51日前 なんでもない1日 ①
オルフェンは、机の端に置いていた紙を一枚取った。
「昨日の夕刻に届きました」
レオンハルトは立ったまま手を伸ばす。
村から戻ったばかりの身体には、まだ旅の泥が残っている。
「どこだ」
「王都から離れた別の地域です。山間の村とはかなり距離があります」
紙を受け取る。
報告そのものは短かった。
井戸の水位が、例年より低い。
一部の畑で麦の育ちが悪い。
森の外で獣を見ることが増えた。
家畜が落ち着かないという話もある。
それだけだった。
レオンハルトは最後まで読み、もう一度最初へ戻った。
「死者は」
「いません」
「怪我人」
「獣に追われて転んだ者が一名。軽傷です」
「魔物は」
「確認されていません」
レオンハルトは紙を机へ置いた。
「なら、まだ何も分からんな」
「私も同じ意見です」
オルフェンは眼鏡を押し上げた。
「ただし、似ています」
「ああ」
山間の村で見たものが頭に浮かぶ。
浅くなった川。
森を離れる鹿。
痩せた魔物。
そして、その前から各地で増え始めていた、麦や水、獣についての報告。
場所は違う。
起きていることも、完全に同じではない。
「同じ原因とは限らん」
「ですから、調べます」
オルフェンは別の紙を差し出した。
「水位、作物、野生動物。これまで別々に上がってきた報告を、地域ごとにまとめさせます」
レオンハルトが受け取る。
「いつからだ」
「明朝から」
「早いな」
「誰かが勝手に森へ入りそうでしたので」
レオンハルトが顔を上げた。
「誰の話だ」
「さあ」
オルフェンは知らない顔で書類を揃えた。
「心当たりがおありで?」
「ない」
「それは結構です」
少し離れたところに立っていたハインが、わざとらしく視線を壁へ向けた。
レオンハルトは二人を見た。
「何だ」
「何も」
ハインが答える。
「お前もか」
「何のことでしょう」
「もういい」
レオンハルトは外套を脱いだ。
オルフェンが次の書類を揃える。
「今夜は以上です」
「そうか」
「ええ。残りは明日に」
レオンハルトは少しだけ意外そうに彼を見た。
「珍しいな」
「何がです」
「仕事を残した」
「陛下が帰城された初日の夜くらいは、こちらも加減いたします」
「初めて聞いた」
「私にも良心はあります」
「それも初めて聞いた」
オルフェンは答えなかった。
◇
翌朝。
食卓には焼いた卵と燻製肉、柔らかい白パン、それに果物が並んでいた。
レオンハルトが席につくと、セシリアの視線が肩へ向かった。
「肩は?」
「軽い」
「それは昨日も聞きました」
「なら変わってない」
「医務室には?」
「まだだ」
セシリアはパンへ伸ばしかけた手を止めた。
「朝食のあとに行ってください」
「もう痛くない」
「動かすと痛いでしょう」
「何故分かる」
「今、椅子を引く時に少し顔が動きました」
レオンハルトは自分の顔へ手を当てた。
「動いてない」
「動きました」
向かいでリゼットが笑いをこらえている。
その隣では、エリオットが父の肩より別のことに興味を示していた。
「本当に大型の魔物だったのですか?」
「大きかったな」
「どれくらい?」
「鹿より大きい」
エリオットの目が輝く。
「牙は?」
「長かった」
「爪は?」
「見た」
「父上は一人で倒したのですか?」
「一人じゃない」
「でも最後に倒したのは父上でしょう?」
「そうだな」
リゼットが果物を口へ運びながら言った。
「英雄だったそうですね」
レオンハルトがそちらを見る。
「誰から聞いた」
「ハイン」
今度はハインか。
「村でそう呼ばれたらしいですね」
「勝手に呼ばれただけだ」
「父上、英雄なんですか?」
エリオットが聞く。
「知らん」
「本人が知らないことあるんです?」
リゼットが笑う。
「英雄って、本人が申請するものではないでしょう」
「でも、父上は嬉しくないのですか?」
エリオットは本気で不思議そうだった。
レオンハルトは少し考えた。
「死者が出なかったのは嬉しい」
「英雄って呼ばれたことは?」
「別に」
「格好いいのに」
「そうか?」
「そうですよ」
エリオットは当然のことのように言う。
リゼットが父を見る。
「では今日から、城でも英雄とお呼びしましょうか」
「やめろ」
「英雄陛下」
「やめろ」
「父上、英雄陛下って変です」
「お前も乗るな」
セシリアが静かに笑った。
「食事中です」
三人が口を閉じる。
少しして、エリオットがまた父を見る。
「それで、その魔物の傷口は――」
「食事中です」
「はい」
今度は完全に黙った。
◇
午前の執務は、魔物とは何の関係もなかった。
村道の補修。
水路の清掃費用。
橋の板材。
兵士の冬用外套。
税の支払いを一か月遅らせたいという商人組合からの申請。
倉庫の屋根。
城壁の排水溝。
レオンハルトは一枚ずつ目を通した。
「この橋は去年も直しただろう」
「去年は欄干です」
オルフェンが答える。
「今年は床板です」
「来年は何だ」
「橋そのものでは」
