54日前同日 魔物襲撃 ①
「多い」
狩人の声は小さかったが、夜の森を見つめていた全員の耳に届いた。
暗闇の奥で枝が折れる。一つではない。少し離れた場所でも鳴り、さらに右手から二つ続いた。
目を凝らしても何も見えない。ただ音だけが森の中で横へ広がりながら、少しずつ村へ近づいてくる。
ノアは腰を落としたまま耳を澄ませた。
「広がってる」
レオンも森へ目を向けていた。
月明かりは木々に遮られ、数歩先から奥は黒く沈んでいる。湿った土と枯れ葉の匂いに、獣のものらしい臭いが微かに混じっていた。
再び枝が鳴った。今度は近い。
「鐘」
その一言で、村人の一人が走り出した。
間もなく鉄を叩く硬い音が夜へ響き、一度、二度、三度と村全体へ広がっていく。
眠っていた家々に次々と灯りがつき、開いた扉から人が飛び出してきた。
「共同小屋!」
「子ども起こせ!」
「井戸!」
「家畜の方も見ろ!」
いくつもの声が重なった。
裸足のまま駆け出す者もいれば、上着へ腕を通しながら戸口を出てくる者もいる。それでも昨日決めた通り、子どもと高齢者は村の中央寄りにある共同小屋へ、火と水を見る者はその近くの井戸へ、戦える者は森側の柵へと分かれていった。
家畜小屋は共同小屋より森側にある。もし柵を抜かれれば、そこから村の中心までは近い。
レオンが村側へ振り返った。
「森側の柵へ戦える者だけ集めろ!」
「はい!」
「それ以外は決めた通りだ!」
返事が飛ぶ頃には、ノアはもう村の裏手へ向かっていた。
「川側も見る」
「頼む」
それだけ交わすと、ノアは暗がりへ消えていく。
ガルドは背負っていた丸盾を外し、革紐を締め直した。使い込まれた盾の縁を松明の火が鈍く照らしている。
「数、見えるか?」
狩人は森から目を離さず首を振った。
「まだ」
答えを待っていたように、乾いた枝がまた折れた。
続いて、枯れ葉を踏みしめる音。
一匹ではない。
レオンの手が剣の柄へ乗る。
「来るぞ」
◇
鐘の音で、共同小屋にいたフィンは目を開けた。
眠っていた時間は短い。頭が状況を理解するより先に身体を起こし、手は剣帯へ伸びていた。
周囲では子どもが泣き始め、高齢者を起こす声が飛び交っている。
「外に出るな!」
入口で誰かが怒鳴った。
フィンは剣帯を締めながら、足元に置いていた外套を掴んだ。急いでいるつもりはないのに、留め具へかけた指が一度滑る。
敷物の上では、昨日話した少年も身体を起こしていた。
「魔物?」
「たぶん」
「来た?」
「まだ分からない」
三度目の鐘が鳴り、小屋の壁まで震わせた。
剣帯を締め直したところで、少年が聞く。
「寝る係は?」
昨日、自分で言った言葉だった。
フィンは一瞬だけ少年を見る。
「終わり」
そこへ少年の母親が来た。
「ここは私たちが見る」
フィンは頷いた。
「外には出さないでください」
「分かってる」
少年が立ち上がろうとしたものの、母親が肩を押して座らせる。
「あなたはここ」
「でも」
「ここ」
言い返せなくなった少年を残し、フィンは入口へ向かった。
扉を開けると、冷たい夜気が頬へぶつかる。
外では人影が絶えず行き交っていた。桶を抱えて井戸へ走る者と槍を手に森側へ向かう者が交差し、遠くでは何本もの松明が揺れている。
怖くないわけではない。昨日、森で見た魔物の姿を思い出せば、握った剣の柄にも自然と力が入った。
それでもフィンは一度深く息を吸い、森側へ走り出した。
◇
最初に森から飛び出してきたのは、魔物ではなかった。
一頭の鹿が木々の間を抜け、それを追うようにもう一頭、さらに数頭が続く。蹄で畑の土を蹴り上げながら、村の横を凄まじい勢いで駆け抜けていった。
村へ向かっているのではない。
森から少しでも遠ざかろうとしている。
「鹿だ!」
誰かが叫んだ直後、今度は低い影が森から飛び出した。猪だった。その後ろには狐や兎らしい小さな獣まで混じっている。
どの獣にも人間を避ける余裕などなく、ひたすら森から離れる方向へ走っていく。
柵の前に立っていた村人が槍を構えたまま呟いた。
「何だ……?」
「逃げてる」
狩人の言葉に、村人が聞き返す。
「何から?」
「違う」
狩人は森を見たままだった。
「森からだ」
レオンも同じ方向を見ている。
