45日前 噂と不安
翌朝には、王都のあちこちで同じ話がされていた。
市場でも。
パン屋でも。
荷馬車の待機所でも。
帝国が欲しがったのは土地ではない。
王位でもない。
王冠の宝玉一つだけ。
そして、王がそれを断った。
「本当にそれだけなのか?」
市場の一角で、男が麦袋を抱えたまま聞いた。
向かいにいた商人が肩をすくめる。
「俺が知るかよ。みんなそう言ってるってだけだ」
「宝玉って、あれだろ。王冠についてる石」
「らしいな」
「それ渡せば帝国は帰るのか?」
隣で野菜を選んでいた女が顔を上げた。
「昨日、もう帰ったじゃない」
「そうじゃなくて、戦争にならないのかって話だよ」
「ああ」
男は麦袋を足元へ置いた。
「土地を取るっていうなら嫌だぞ。税を倍にするっていうなら、それも嫌だ。でも石一つなんだろ?」
「王家の大事なもんなんじゃないか」
「大事なのは分かるけどさ」
男は声を落とした。
「帝国と揉めるほどか?」
商人は答えなかった。
少し離れたところで、別の男が口を挟む。
以前、この市場で麦の買い取り価格を巡って商人と言い合っていた農夫だった。
荷台には、今日も麦が少ない。
「王にも理由があるんじゃないか」
「どんな?」
「知らん」
「知らんのかよ」
「知らんから、あるんじゃないかって言ってる」
周りから小さな笑いが起きた。
農夫はむっとした。
「何も考えず帝国に喧嘩売るほど馬鹿じゃないだろ」
商人が腕を組む。
「喧嘩を売ったとは決まってない」
「じゃあ帝国は諦めるのか?」
「それも知らん」
「何も知らねえな、俺たち」
今度の笑いは短かった。
誰かが言った。
「戦争になったら、畑はどうなるんだ」
それで会話が止まった。
麦を作る者にも、運ぶ者にも、売る者にも、笑って済ませられる話ではなかった。
「……だから理由を聞きたいんだよ」
最初の男が言う。
「宝玉がそんなに大事なら、大事だって言ってくれればいい」
農夫が少し考える。
「言えない理由なのかもしれん」
「それじゃ、こっちは分からんだろ」
「そうだな」
反論はなかった。
◇
昼前。
王都の掲示板に王城からの告知が張り出された。
人が集まる。
文字を読める者が声に出し、読めない者がその周りで聞く。
内容は長くなかった。
帝国から、王冠に収められている宝玉の譲渡要請があったこと。
国王レオンハルトが、その要請を拒否したこと。
宝玉を譲渡した後の王国の安全が確認できないこと。
帝国との戦争が決定したわけではないこと。
それだけだった。
「安全が確認できないって、どういう意味だ?」
読み終えた男へ、後ろから声が飛ぶ。
「書いてあるのはそこまでだ」
「宝玉を渡したら危ないってことか?」
「だから、それが分からんって書いてあるんだろ」
「何が危ないのかも分からないのか?」
「さあな」
別の女が掲示へ顔を近づける。
「戦争が決まったわけじゃないって」
「じゃあ大丈夫なの?」
「分からない」
朝から何度も聞かれた言葉だった。
分からない。
そればかりが増えていく。
誰かが言う。
「分からないから渡さないってこと?」
「そう読めるな」
「それで帝国が怒ったら?」
「だから戦争になるとは決まってないって書いてあるだろ」
「決まってないだけだろ」
少しずつ声が増えた。
怒鳴っている者はいない。
王を罵る者も、まだほとんどいない。
ただ、誰も納得していなかった。
掲示に書かれていることは嘘ではない。
だが、知りたいことはそこにはなかった。
「宝玉を渡したら、何が起きるんだ?」
誰かが聞いた。
答える者はいなかった。
◇
「難しい顔してるね」
ギルドの受付で、ミレイが言った。
フィンは椅子に座ったまま、依頼書ではなく窓の外を見ていた。
「そんな顔してます?」
「してる」
「どんな?」
「読めない依頼書を三日眺めてる顔」
「読めますよ」
「じゃあ四日」
「増やさないでください」
ミレイが笑う。
フィンは少しだけ笑って、それからまた黙った。
昼を過ぎてもギルドでは宝玉の話が続いている。
帝国の使節が来たことは以前から噂になっていた。
その目的が分かったのは昨日だ。
冒険者たちも、それぞれ好き勝手に話していた。
「俺なら渡すけどな」
酒を飲んでいた男が言った。
