54日前同日 魔物襲撃②
森から出てきたものを見た瞬間、誰も声を出せなかった。
これまでの魔物とは大きさが違う。
四足で立っているにもかかわらず、盛り上がった肩は柵の上へ出ていた。低く下げた頭が左右へ動くたび、その向こうにある松明の火が見え隠れする。
湿った土へ前脚が沈み、深い跡が残った。
さらに一歩進む。
今度は足音より先に、地面から震えが伝わった。
ガルドが盾を上げたまま呟く。
「でかいな」
狩人の顔も強張っている。
「こんな所まで来る奴じゃない」
大型魔物もまた痩せていた。
盛り上がった骨格を覆う肉が落ち、荒い呼吸のたびに大きな肋骨が浮き上がる。口元には泡が絡み、鼻先を忙しく動かしながら、家畜小屋から水場、血の匂いが残る場所へ頭を巡らせていた。
周囲にいた小型魔物が、大型から距離を取る。
それだけでガルドは盾の向きを変えた。
「俺でも正面は嫌だぞ、あれ」
レオンが近くまで来る。
「受けるな」
「言われなくても分かる」
大型の頭が逃げた家畜の方へ向いた。
二歩進んだところで、共同小屋側から声が飛ぶ。
「中へ! 扉閉めて!」
フィンの声だった。
続いて、小型魔物の甲高い鳴き声。
大型の頭が止まる。
鼻先がそちらへ向いた。
共同小屋の周りには、人がいる。
血の匂いもしている。
大型魔物が向きを変えた。
「まずい」
レオンが走る。
大型も同時に地面を蹴った。
途中には柵がある。
だが、止まらない。
「離れろ!」
衝突音が村全体へ響いた。
補強した板が大きく撓み、一本の柱が根元から傾く。
大型は一度だけ下がり、頭を振った。
もう一度。
今度は板だけでは済まなかった。
柱を埋めた土まで持ち上がり、縄が切れる。
柵の一部が内側へ倒れ、大型魔物がその上を踏み越えた。太い前脚の下で板が割れる。
村人が逃げる。
ガルドが盾を構えて前へ出かけた。
その横を通り抜けながら、レオンが叫ぶ。
「小さい方を止めろ!」
壊れた柵の外では、残っていた小型魔物が開いた穴を見ている。
ガルドは舌打ちした。
「そっちは一人でやる気か!」
返事はなかった。
レオンはもう走っている。
◇
フィンの周囲では、戦いが入り乱れていた。
自分が斬った魔物が地面で暴れ、その向こうでは弓を持った村人が別の一匹へ矢を放っている。さらに共同小屋へ回ろうとする影まで見えた。
どれを自分が倒したのか、どれがまだ生きているのか、途中から分からなくなっていた。
ただ、ここを抜かせてはいけない。
それだけは分かる。
一匹が正面から来る。
フィンは身体が沈むのを見て横へ外し、すれ違いざまに脇腹へ剣を入れた。
振り返るより先に、別の鳴き声がする。
そちらへ顔を向けた瞬間、地面が揺れた。
最初は何が来たのか理解できなかった。
壊れた柵の向こうから入ってきた影は、近づくほど輪郭が大きくなる。
頭が低い。
そのため余計に全体の高さが掴みにくい。
それでも、フィンの目の高さにあるのが顔ではないことだけはすぐに分かった。
盛り上がった肩だった。
「……え」
その一瞬を、小型魔物は待ってくれなかった。
横から飛び込まれ、フィンは咄嗟に剣を上げる。前脚を完全には避けられず、肩へ身体が当たった。
足がもつれる。
片膝をついた。
それでも剣は離さない。
小型が振り返る。
その向こうから大型も来る。
共同小屋の入口で、扉が閉まる音がした。
フィンは立ち上がった。
逃げれば、その後ろに小屋がある。
目の前の小型なら、まだやれる。
さっきも倒した。
今も動きは見えている。
だが、大型は違った。
近づくほど、身体の大きさより重さが伝わってくる。頭を振るだけで低い枝が折れ、一歩踏み込むたびに湿った土が沈んだ。
小型魔物が再び来る。
フィンは横へかわして斬った。
刃が脇腹へ入り、相手が横へ流れる。
そこへ剣を返そうとした瞬間、大型が地面を蹴った。
速い。
あの身体で。
そう思った時には、もう目の前だった。
フィンは横へ飛ぶ。頭そのものは避けたが、続けて振られた前脚が革鎧の肩を掠めた。
直撃ではない。
それでも身体ごと持っていかれ、足が地面から離れた。肩から落ちた瞬間、肺の空気が一度に抜ける。
剣が手から滑り、少し先の泥へ転がった。
起きなければならない。
頭では分かっているのに、地面へついた腕にうまく力が入らない。
どうにか顔を上げると、大型魔物がこちらへ向き直っていた。
低い頭の向こうには、閉じた共同小屋の扉がある。
フィンは剣へ手を伸ばした。
遠い。
大型の前脚が上がる。
間に合わない。
「伏せろ!」
聞き慣れた声がした。
フィンが反射的に頭を下げる。
次の瞬間、頭上で激しい金属音が弾けた。
レオンがフィンの前へ入り、両手で握った剣を斜めに立てていた。
振り下ろされた前脚と刃がぶつかっている。
レオンの靴が泥を削り、身体が押される。
一歩。
そこで止まった。
大型魔物がさらに前脚へ体重を乗せる。
剣を握るレオンの腕に力が入り、肩が沈んだ。
それでも膝はつかない。
「……重いな」
言った直後だった。
レオンが踏み込む。
押し込まれていた剣を、身体ごと捻るように外へ振った。
大型の前脚が弾かれ、巨体がわずかによろめく。