獣たちは一度も後ろを振り返らなかった。
森の奥から、低く掠れた鳴き声がした。一つ目に重なるように別の声が続き、そのさらに奥でも何かが鳴く。
狩人が弓を上げる。
「来る」
枝の隙間に灰色の影が浮かんだ。
痩せた身体に、不釣り合いなほど長い前脚。
昨日、森で見たものと同じ種類だった。
一匹が姿を現すと、その横からもう一匹。さらに奥でも影が動く。
フィンが駆けつけた時には、すでに何匹もの魔物が柵の前へ出ていた。それでも木々の間ではまだ影が動いている。
どれもひどく痩せ、呼吸のたびに肋骨が浮き上がっていた。荒れた毛には泥や樹液らしきものがこびりついている。
一匹が鼻を上げた。
湿った鼻先を忙しく動かしながら、家畜小屋や水場、人のいる方へと頭を巡らせる。
「来るぞ!」
ガルドが盾を構えた。
一匹が走り出したのをきっかけに、何匹かが一斉に柵へ向かう。残ったものは左右へ散り、村を囲む場所を探るように動き始めた。
「柵から出るな!」
レオンの声が飛ぶ。
最初の一匹が板へ飛びついた。
ガルドは一歩踏み込み、丸盾の中央で身体ごと受け止める。鈍い衝撃が腕から肩へ抜け、踵が泥へ沈んだが、それでも下がらなかった。
盾の向こうで魔物が爪を立てる。
「横!」
兵役経験のある村人が、ガルドの脇から槍を突き出した。
穂先が魔物の身体へ入ると、傷ついた魔物が暴れて長い前脚を振り回す。ガルドは盾を押しつけたまま頭を村人から逸らし、槍を抜かせた。
「もう一回!」
男が槍を引く。
魔物が身体を捩じったところで、ガルドは盾を斜めへ滑らせた。支えを失った前脚が柵から落ち、身体が一瞬だけ横へ傾く。
「今だ!」
二本目の槍が脇腹へ深く入った。
掠れた鳴き声が上がる。
その横から別の一匹が飛び込んできたが、ガルドは盾を引き戻すより先に身体を捻り、肩からぶつかるように盾の縁を当てた。
灰色の身体が進路を外れ、地面へ転がる。
「前に出るな!」
村人たちへ怒鳴りながら、ガルドは立ち上がろうとする魔物の前へ入った。
「俺より前に出たら噛まれる! 横から刺せ!」
村人の槍先は震えていた。それでも、ガルドの背中が前にあるうちは踏みとどまれる。
一匹を盾で止め、左右から槍を入れさせる。次が来れば身体を入れ替え、その進路を塞ぐ。
ガルド自身が倒すというより、ガルドが立っている場所だけ戦線が動かなかった。
「次!」
その声に、村人たちも槍を構え直した。
◇
ノアは村の裏手にいた。
昼間に確認しておいた土塁は、森側の正面より低く、松明も少ない。
草を踏む音がして足を止めると、すぐ先の草むらが揺れた。
灰色の魔物が土塁を越えてくる。
その後ろから、もう一匹。
さらに少し離れた場所でも草が動いた。
「三」
ノアは小型弓を上げた。
最初の一匹がこちらへ頭を向ける前に矢を放つ。肩口へ刺さった魔物が前のめりに転んだが、二匹目は止まらず、その横を抜けて低い姿勢で迫ってくる。
次の矢を番える時間はない。
ノアは弓を背へ回しながら短刀を抜いた。
「槍、前!」
近くにいた村人へ声を飛ばす。
男が槍を握ったものの、顔は強張っていた。
「俺じゃなくて、そいつ見ろ」
魔物が走る。
村人が反射的に槍を突き出しかける。
「まだ!」
ぎりぎりで止めた直後、魔物がさらに距離を詰めた。
前脚が伸びる寸前、ノアは横へ外れた。爪が胸元の空気を裂き、すれ違った後脚へ短刀が走る。
着地した脚が崩れた。
「今!」
今度の槍は早くない。
倒れかけた身体の胸へ穂先が入り、魔物が大きく跳ねる。ノアは頭を避けながら横へ回り、首へ短刀を押し込んだ。
身体の力が抜けた。
「抜け」
「え?」
「槍」
村人は慌てて穂先を引き抜く。
「次が来る」
その言葉通り、三匹目が土塁を越えていた。さらに最初に矢を受けた一匹も、まだ起き上がろうとしている。
村人が青ざめた。
ノアは短刀についた血を一度払う。
「右の傷ついてる方、見てろ」
「お、おう」
「左は俺がやる」
「一人で?」
ノアは答えず走り出した。
左の魔物も同時に地面を蹴る。
正面から受けるつもりはない。ノアはわざと土塁の斜面へ寄り、魔物が同じ方向へ身体を傾けたところで急に向きを変えた。
前脚が柔らかい土へ深く入り、灰色の身体が沈む。
そこへ短刀を突き込む。
