ろ」
「知ってたんですね」
「あとでな」
「あとで絶対ですよ」
「分かったから」
ミレイが横から言った。
「私もあとで聞く」
ガルドも頷く。
「俺もだ」
「何で増えるんだよ」
その間にも広場は騒がしい。
レオンハルトが前へ立った。
「聞け」
大声ではなかった。
それでも前列へ届き、そこから少しずつ声が止まっていった。
まだ誰かが小声で、
「本当にレオンだぞ」
と言っている。
隣から、
「今は黙ってろ」
と返された。
やがて広場が静かになった。
レオンハルトは冒険者レオンの説明から始めなかった。
「帝国から、宝玉を渡すよう求められた」
空気が変わった。
「俺は断った」
誰も声を挟まない。
「理由を話す」
レオンハルトは広場を見た。
「以前、帝国へ宝玉を渡した国がある」
「その国は、戦争を避けた」
人々が聞いている。
「宝玉を渡して、およそ十日後。井戸と川に異常が出た」
ざわめきが起きる。
「ひと月も経たないうちに、作物と家畜へ被害が広がった。三か月後には、人が住めなくなった場所がいくつもできた」
フィンの表情が変わる。
市場の農夫も黙っていた。
「逃げた人間もいる。逃げられなかった人間もいる」
少し間を置く。
「多くの民が死んだ」
広場が静まった。
どこかから声がした。
「宝玉を渡したからなのか?」
レオンハルトは声の方を見る。
「分からん」
人々の間に小さな動きが出る。
「因果関係は証明されていない」
そこを誤魔化さなかった。
「その国は、宝玉を渡す前から灰化が進んでいた。宝玉を失ったから急速に悪化したのか。元々限界だったのか。俺には断定できない」
市場の男が声を上げた。
「じゃあ、帝国が正しいかもしれないってことか?」
「ああ」
即答だった。
今度ははっきりざわついた。
レオンハルトは待ってから続ける。
「帝国は、宝玉を集めて王冠を完成させれば、大陸の灰化を止められる可能性があると考えている」
「大陸を?」
「救えるのか?」
声が重なる。
「帝国も、必ず救えるとは言っていない」
また静かになる。
「俺も、帝国が嘘をついているとは言わん」
オルフェンが黙って聞いている。
「帝国の土地でも灰化は進んでいる。水も、畑も、住める場所も減っている。何もしなければ間に合わないと考えている」
一人の男が耐えきれず叫んだ。
「なら、何で渡さない!」
レオンハルトはその男を見る。
「渡したあと、この国が安全だとも言えないからだ」
男が黙る。
「帝国にも聞いた」
レオンハルトは続けた。
「宝玉を渡したあと、この国で同じことが起きないと保証できるか、と」
一拍。
「できない、と答えた」
広場のざわめきが低くなる。
「帝国は、民を受け入れるとも言った」
何人かが顔を見合わせた。
「王家や重臣も含めて、この国の民のおよそ半数だ」
広場がざわついた。
「半分?」
どこかから声が上がる。
「ああ」
レオンハルトは続けた。
「王家や重臣は別枠じゃない。その半分の中に入る」
ざわめきが少しずつ小さくなる。
「残りの半分については、保護を約束できないと言った」
「何でだ」
「帝国にも余裕がないからだ」
レオンハルトが答える。
「住める土地が減っている。食料も水も減っている。自分たちの民も移している」
前の方にいた女が、子どもの手を握り直した。
「だから、結局は誰を助けて、誰を残すかになる」
誰も口を挟まなかった。
「俺は、それを受け入れなかった」
◇
広場の中ほどから声が上がった。
昨日、ハインへ娘の話をした男だった。
「でも、戦争になったら人が死ぬだろ」
城門近くにいたハインが男を見る。
「兵士も死ぬ」
「ああ」
レオンハルトは認めた。
「町も焼けるかもしれない」
「ああ」
「子どもだって死ぬかもしれない」
「ああ」
逃げなかった。
男の声が詰まる。
「だったら、何が違うんだよ」
レオンハルトは少しだけ黙った。
「戦争はしたくない」
男を見る。
「宝玉以外で済むなら、俺はその話をする」
そして続けた。
「だが、戦争が怖いから先に、お前たちの誰かを諦めるとは言えん」
誰も声を出さなかった。
「宝玉を渡して、何も起きないかもしれない」
レオンハルトは言う。
「帝国の言う通り、それが大陸を救う道かもしれない」
自分に不利なことまで、そのまま口にする。
「俺の判断が間違っている可能性もある」
フィンは顔を上げた。
その言い方を知っていた。
分からないものを、分かったとは言わない。
見ていないものを、見たとは言わない。
山間村でもそうだった。
王の服を着ていても、そこは何も変わっていない。
「それでも」
レオンハルトが続ける。
「一度、宝玉を渡したあとに国が死んでいる」
声が少し低くなる。
「俺はそれを知っている」
広場は静かだった。
「知っていて、お前たちで試すことはできない」
昨日まで壁に書かれていた言葉。
宝石より民を守れ。
レオンハルトは言った。
「俺が守りたいのは宝玉じゃない」
人々を見る。
「ここにいる人間だ」
◇
しばらく誰も口を開かなかった。
市場の農夫が最初に息を吐いた。
「……なんだよ」
隣の商人が見る。
「何が」
農夫は壇上のレオンを指した。
「最初から言えよ」
誰かが小さく笑った。
「言えなかったから今日言ってんだろ」
別の者が返す。
