50日前 帝国の旗①
封蝋は、思ったより硬かった。
レオンハルトが指をかけても割れず、机の上から小さな封切りナイフを取る。
向かいではオルフェンが立ったまま待っていた。
刃を差し込む。
赤黒い蝋が割れた。
中から折り畳まれた厚い紙を取り出す。
レオンハルトは最初の一行を読み、視線を止めた。
「帝国か」
「ええ」
オルフェンの声には驚きがなかった。
「先に読んだのか?」
「宛名を?」
「中身だ」
「国王陛下宛ての封書を勝手に開封するほど、私は命知らずではありません」
「なら何故分かった」
「封蝋です」
レオンハルトは割れた蝋を見る。
「知っていたなら言え」
「聞かれませんでしたので」
「お前はそういうところがあるな」
「長くお仕えしておりますので」
何の答えにもなっていない。
レオンハルトは紙へ目を戻した。
文面は長くなかった。
挨拶。
両国の安寧を願う文。
大陸情勢が変化する中、両国の今後について協議したいという申し出。
そのため正式な使節団を派遣すること。
使節団は数日以内に王国の国境へ到着する予定であること。
議題については、直接会談の場で説明したいこと。
最後まで読んだ。
もう一度読む。
それから紙を机へ置いた。
「ずいぶん丁寧だな」
「帝国ですからな」
「意味が分からん」
「帝国だからといって、手紙に『従え』とだけ書いて送ってくるわけではありません」
「そういう国もある」
「長続きはしません」
レオンハルトは椅子へ座った。
帝国。
この国と直接国境を接しているわけではない。
間にはいくつかの国があり、そのうち幾つかはすでに帝国の支配下へ入っている。
戦争で敗れた国もある。
王自ら帝国へ降った国もある。
条約を結び、そのまま帝国へ組み込まれた国もあった。
やり方は一つではない。
だからこそ、何をしに来るのかが読めなかった。
「何故、今だ」
オルフェンが机の上の封書を見る。
「それを聞きに来るのでしょう」
「質問に質問で返すな」
「私にも分かりません」
「珍しいな」
「私は万能ではありません」
「知っている」
オルフェンは少しだけ眉を上げた。
レオンハルトは封書を指で叩く。
「使節は何人だ」
「記載はありません」
「護衛は」
「同じく」
「国境へ照会を出せ。人数、武装、馬車の数。分かる範囲でいい」
「手配します」
「国境の巡回も少し増やせ。ただし目立たせるな」
「どの程度を」
「普段の倍まではいらん。街道を見る回数を増やす程度でいい」
「王都は?」
「今のところ普段通りでいい。使節の詳細が分かってからだ」
オルフェンが頷く。
「軍は」
「動かさない」
「よろしいのですか」
「使者を迎えるのに軍を並べたら、こちらから喧嘩を売ることになる」
「帝国がそのつもりで来る可能性は」
「軍なら国境へ来る前に分かる」
「少数の精鋭なら」
「その時はその時だ」
オルフェンは小さく息を吐いた。
「陛下らしい」
「悪口か」
「評価です」
「同じだろ」
レオンハルトは再び封書を読む。
内容は変わらない。
丁寧だ。
礼儀もある。
命令ではない。
脅しでもない。
それが余計に気になった。
「断りますか」
オルフェンが聞いた。
「何を」
「会談です」
レオンハルトは封書を畳んだ。
「使者を門前払いする理由はない」
「では迎える」
「ああ」
「何を言われても?」
「それは聞いてから決める」
オルフェンが眼鏡を押し上げる。
「話を聞いた後なら、敵になる可能性もあると」
「話を聞く前から敵にする必要はないと言ってる」
「承知しました」
レオンハルトは封書を机へ戻した。
◇
翌朝。
王城の中には、もう話が広がり始めていた。
正式に発表したわけではない。
それでも、大きな国から使節が来るとなれば人が動く。
客室を確認する者。
食事の手配を相談する者。
馬を預かる場所を整える者。
門の警備について確認する者。
誰かが動けば、その理由を誰かが聞く。
朝食の席でも、エリオットが早速尋ねた。
「帝国の使者が来るのですか?」
レオンハルトはパンをちぎる手を止めた。
「誰から聞いた」
「訓練場で」
「誰だ」
「兵士です」