一度では止まらない。暴れる頭から離れ、位置を変えようとしたところで、後ろから村人の叫び声が上がった。
振り向くと、肩に矢を受けた魔物が槍へ飛びついている。
「押すな! 引け!」
村人が一歩下がる。
魔物の身体が伸びた。
「そのまま!」
ノアは拾い直した弓へ矢を番え、短い距離から放つ。
矢が首の付け根へ入った。
魔物が槍の脇へ崩れる。
男はしばらく動かなかった。
「……三匹」
「数えてる暇あるなら周り見ろ」
「お前が最初に数えたんだろ!」
「そうだった」
ノアはもう森を見ていた。
草はまだ揺れている。
◇
フィンは森側へ向かう途中で進路を変えた。
共同小屋へ続く細い道を、一匹の魔物が走っている。
どこかで柵を抜けたらしい。
その先にあるのは、さっきまで自分がいた小屋だった。
中にいる顔がいくつも浮かぶ。
「こっち!」
声に反応し、魔物が顔を上げてこちらへ向きを変えた。
フィンは剣を抜く。
昨日と同じ種類だった。だが今日は、レオンもガルドもそばにいない。誰からも指示は来なかった。
魔物が地面を蹴る。
身体が沈み、前脚へ力が入る。
昨日見た。
跳ぶ。
そう思った瞬間、フィンは左へ半歩外れた。
灰色の身体が目の前を抜け、長い爪が革鎧の胸元を掠める。それでも目を閉じず、着地した魔物が振り向くより先に剣を斜めへ走らせた。
刃が肩を裂く。
手首へ硬い抵抗が返る。
振り切らずに刃を抜き、すぐ距離を取った。
魔物が低く鳴いた。
まだ倒れない。
昨日なら、斬れたことだけで頭がいっぱいになっていた。
今は魔物だけではなく、共同小屋へ続く道と相手との距離、その左右まで視線を走らせる。
右手の家の陰で、別の影が動いた。
もう一匹。
フィンの手に力が入る。
二匹目が先に来た。
身体が沈むのを見て横へ逃がし、前脚へ剣を当てる。浅かったが、それでも勢いは少し落ちた。
そこへ最初の一匹が横から飛び込んでくる。
間に合わない。
矢が飛んだ。
傷ついた一匹の脇腹へ刺さり、魔物がよろめいた。
横を見ると、狩猟経験のある村人が弓を構えている。
「そっちは任せろ!」
フィンは一度だけ頷き、二匹目へ視線を戻した。
魔物の頭が下がる。
跳ぶ前に踏み込む。
剣を胸の下へ差し入れた。
刃が肉へ沈んだところで横へ逃げながら引き抜くと、魔物は数歩も進めず地面へ崩れた。
「フィン!」
共同小屋の入口から声がした。
少年の母親だった。
「後ろ!」
振り向く。
別の一匹が道へ入ってきている。
その奥でも人の叫び声がした。
何匹いるのか、もう分からない。
フィンは数えるのをやめた。
「中へ!」
少年の母親へ怒鳴る。
「扉閉めて!」
母親が小屋へ戻る。
フィンは道の中央へ立った。
後ろへ抜かせるわけにはいかない。
◇
家畜小屋の方で、木の割れる音がした。
「入った!」
山羊の甲高い鳴き声に、牛が板壁へ身体をぶつける音が重なる。
二匹の魔物が家畜の匂いを追って小屋へ向かっていた。
村人の一人が走り出そうとする。
レオンが腕を掴んだ。
「待て!」
「牛が!」
「縄を切れ!」
「でも!」
「放せ!」
男が振り向いた。
「冬どうするんだ!」
答えられる話ではない。
牛を失えば、冬を越せないかもしれない。逃がしたところで戻ってくる保証もない。
それでも、小屋へ飛び込めば先に食われる。
魔物が板壁へ前脚をかけた途端、中の牛が激しく暴れた。
レオンは男を見る。
「死んだら冬まで行けない」
男の顔が歪む。
やがて歯を食いしばり、腰の刃物を抜いた。
「……くそ!」
一本、二本と縄を切り、最後の一本を断って戸を開け放つ。
「出せ!」
牛と山羊、羊が一斉に飛び出した。
蹄が地面を叩く。
二匹の魔物がそちらへ顔を向け、一匹が山羊を追えば、もう一匹もその後へ続いた。
「行け!」
男が叫ぶ。
家畜へ向けたのか、魔物へ向けたのか、レオンには分からなかった。
その時だった。
森側から、今までとは違う音が響いた。
太い枝が折れる。
続いて、何かが木の幹へぶつかった。
周囲の魔物が一斉に顔を上げる。
レオンも振り向いた。
二度目の音は、さっきより近い。
狩人の声が飛ぶ。
「下がれ!」
ガルドが盾越しに森を見る。
「何が来る」
木々の間で、大きな影が動いた。
「下がれ!」