フィンは目を見開いた。
今、自分を地面へ転がした脚だった。
レオンは大型が体勢を戻す前に懐へ入り、右前脚の内側へ剣を走らせた。
血が散る。
大型が怒りの声を上げて脚を引いた。
「立てるか」
レオンは振り返らない。
フィンは息を吸い、どうにか身体を起こした。
「……はい」
「剣拾え」
「でも」
「小さいのが残ってる」
見ると、さっき斬った魔物がまだ地面でもがいている。壊れた柵の方からも小型魔物が村へ入り込んでいた。
遠くではガルドが盾を構えている。
「こっちは止める!」
その反対側からノアの矢が飛び、小型魔物の進路を変えた。
レオンは大型だけを見ている。
「そっちを頼む」
「……はい!」
フィンは泥の中の剣を拾い、走った。
その背後で、大型魔物が咆哮した。
◇
大型は、先ほど斬られた右前脚を庇いながらレオンへ向きを変えた。
それでも動きは速い。
頭を低く落とし、そのまま巨体ごと突っ込んでくる。
レオンは正面で待った。
大型との距離が一気に縮まる。
あと数歩。
その瞬間、レオンは斜め前へ踏み込み、頭の横を抜けた。
すれ違いざま、剣が再び右前脚を裂く。
大型は数歩先で身体を止め、土を蹴り上げながら振り返った。
レオンもすでに向きを変えている。
怒った大型が前脚を横薙ぎに振るう。
今度は受けなかった。
身体を低くして内側へ入り込み、爪が頭上を通り過ぎるのと同時に、肩口へ剣を入れる。
刃を抜いて離れた。
大型が追う。
レオンは後ろへ逃げるのではなく、巨体の周囲を回るように位置を変えていく。
頭が来れば外れ、前脚が来れば内側へ入る。
一度斬った場所へ、もう一度剣を入れる。
フィンは小型魔物と戦いながらも、何度かそちらを見てしまった。
自分には、あれほど速かった。
避けるだけで精一杯だった。
今も大型魔物が遅くなったわけではない。前脚が地面を叩けば泥が跳ね、頭を振れば風まで鳴る。
それなのに、レオンにはまともに触れられない。
大型が動いてから逃げているようには見えなかった。
肩が沈めば次に頭が来る。
前脚へ体重が移れば、その次にどこへ踏み込むのかが分かる。
レオンは、その少し前にもう動いていた。
「フィン!」
ガルドの声が飛ぶ。
フィンが振り向く。
小型魔物が迫っている。
今見るべきなのは、こっちだ。
剣を構え直した。
◇
大型魔物が苛立ったように頭を振った。
傷ついた右前脚から血が流れている。
レオンを追って何度も身体の向きを変えたせいか、荒い呼吸はさらに激しくなっていた。
それでも倒れる気配はない。
大型が突然、追うのをやめた。
頭を低くする。
レオンが足を止める。
次の瞬間、巨体が突進した。
今までで一番速い。
レオンは横へ外れようとした。
大型も頭を振る。
予想より広い。
「っ!」
頭の側面がレオンの肩を捉えた。
鈍い音とともに身体が横へ弾かれ、数歩先の地面へ転がる。
「レオン!」
フィンの声が上がった。
大型は止まらない。
倒れたレオンへ向きを変える。
レオンは片膝をつきながら立ち上がった。
剣は離していない。
一度だけ肩を回そうとして、顔をしかめる。
「……これは痛いな」
大型魔物が迫る。
ガルドが盾を前へ出した。
「行くぞ!」
「来るな!」
レオンが怒鳴った。
ガルドが止まる。
大型はもう近い。
レオンは傷ついた右前脚を見た。
最初の一撃。
二度目。
三度目。
同じ場所を斬っている。
大型が走るたび、右前脚だけ踏み込みが浅くなっていた。
レオンは剣を両手で握り直した。
逃げない。
大型の頭が迫る。
村人の誰かが息を呑んだ。
あと一歩。
そこでレオンが横へ出た。
巨体の正面から身体を外しながら、傷ついた右前脚へ剣を叩き込む。
先ほどまでのような浅い斬撃ではなかった。
両腕の力を乗せ、骨まで断つつもりで振り抜いた。
大型の脚が折れた。
巨体が前へ傾く。
勢いは止まらない。
残った三本の脚だけでは支えきれず、肩から地面へ突っ込んだ。
土が大きく跳ねる。
それでも大型は起きようとした。
左前脚で地面を掻き、低い頭を持ち上げる。
レオンが駆け寄った。
大型が頭を振る。
その一撃をかわし、首の横へ回る。
レオンは片手で首元の毛を掴んだ。
大型が起き上がろうとする。
「寝てろ!」
腕に力が入る。
持ち上がりかけていた巨大な頭が、再び地面へ叩き戻された。
周囲の村人が息を呑んだ。
レオンはそのまま首元へ膝を乗せ、両手で剣を握る。
一気に突き下ろした。
大型の身体が跳ねた。
まだ動く。
剣を抜き、今度は角度を変える。
二撃目。
刃が深く沈んだ。
大型の前脚が地面を掻く。
一度。
そこで止まった。
レオンはすぐに剣を抜かなかった。
しばらく巨体の動きを見てから、ようやく立ち上がる。
肩を庇うように片腕を少し下げていた。
周囲は静まり返っていた。
フィンも剣を握ったまま、倒れた大型とレオンを見ている。
あれを前にした時、自分は死ぬと思った。
今、その魔物が動かなくなっている。
レオンは肩を一度押さえた。
それから周囲を見た。
大型のことは、もう終わったものとして扱っている。
壊れた柵から入り込んだ小型魔物がまだ残っていた。
レオンが剣を上げる。
「まだだ!」