「名前は」
「何でそこまで聞くんです?」
「まだ正式に知らせていない話を、兵が勝手に広めるな」
「隠す話なんですか?」
「隠してはいない。決まっていないことまで好き勝手に話すなということだ」
エリオットは少し考えた。
「じゃあ、その兵士、怒られます?」
「ハインには伝える」
「告げ口みたいで嫌です」
「なら次から聞かなかったことにしろ」
「それも嫌です」
リゼットが隣で果物を切りながら口を挟んだ。
「父上、その人を首にしたりはしませんよね?」
「それだけではしない」
「怒る?」
「注意はされる」
「父上が?」
「ハインが」
エリオットが少し気の毒そうな顔をした。
「それは嫌ですね」
セシリアが静かに紅茶を置いた。
「二人とも、ハインを何だと思っているのです」
「真面目な人」
リゼットが答える。
「怒ると怖そうな人」
エリオットが続けた。
「本人の前では言うなよ」
レオンハルトが言う。
エリオットが父を見る。
「父上も思ってるんじゃないですか」
「何をだ」
「怖そうって」
「言ってない」
セシリアが話を戻した。
「いつ到着する予定ですか」
「早ければ二日後だ」
「随分急ですね」
「ああ」
「何のために?」
エリオットが聞いた。
「話をしに」
「何の話です?」
「分からん」
エリオットの顔に、明らかな不満が出た。
「使者なのに?」
「使者だから何でも先に教えてくれるわけじゃない」
「帝国の騎士も来るんですか?」
「護衛は来るだろう」
「強いんですか?」
「知らん」
「父上でも?」
「戦ったことがない」
「じゃあ見てみたいです」
「何をだ」
「帝国の騎士です」
リゼットが弟を見る。
「戦いに来るわけじゃないでしょう」
「分かってる」
「なら騎士が強いかどうかなんて、どうでもいいじゃない」
「どうでもよくない」
「どうして?」
「強い方が格好いい」
リゼットが父を見る。
「男の人って、みんなこんな感じなんですか?」
レオンハルトは少し考えた。
「違う」
エリオットがすぐに言う。
「父上も剣好きでしょう!」
「好きとは言ってない」
「毎日振ってるじゃないですか」
「必要だからだ」
「休みの日も」
「鈍るからだ」
「それ、好きって言うんじゃないですか?」
レオンハルトは答えなかった。
リゼットが笑う。
「父上、負けましたね」
「何の勝負だ」
セシリアも少し笑っていた。
しばらくして、彼女がレオンハルトへ視線を戻す。
「ただの挨拶ではないでしょうね」
エリオットとリゼットの会話が止まった。
レオンハルトも笑みを消す。
「帝国がわざわざ正式な使節を送ってくるくらいだからな」
「何を求めるかも気になりますが」
セシリアは一度言葉を切った。
「何故、今なのかが気になります」
レオンハルトは妻を見る。
同じことを考えている。
「最近のことと関係があると思うか?」
「分かりません」
セシリアは即答した。
「だから気になります」
井戸。
麦。
獣。
森。
まだ何一つ、同じ原因だとは証明されていない。
帝国からの使節も同じだった。
関係があるのか。
ただ時期が重なっただけなのか。
今はまだ分からない。
レオンハルトはパンを一口食べた。
「会えば分かる」
「相手が話してくだされば」
「話は聞く」
リゼットが父を見る。
「父上、外交ってもっと難しいことをするのかと思ってました」
「難しいぞ」
「今のところ『会って聞く』だけですよ」
「最初は大体それだ」
セシリアが静かに言う。
「その後が難しいのです」
「やっぱりそうですよね」
リゼットは納得した。
◇
昼。
冒険者ギルドにも、帝国の話は届いていた。
レオンが扉を開けた瞬間、奥から声が飛んでくる。
「帝国の使者が来るって本当ですか?」
フィンだった。
レオンは足を止めた。
「俺に聞くな」
「レオンさん、妙にこういう話に詳しいじゃないですか」
「何が」
「市場の値段とか、兵隊のこととか」
ノアが飲んでいた水を噴きそうになった。
レオンが横を見る。
ノアは口元を押さえている。
「どうした」
「何でもない」
「今笑っただろ」
「笑ってない」
フィンは首を傾げた。