向かいの男が鼻を鳴らす。
「お前の石じゃないだろ」
「国の石でも俺の石じゃねえよ」
「王冠だぞ」
「俺、被らんし」
「被ったら似合うぞ」
「馬鹿にしてんのか」
近くで笑いが起きる。
ガルドは酒の入っていない杯を置いた。
「表に出てる話だけで決めても仕方ねえだろ」
「でも王城から発表出たぞ」
「それが全部だって、誰が言った」
「王城が言わないなら分かんねえじゃん」
「そりゃそうだ」
ガルドはあっさり認めた。
「分からんうちは、分からんでいい」
若い冒険者が眉を寄せる。
「戦争になるかもしれないのに?」
「だからって、お前が今ここで答え出して何か変わるか?」
「変わらないけどさ」
「なら依頼行け」
「今日は休みだよ」
「じゃあ飲め」
「昼だぞ」
そんなやり取りを聞きながら、フィンはテーブルの木目を指でなぞった。
「私は、ちょっと分かりません」
ミレイが横を見る。
「何が?」
「王様です」
その一言で、近くの何人かが少し静かになった。
フィンは慌てて手を振る。
「悪い人だって言いたいんじゃなくて」
「分かってるよ」
ミレイが促す。
フィンは少し考えた。
「宝玉を渡したら危ないかもしれない。でも、本当に危ないかどうかは分からないんですよね」
「発表を読む限りは」
「それで断った」
「そうだね」
「帝国がどうするかも分からない」
「うん」
フィンは頬杖をついた。
「だったら……怖いです」
誰も笑わなかった。
「戦争になったら、死ぬのって兵士だけじゃないですよね」
ガルドが答える。
「ああ」
「村も、町もですよね」
「ああ」
山間の村が頭に浮かんだ。
柵。
共同小屋。
水を運んだ人たち。
棒を持って得意そうにしていた少年。
あの時は魔物だった。
帝国との戦争になれば、同じようにはいかないだろう。
フィンは唇を噛んだ。
「レオンさんなら……」
ノアがわずかに顔を上げた。
フィンは気づかない。
「そんな宝石より、みんなの方を先に考えると思うんです」
ガルドがフィンを見る。
「レオンならな」
「はい」
「でも王様には王様の事情があるんじゃねえか」
「分かってます」
そう答えたが、顔には納得していないと書いてあった。
ミレイが苦笑する。
「分かってない顔」
「だって、分からないんですもん」
「それはみんな同じ」
フィンはノアを見る。
「ノアさんはどう思います?」
不意に振られたノアは、杯を持ったまま少し止まった。
「俺?」
「はい」
「面倒なところに振るな」
「いつも何か知ってそうだから」
「それは偏見だ」
「知ってるんですか?」
「知らん」
嘘ではなかった。
帝国と王城の会談内容を、すべて知っているわけではない。
ただ。
レオンが、宝石を守るために人を危険へ追いやる男ではないことだけは知っている。
「まあ」
ノアは杯へ口をつける。
「理由もなく断ったとは思わない」
フィンが眉を寄せる。
「理由、知ってるみたいな言い方」
「知らんと言っただろ」
「怪しい」
「昔から怪しい顔なんだ」
「自分で言います?」
ミレイが吹き出した。
話はそこで一度切れた。
だが、フィンの表情は晴れなかった。
◇
王城では、昼の告知に対する反応が次々と集められていた。
オルフェンが紙束を机へ置く。
「予想より早いですな」
レオンハルトが一枚取った。
「何が」
「疑問が増える速度です」
市場でも職人街でも、荷車組合や酒場、王城前でも、似た話が出ていた。
宝玉とは何なのか。
なぜ危険なのか。
分からないのに、なぜ断ったのか。
戦争になるのか。
「公式に出したのにか」
「出したからでしょう」
レオンハルトが顔を上げる。
オルフェンは続けた。
「昨日までは噂でした。今日は王城自身が、宝玉の要求と拒否を認めました」
「安全が確認できないことも書いた」
「ええ」
「どこが足りない」
「何が危険なのか書いていない」
「断定できんからな」
「ですので、民から見ればこうなります」
オルフェンは一枚を取った。
「『何が起きるか分からないから帝国の要求を拒否した』」
レオンハルトは黙る。
「間違いではありません」
「またそれか」
「間違っていない話ほど扱いづらいものです」
レオンハルトは紙を机へ戻した。
「過去の国の件を出すか」
