50日前 帝国の旗②
翌日。
帝国使節団が国境を越えた。
最初の報告は昼前に届いた。
問題なし。
次が午後。
問題なし。
その次も。
問題なし。
略奪なし。
住民への威圧なし。
宿場では人数分の料金を支払い、必要な食料や馬の世話にも代価を払っている。
隊列を崩さず、寄り道もない。
レオンハルトは三通目の報告を机へ置いた。
「本当に問題ないのか」
「問題がないことが問題になっておりますな」
オルフェンが言う。
「変な言い方をするな」
「陛下が疑っておられるので」
「疑うだろ」
「それが仕事です」
「ならお前も疑え」
「疑っております」
「顔に出てない」
「陛下ほどでは」
レオンハルトは次の紙を見る。
「護衛の様子は」
「担当者によれば、かなり統制されています」
「どの程度だ」
「隊列を崩さない。私語が少ない。休憩中も見張りを置く。装備の手入れも怠らない」
「精鋭か」
「少なくとも、経験の浅い兵だけを連れてきたわけではないでしょう」
礼儀正しい使者。
規律のある兵。
予定を守る移動。
余計なことはしない。
歓迎すべきことだった。
それでも、何を求めているのか分からない以上、警戒を解く理由にもならなかった。
扉が叩かれる。
「入れ」
ハインだった。
「陛下」
「どうだ」
「通用門と、客室から会談場所までの内部動線を確認しました。警備隊にも共有済みです」
「問題は」
「今のところありません。帝国側の護衛が王城へ入る場合、武器を預けてもらう場所だけ変更をお願いしました」
オルフェンが聞く。
「何故です」
「普段の預かり場所だと客室へ向かう使用人と動線が重なります」
「分かった。変更しろ」
「はい」
ハインが礼をする。
レオンハルトが思い出したように言った。
「そうだ。リゼットが城から出ようとしたら止めろ」
ハインが一瞬黙った。
「……陛下からお伝えいただけますか」
「何故だ」
「私が止めると、私が決めたように思われます」
「俺の命令だと言えばいい」
「それでも嫌われるのは私です」
オルフェンが紙から目を上げないまま言う。
「陛下はすでに日頃から小言を言われていますから、今さら一つ増えても問題ないでしょう」
「誰にだ」
「王女殿下に」
「嫌われてない」
ハインは真顔で頷いた。
「では陛下からお願いします」
「お前まで乗るな」
◇
使節団到着の日。
王都の空は晴れていた。
城壁の上には普段より多くの兵が立っている。
武器を構えているわけではない。
それでも門の周囲には、いつもとは違う緊張があった。
レオンハルトは王として城壁上の一角に立っていた。
今日は冒険者の革鎧ではない。
レオンハルトは濃い色の正装に身を包み、腰には剣を下げていた。少し後ろにはセシリアとエリオット、リゼットが並び、オルフェンとハインも控えている。
「まだですか?」
エリオットが街道を見る。
「さっきから五回目です」
リゼットが言った。
「姉上だって見てるじゃないですか」
「私は騎士の強さを見たいわけじゃありません」
「俺だってそれだけじゃないです」
「昨日はそれしか言ってなかったでしょう」
「今日は違います」
「何が?」
「旗も見たい」
「増えただけじゃない」
レオンハルトが二人へ振り返る。
「静かにしろ」
「はい」
二人同時に返事をした。
数分後。
街道の向こうに、小さな影が見えた。
最初は馬か人かも分からない。
やがて数が増える。
先頭を騎馬が進み、その後ろに馬車と護衛が続いていた。
隊列は長くない。
軍隊とは程遠い。
それでも近づくにつれて、城壁上の空気が変わった。
エリオットが身を乗り出す。
「見えた」
ハインがすぐに言う。
「殿下。前へ出すぎです」
「すみません」
エリオットが一歩戻る。
使節団がさらに近づく。
先頭近くを進む騎兵が持つ長い竿の先で、布が風を受けた。
広がる。
帝国の旗。
レオンハルトは黙って見た。
地図では何度も見ている。
報告書でも、その名を何度も読んだ。