「何ですか?」
「何でもない」
二人同時に答えた。
「怪しい」
受付のミレイが書類を束ねながら言う。
「帝国の使者が来るのは本当らしいわよ」
「何しに?」
「知らない」
「ミレイさんでも知らないんですか?」
「私を何だと思ってるの」
「大体何でも知ってる人」
「それは否定しにくいわね」
ガルドが奥の卓から口を出した。
「でかい国が小さい国に来るんだ。楽しい話だけってことはねえだろ」
フィンがそちらを見る。
「帝国ってそんなに怖いんですか?」
ガルドは杯を持ったまま考えた。
「国なんて大きくなりゃ大体怖い」
「雑すぎません?」
「じゃあ熊が小さかったら怖くねえのか」
「国と熊を一緒にしないでください」
「大きい方が怖いって話だ」
「全然違います!」
ノアが椅子にもたれた。
「怖いかどうかより、何しに来るかだろ」
フィンも少し真面目な顔になる。
「戦争とかじゃないですよね?」
「戦争する前に使節を出す国はある」
ミレイが言う。
フィンが嫌そうな顔をした。
「安心させてくださいよ」
「嘘を言っても仕方ないでしょう」
ガルドが肩をすくめる。
「今のところ使者だ。なら使者だと思っときゃいい」
「そうですね」
フィンはレオンを見る。
「王様、大変ですね」
レオンは一瞬だけ止まった。
ノアが横を向く。
「そうだな」
「面倒な話じゃなきゃいいですけど」
「そうだな」
今度はノアの肩が少し震えた。
レオンが睨む。
「何で笑ってる」
「笑ってないって」
「さっきから二回目だぞ」
フィンが二人を見る。
「今日変ですよ」
「いつもだろ」
ガルドが言った。
「それもそうですね」
「おい」
レオンだけが不満そうだった。
ミレイが一枚の依頼書をフィンへ渡す。
「帝国の心配する前に仕事」
フィンが受け取る。
「何です?」
「薬草採取」
顔が明るくなる。
「外ですね!」
「一人で行かない」
「分かってます」
「森の奥へ行かない」
「分かってます」
「勝手に魔物を追わない」
「分かってますって!」
ミレイはまだ見ている。
「何ですか」
「信用していいのか考えてる」
「ひどい!」
レオンは少し笑った。
フィンが振り返る。
「レオンさんまで!」
「何も言ってない」
「顔!」
「どんな顔だ」
「馬鹿にしてる顔です!」
前にも似たことを言われた気がした。
◇
その日の夕方。
国境詰所から、使節団についての第一報が届いた。
昨夜出した照会への返事ではない。
帝国側から国境の担当者にも事前通告が入り、それを受けた現地の役人が独自に早馬を出していた。
使節団は十五名。
使節本人と補佐役。
従者。
護衛兵。
馬車二台。
騎馬数頭。
武装は護衛に必要な範囲。
予定された街道を通る。
王国内で必要な物資を得る場合は、代価を支払う意向だという。
書かれている内容だけなら、問題はない。
レオンハルトは報告書を机へ置いた。
「十五」
「軍とは呼べませんな」
オルフェンが言う。
「護衛は何人だ」
「六」
「少ない」
「自信があるのでしょう」
「それか、本当に戦う気がない」
「どちらがお好みで?」
「後者」
オルフェンがもう一枚の紙を渡す。
「国境担当からの追記です」
レオンハルトが読む。
帝国の使節団は、通行許可を得るまで王国の境界を越えない。
周囲の村へ兵を入れることもない。
街道を塞ぐこともない。
レオンハルトは紙を置いた。
「行儀がいいな」
「良いことです」
「そうなんだが」
「問題を起こしてくれた方が楽でしたか」
レオンハルトがオルフェンを見る。
「追い返す理由にはなる」
「同感です」
「お前が言うな」
「陛下が先に仰いましたので」
レオンハルトは報告書をもう一度見る。
「王城警備隊には共有を」
「済ませています」
「ハインにも伝えろ。通用門と内部動線を見させる」
「承知しました」
「使節が滞在している間、エリオットとリゼットの城外行動は止める」
オルフェンが顔を上げる。
「王女殿下が残念がられますな」
「数日の話だ」
「陛下からお伝えを」
「何故俺が」
「父親ですので」
「こういう時だけそれを使うな」
「便利な言葉です」