「出すなら、宝玉との因果関係が証明されていないことも出すべきでしょう」
「ああ」
「帝国が灰化を止めるために宝玉を求めていることも」
「ああ」
「王冠を完成させれば大陸を救える可能性があることも」
「ああ」
オルフェンが眼鏡越しにレオンハルトを見る。
「そうなると、短い告知では済みません」
レオンハルトは椅子の背へ寄りかかった。
自分に都合のいい事実だけ出せば簡単だった。
宝玉を渡した国は滅びた。
多くの民が死んだ。
それだけ話せば、恐らく拒否に賛成する者は増える。
だが、原因だと証明できていない。
帝国にも理由がある。
そこを隠せば、昨日帝国がやったことと変わらない。
「少し待て」
「どのくらいです」
「考える」
オルフェンが口元をわずかに動かした。
「では、今日中ということで」
「勝手に決めるな」
「期限がなければ、陛下は考え続けますので」
「便利だな、お前」
「仕事ですので」
レオンハルトは返事をしなかった。
◇
王都から離れた街道沿いで、帝国使節団は短い休息を取っていた。
馬へ水を与え、車輪を確認する。
護衛たちは周囲を警戒しながらも、王国内にいた時と同じように騒がない。
使節の補佐役が小さな紙を差し出した。
「王都側からです」
男は目を通した。
宝玉の要求。
国王の拒否。
その二点が広がっている。
「余計な話は?」
「今のところ確認しておりません」
「王が強欲だとか、王家の宝石を惜しんだとか」
「流しておりません」
使節は紙を畳んだ。
「今後も足すな」
補佐役が頷く。
「事実だけでよろしいのですか」
「事実だけでいい」
「ですが、それでは王への批判がどこまで広がるか」
「我々が決めることではない」
男は街道の先を見る。
昨日、正面から自分を見ていた王を思い出した。
「こちらが評価を足せば、ただの中傷になる」
「では」
「帝国が求めたのは宝玉だけ。王は拒否した」
それだけだった。
「どう考えるかは、あの国の民が決める」
◇
夕方。
ノアが王城近くの細い道を歩いていた。
表門へは向かわない。
何度か曲がり、人通りが少なくなったところで足を止める。
少しして、質素な上着を着た男が現れた。
「こんなところに呼び出すな」
レオンだった。
「城に入ったら俺まで偉い人扱いされる」
「お前は俺の知り合いだろ」
「だから面倒なんだよ」
二人は歩き出した。
しばらくは何も話さない。
レオンが先に聞いた。
「ギルドは?」
「宝玉の話ばっかりだ」
「そうか」
「フィンも聞いてた」
レオンの足が少しだけ遅くなった。
「何て言ってた」
「聞きたいか?」
「聞いたから答えろ」
ノアは前を向いたまま言った。
「王様の判断は分からないってさ」
レオンは黙った。
「戦争になったら怖いとも言ってた」
「ああ」
「それから」
ノアが横目で見る。
「レオンさんなら、そんな宝石よりみんなを先に考えるのに、だと」
レオンの足が止まった。
ノアも少し先で止まる。
「笑うところか?」
「いや」
「じゃあ何だ」
「面白いことになってると思ってな」
「他人事だな」
「お前のことだろ」
レオンはまた歩き始めた。
しばらくして言う。
「怒ってたか」
「フィンが?」
「民がだ」
ノアは少し考えた。
昼間の市場。
ギルドでの会話。
通りで聞こえてきた声。
「まだ違うな」
「何が」
「怒ってるっていうより、分からないんだ」
レオンがノアを見る。
「何で王が断ったのか。何で宝玉を渡したら危ないのか。戦争になるのか」
ノアは肩をすくめた。
「分からないまま、自分や家族が巻き込まれるかもしれない。それが怖いんだろ」
レオンは答えなかった。
「王様を嫌いになったわけじゃない」
ノアが言う。
「王様のことを、そもそもよく知らないだけだ」
その言葉だけが残った。
二人は王城へ続く道の手前で別れた。
レオンは一人で城へ戻る。
途中、城壁の向こうから王都の灯りが見えた。
城壁の向こうには市場があり、家々があり、ギルドがある。そのほとんどの人間は、国王レオンハルトを知らない。
自分は何度も彼らと話してきた。
酒も飲んだ。
値段の話も聞いた。
村へも行った。
だが、それは王としてではなかった。
話すなら。
半端には話せない。
レオンハルトは足を止めず、城内へ戻った。




