44日前 宝石より民を ①
朝、王城へ続く石壁に文字が増えていた。
見つけたのは、夜番を終えた兵だった。
黒い炭のようなもので、大きく書かれている。
宝石より民を守れ。
兵はしばらくそれを見たあと、隣の兵を呼んだ。
「これ、報告するよな」
「するだろ」
「誰に?」
「俺に聞くなよ」
二人で文字を眺める。
通りを歩く人間も、少しずつ気づき始めていた。
足を止める者。
見ないふりをする者。
何か言いたそうにして、そのまま通り過ぎる者。
騒ぎになる前に、報告は王城へ届いた。
◇
「犯人を探しますか」
オルフェンが聞いた。
レオンハルトは机の上の報告を見ていた。
宝石より民を守れ。
「何した」
「今のところ、何も」
「なら消せ」
「それだけで?」
「ああ」
オルフェンは少し待った。
「夜中に王城近くの壁へ落書きをした者です」
「壁に字を書いた」
「王への批判を」
「だから何だ」
オルフェンが眼鏡の位置を直す。
「警備上、見過ごしてよい行為ではありません」
「壁を壊したわけでも、人を殴ったわけでもない」
「次も同じとは限りません」
「次に何かしたら、その時考えろ」
オルフェンは何も言わなかった。
「探すな。見せしめもいらん」
「警備は?」
「今まで通りだ」
「増やさない?」
「壁に字を書く奴を捕まえるために兵を増やしたら、余計に暇に見える」
「城の警備兵に聞かせたい言葉ですな」
「聞かせるな」
「承知しました」
紙をまとめる。
「消したら終わりだ」
「そうなるとよいですが」
ならなかった。
昼前には、別の通りで文字が見つかった。
戦争をするな。
さらに少し離れた倉庫の壁には、
宝玉一つで何人死ぬ。
最初の文字とは書き方が違った。
使ったものも違う。
一つは炭。
一つは赤土を溶いたもの。
もう一つは、何かの塗料だった。
午後には、王城から離れた地区でも見つかった。
「一人ではありませんな」
オルフェンが言った。
「見れば分かる」
「最初に書いた者を捕まえて終わる話ではなくなりました」
「最初から捕まえる気はない」
「存じております」
レオンハルトは報告書を机へ置いた。
誰かが命じて書かせている可能性はある。
帝国が手を回している可能性も。
だが、すべてそうだとは思わなかった。
最初の一人が誰だったとしても、二人目、三人目まで同じ理由で動いたとは限らない。
「全部、帝国が書かせてると思うか」
「いいえ」
オルフェンの返事は早かった。
「最初の火種に手を加えている可能性はあります。しかし、燃える物がなければ広がりません」
「そうだな」
そこだけは、帝国のせいにできなかった。
◇
市場では、昼を過ぎても宝玉の話が続いていた。
「王にも理由はあるだろ」
声を上げたのは、以前から市場へ出入りしている職人だった。
「理由があるなら言えばいい」
反対側から声が返る。
「昨日、発表しただろ」
「安全が分からないってだけじゃないか」
「それが理由なんだろ」
「何が危ないんだよ」
「それは……」
職人が詰まった。
横から女が言う。
「宝玉を渡したら何か起こるかもしれないんでしょ?」
「何かって何だよ」
「だから、それは分からないって」
「分からない、分からないって、それで戦争になったらどうする」
誰かが鼻を鳴らした。
「王家の宝だから惜しいだけじゃないのか」
「あの王がそんなことするかよ」
すぐに別の声が上がった。
「そんな王って、どんな王だ?」
「どんなって」
「お前、王様と話したことあんのか?」
「ないけど」
「じゃあ知らねえだろ」
言われた男は黙った。
周りも静かになる。
国王レオンハルト。
名前は誰でも知っている。
王妃の名も。
王子と王女がいることも。
税を変えた年。
洪水のあとに倉庫を開いたこと。
北の街道を直したこと。
そういう話なら知っている。
だが、本人と話したことがあるかと聞かれれば、ほとんどの者にはなかった。
「悪い王だって言ってるんじゃない」
さっきの男が言った。
「ただ、俺たちは知らないだろ」
誰も言い返さなかった。
◇
王城の通用門では、ハインが交代の確認をしていた。
門を通る荷車の記録。
使用人の出入り。
武器預かり。
帝国使節が去っても、仕事そのものは大きく変わらない。
ただ、門の外から聞こえる声は変わった。
「兵隊さん」
呼ばれて、ハインが顔を上げた。
中年の男が立っている。
敵意があるようには見えなかった。
「何でしょう」
「一つ聞いていいか」
「答えられることなら」
男が少し言いにくそうに口を開いた。
「本当に戦争になるのか?」
「決まっていません」
「でも、なるかもしれない」
「はい」
嘘はつかなかった。
男は門の中を見た。
「その時、お前らは戦うんだろ」
「命令があれば」
「宝石を守るために?」
ハインは返事をしなかった。
男の後ろにいた女が腕を引く。
「もういいでしょ」
「いや」
男はそのままハインを見る。
「俺にも娘がいるんだ」
ハインの表情が少し動いた。
「……そうですか」
「お前は?」
一瞬迷った。
答える義務はない。
だが、隠すことでもなかった。
「娘が一人」
「いくつだ」
「四つです」
男は黙った。
さっきまでより、少しだけ困った顔をした。
「じゃあ余計に分からん」
「何がです」
「お前だって、娘残して戦争に行きたくないだろ」
ハインは門の横に立ったまま答えた。
「行きたくはありません」
男が意外そうに見る。
「兵士でも?」
「兵士でもです」
「なら何で」
「まだ、戦争すると決まったわけではありません」
「なったら?」
ハインは少し考えた。
「その時の命令に従います」
男の顔が険しくなる。
「結局それか」
女がもう一度腕を引いた。
今度は男も逆らわなかった。
二人が去ったあと、隣の若い兵が小さく息を吐く。
「よく怒りませんね」
「何にだ」
「宝石のために戦うのかって」
ハインは出入りの帳面へ目を戻した。
「俺も詳しく知らん」
「でも陛下のことは知ってるでしょう」
「少しはな」
「なら言えばよかったじゃないですか。そんな理由じゃないって」
ハインの筆が止まった。
「それを決めるのは俺じゃない」
若い兵は黙った。
しばらくして、ハインが付け足した。
「それに俺が『陛下を信じろ』って言って、あの人の娘が安全になるわけでもない」
「……そうですね」
「仕事しろ」
「はい」
門の外を、また何人かが通っていった。