他国が敗れたという知らせも。
新しい領地が増えたという記録も。
それでも、その旗が自分の国の街道を進んでくる光景は初めてだった。
リゼットが小さく言う。
「綺麗ですね」
エリオットが妹を見る。
「帝国の旗が?」
「旗そのものは」
「敵かもしれないのに?」
リゼットが弟を見る。
「まだ敵じゃないでしょう」
エリオットは答えなかった。
レオンハルトも何も言わなかった。
その通りだった。
まだ敵ではない。
城門前で使節団が停止する。
先頭の騎兵が馬を降りた。
王国側の兵が出る。
書類を確認する。
人数も武装も馬車の数も、事前の通告と一致していた。
門兵が城壁上を見る。
警備隊の責任者から合図が上がる。
ハインも内部へ戻るため動き始めた。
「開門します」
オルフェンが言う。
「ああ」
大きな音を立てて門が開き始めた。
帝国の旗が、王都へ入ってくる。
通りの左右には人が集まっていた。
通りには商人や職人だけでなく、子どもや老人まで集まっていた。
誰も近づきすぎない。
歓声もない。
罵声もない。
ただ見る。
帝国兵も民衆へ武器を向けない。
視線を前に置き、馬を一定の速度で進める。
馬車の車輪が石畳を鳴らした。
一台。
二台。
最後の騎兵まで門をくぐる。
リゼットが静かに息を吐いた。
「戦争には見えませんね」
「使節だからな」
レオンハルトが答える。
「このまま何もなければいいですね」
レオンハルトは街道の先を見た。
「そうだな」
◇
使節団は、そのまま王城へ入った。
護衛兵は指定された場所で武器を預けた。
拒否はない。
人数確認にも応じる。
荷物の確認にも。
何一つ揉めなかった。
使節の代表は四十代ほどの男だった。
派手さのない正装に、短く整えた髪。姿勢はよく、腰には剣も下げていなかった。
王国側が用意した応接室へ通されると、レオンハルトの前で深く一礼した。
「レオンハルト・ヴァレイン国王陛下。お迎えいただき、感謝申し上げます」
声も落ち着いている。
レオンハルトは王として椅子に座っていた。
右にオルフェン。
少し離れて王城警備の兵が控えている。
「長旅だったな」
「陛下のお国の方々には、道中大変よくしていただきました」
「問題はなかったか」
「一つも」
「それはよかった」
表面上は穏やかな会話だった。
使者も笑う。
レオンハルトも必要なだけ笑う。
しばらく形式的な挨拶が続いた。
季節。
道中。
宿場。
両国の商人。
重要ではないように聞こえる話ばかりだった。
だが、使者は余計なことを言わない。
レオンハルトも、今日聞くべきでないことまでは聞かない。
正式な会談は明日。
そう決まっている。
やがて使者が立ち上がった。
「本日は、まず到着のご挨拶までに」
「ああ。休むといい」
「ありがとうございます」
使者は深く一礼した。
そのまま退出するかと思ったところで、一度足を止めた。
「陛下」
「何だ」
「明日の会談では、我が帝国より一つ、お願いしたき儀がございます」
レオンハルトは使者を見る。
「お願い?」
「はい」
使者の表情は変わらない。
礼儀正しいままだった。
「我が国にとっても、陛下のお国にとっても、重要なお話になるかと存じます」
「内容は明日か」
「そのために参りました」
「分かった」
「では、明日」
使者がもう一度一礼する。
扉が閉じた。
しばらく誰も口を開かなかった。
オルフェンが先に言う。
「丁寧でしたな」
「ああ」
「道中でも問題を起こさない」
「ああ」
「好印象です」
レオンハルトが横を見る。
「お前、本気で言ってるか?」
「半分ほど」
「残りは」
「明日の話を聞いてから決めます」
「俺と同じじゃないか」
「長くお仕えしておりますので」
レオンハルトは立ち上がり、窓へ向かった。
王城前。
自国の旗が風を受けている。
その少し離れた場所には、来賓として掲げられた帝国の旗。
二つの旗が、同じ風の中で揺れていた。
レオンハルトはしばらくそれを見ていた。