「縁起でもないことを言うな」
次の紙。
「これは」
「倉庫です」
「雨漏り?」
「鼠です」
「倉庫に鼠が出たくらいで国王まで上げてくるのか」
「穀物倉庫です」
レオンハルトの手が止まる。
「どれくらい食われた」
「軽微です。現場で対処済み」
「なら何故俺のところへ来た」
「対策費の増額申請です」
「……魔物の方が分かりやすいな」
オルフェンが紙から目を上げた。
「魔物は追加書類を提出してきませんからな」
レオンハルトは何も言わず、署名した。
次。
今度は市場価格。
麦は高い。
麦粉も高い。
油も少し上がっている。
豆は大きく変わらない。
「まだ上がっているな」
「ええ」
「備蓄を出すほどか」
「現時点ではまだ」
「商人が抱えている可能性は」
「確認させています」
「北部の入荷量は」
オルフェンが別紙を出す。
「下がっています。ただし、収穫前の予測値も混ざっています」
「水は?」
「場所によります」
レオンハルトは椅子へ深く座った。
目の前には、今日だけで何十枚もの紙が積まれている。
一枚だけなら、小さな話だった。
麦が少し高い。
井戸が少し浅い。
獣を一頭見た。
家畜が一匹消えた。
どれも、それだけで国を動かす話ではない。
「まとめた資料はいつ上がる」
「早ければ数日です」
「急がせすぎるな」
オルフェンが少し意外そうな顔をした。
「珍しいことを仰いますな」
「急がせて間違った数字を持ってこられる方が困る」
「承知しました」
レオンハルトは次の紙へ手を伸ばした。
「まだあるのか」
「王様ですので」
「知っている」
◇
朝食のあと、レオンハルトは約束どおり医務室へ連れていかれた。
骨や関節に異常はなく、肩の打撲だけだと確認された。
ただし、今日一日は剣を振らず、重いものも持たないように。
そう念を押されている。
昼を少し過ぎた頃。
レオンは冒険者の服に着替えて、城下へ出た。
今日は剣も持っているが、依頼を受けるつもりはない。
市場を見るだけだ。
そう言った時、オルフェンは何も言わなかった。
何も言わないことが、かえって気味が悪かった。
西側の市場は相変わらず賑わっている。
野菜を積んだ荷車が通り、肉屋が値段を叫び、子どもがその間を走る。
焼いたパンの匂い。
香辛料。
魚。
人の汗。
どこかで夫婦が値段を巡って言い争っていた。
「高いって言ってるでしょう!」
「俺に言うな、仕入れが高いんだ!」
「昨日より二枚も高いじゃない!」
「なら昨日買っとけ!」
レオンが横を通る。
店主が気づいた。
「お、兄ちゃん」
以前にも何度か話した男だった。
「今日は何だ」
「買い物だ」
「嘘つけ。あんた買う時は迷わん」
「何で知ってる」
「前に芋一袋、値切りもせず買っただろ」
「値段は合ってた」
「そういうとこだよ」
レオンは店先の麦粉を見る。
「上がったな」
「まあな」
「いつからだ」
「じわじわ。急じゃねえよ」
店主は袋の口を結びながら言った。
「だから皆、文句は言うけど買う。買えない値段じゃない」
「仕入れは」
「前より少ない」
「どこから」
男はいくつかの地域を挙げる。
どれも知っている場所だった。
「他は」
「油も高い。豆はまだ普通。芋も今のところはな」
少し前にも聞いた話と大きくは変わらない。
レオンは麦粉の袋を一つ持ち上げようとして、医務室で言われたことを思い出した。
手を止める。
店主が眉を上げた。
「買うのか?」
「いくらだ」
店主が値段を言う。
「高いな」
「今それ言っただろ」
「値切ってみた」
「下手だな」
「そうか」
「王都で商売するなら向いてない」
「する予定はない」
店主は鼻で笑った。
「なら冒険者やってろ」
「そうする」
結局、麦粉は買わなかった。
「買わねえのかよ」
「荷物になる」
「何しに来たんだ」
「市場を見に」
「やっぱ買い物じゃねえじゃねえか」
後ろから怒鳴られた。
レオンは片手を上げて、そのまま歩いた。
角を曲がると、以前口論していた農夫の姿があった。
今日は怒鳴っていない。
野菜を積んだ荷車の横で、商人と話している。
向こうもレオンに気づいた。
「兄ちゃん」
「今日は喧嘩してないな」
「毎日してると思うな」
「違うのか」
「違う」
少し考えてから、
「週に二、三回だ」
「多いな」
農夫は笑った。
顔色は悪くない。
荷車にも、それなりの量が積まれている。
「畑は」
「去年より悪い」
「かなり?」
「まだ何とも言えん。雨一つで変わる」
「井戸は」
「少し下がった」
「獣は」
男が眉を上げた。
「何でそれ聞く」
「最近よく聞く」
「ああ。猪は出るな」
「増えた?」
「増えた気はする」
「気がする?」
「数えてないからな」
当然だった。
レオンは頷く。
「村は困ってるか」
「いつだって何かしら困ってる」
農夫は荷車の車輪を蹴った。
「去年は虫。その前は雨。今年は水と猪だ」
「そうか」
「農家なんてそんなもんだ」
その言葉を聞いて、少しだけ安心しそうになる。
だから厄介だった。