「それもそうか」
農夫はレオンを見たまま言った。
「俺、あいつと市場で話したことあるんだ」
「さっきから言ってるだろ」
穀物商が返す。
「お前との喧嘩止めに来た」
「お前との喧嘩だろ」
「両方だ」
農夫は構わず続けた。
「俺は麦を高く買えって言った。こいつは無理だって言った」
「また始めるな」
「レオンは俺の味方しなかった」
周りの何人かが見る。
「こいつの味方もしなかった」
農夫は隣の商人を指す。
「両方から話を聞いてた」
穀物商が肩をすくめた。
「面倒な奴だったな」
「今もな」
農夫はしばらく壇上を見ていた。
「でもよ」
声から笑いが消える。
「あいつが、宝石が惜しくて俺たちを死なせるって?」
首を振った。
「それはねえよ」
穀物商もレオンを見る。
「ああ」
別の場所から声が上がった。
「俺も知ってる」
荷車の男だった。
「あいつ、何も言わず一緒に押してたぞ」
「王様が?」
「だからその時は知らなかったんだって!」
少しだけ空気が緩む。
麦粉店の主人も前を見る。
「うちじゃ普通に芋買ってたな」
「それは王でも買うだろ」
「そうだけどよ」
誰かが言った。
「俺、酒飲んだことあるぞ」
「王様と?」
「今思えばな」
あちこちから、同じような声が出始める。
大きな功績ではない。
歴史書に残るようなことでもない。
ただ、町のどこかにいた。
誰かと話した。
何かを手伝った。
一緒に酒を飲んだ。
王として知られていなかったからこそ、人々の中にそういう記憶が残っていた。
ガルドが声を上げた。
「俺は王様のことは知らん」
大柄な男の声はよく通った。
「昨日まではな」
何人かがガルドを見る。
「でも、レオンなら知ってる」
広場が静かになる。
「何度も一緒に仕事した。強い。無茶する。人の話を聞かねえ時がある」
壇上から声が飛んだ。
「聞いてる」
ガルドが顔を上げる。
「そういうところだ」
今度は広場のあちこちで口元が緩んだ。
ガルドは続ける。
「報酬より先に、人が帰れるかを見る奴だ」
空気が変わる。
「逃げ道がなけりゃ、そっちを先に見る。誰かが転んでりゃ戻る」
レオンを見る。
「宝石のために人を捨てる男じゃねえ」
一拍。
「俺はレオンを信じる」
フィンの胸の奥で、何かがほどけた。
昨日、自分が言った。
レオンさんなら、そんな宝石よりみんなの方を先に考える。
王様も、レオンさんみたいな人だったらいいのに。
その二人は、最初から同じ人だった。
「私も」
声が出た。
思っていたより大きかった。
周りがフィンを見る。
フィンは壇上のレオンを見る。
「私も、レオンさんを知ってます」
一瞬迷う。
「……陛下」
レオンハルトの眉が僅かに動いた。
フィンも自分で違和感を覚えた。
「やっぱり今はレオンさんでいいですか」
「俺に聞くな」
「誰に聞けばいいんですか!」
広場の緊張が僅かにほどける。
フィンは一度息を吸った。
「私、最初の依頼で死にかけました」
今度は誰も笑わない。
「その時、レオンさんに助けてもらいました」
牙鼠。
動かなかった足。
自分の前へ入った背中。
「でも、そのあと褒めてもらえませんでした」
レオンハルトが口を開く。
「褒めるところがなかった」
「ほら!」
フィンが思わず返した。
ガルドが横で鼻を鳴らした。
「いつものレオンだな」
フィンはそのまま続ける。
「何で周りを見なかったって言われました。村でも、魔物を倒した数より、誰か死んでないかを先に見てました」
山間村。
死者はゼロだった。
「何匹倒しても、村人が死んだら同じにはならないって」
フィンはレオンを見る。
「だから私は、信じます」
声はさっきより静かだった。
「王様だからじゃなくて」
少しだけ口元を緩める。
「レオンさんだから」
市場の農夫が声を上げた。
「俺もだ」
すぐ隣から、
「ああ」
と返る。
「俺もレオンなら知ってる」
「うちにも来た」
「俺は話したことないぞ」
「じゃあ今見ただろ」
「そういう話か?」
人々の声が重なっていく。
昨日まで壁へ文字を書いていた者が誰だったのかは分からない。
王を疑っていた者もいる。
宝玉を渡せばいいと言っていた者もいる。
戦争が怖いのは変わらない。
それでも、今は誰がその判断をしたのかを知っていた。
遠い王ではなかった。
自分たちの中にいた男だった。
一人が叫んだ。
「信じるぞ、レオン!」
別の場所から声が返る。
「変なこと隠すなよ!」
レオンハルトが眉を寄せる。
「何でも言えるわけないだろ!」
「じゃあ言えることは言え!」
一瞬置いて、レオンハルトが返した。
「それはそうする」
今度は、何人も頷いた。
「戦争はどうする!」
後ろから声が飛んだ。
広場が少し静かになる。
レオンハルトはそちらを見る。
「俺たちから始める気はない」
はっきり答えた。
「帝国が宝玉以外の道を選ぶなら、話す」
少し間を置く。
「それでも向こうが国境を越えるなら」
腰の剣へ触れることはしなかった。
「守る」
短い言葉だった。
「この国を?」
誰かが聞く。
「ああ」
レオンハルトは答えた。
「お前たちをだ」
声が上がった。
今度は、昨日までの怒号とは違った。
陛下。
王様。
レオン。
呼び方は揃わない。
それでも、向いている先は同じだった。




