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54日前 守る側、守られる側 ①

朝になっても、鹿たちは畑の近くに残っていた。


昨夜より場所こそ移しているものの、森へ戻った個体はいない。村人たちは少し離れたところから、不安そうに群れを眺めていた。


一頭の鹿が首を上げる。


近くにいる人間を見て、その後ろに広がる森へ顔を向ける。もう一度人間の方を見たが、それでも森へ戻ろうとはしなかった。


村長が顔をしかめた。


「このままじゃ畑を食われる」


隣にいた村人が頷く。


「追い払うか」


狩人は弓を持っていたが、構えようとはしなかった。


レオンが横を見る。


「追い払わないのか」


「今はな」


「何故だ」


狩人は鹿から目を離さない。


「追い返しても森へ戻らん」


「別の場所へ逃げるかもしれない」


「だったら、もう逃げてる」


鹿との距離は近く、周囲には十人以上の村人が集まっている。普段なら、それだけで森へ逃げ込んでもおかしくない。


狩人が言った。


「人を怖がってないわけじゃない」


実際、村人が一歩近づけば鹿も一歩下がる。耳が動き、いつでも駆け出せるよう脚にも力が入る。


それなのに、森側へは下がらない。


「人間より、森へ戻る方が嫌なんだ」


フィンが群れを見渡した。


「昨日より増えてますよね」


「ああ」


ノアが答える。


「夜の間にも下りてきたんだろうな」


村長がレオンを見る。


「どうする」


レオンは少し考えた。


「畑からは離す」


「追うのか」


「森には追い込まない」


ノアが畑の向こうを見た。


「川側に草地がある」


狩人も頷く。


「あそこなら畑じゃない」


「じゃあ、そっちへ流す」


レオンは村人たちへ向き直った。


「大声は出すな。走らせる必要もない。ゆっくりでいい」


村人たちは棒や農具を手に広がり、鹿の群れとの距離を少しずつ詰めていった。


鹿たちも固まったまま動き始める。


途中、一頭だけが森へ身体を向けた。


二歩ほど進んだところで立ち止まり、鼻先を上げて木々の奥を見つめる。


しばらくして、その鹿も向きを変えた。


フィンが小さく言う。


「やっぱり戻らない」


レオンは答えなかった。


◇


朝食を済ませると、王都へ戻る男が馬を引いて広場へ出てきた。


昨日のうちに村長が頼んでいた者だった。馬には水と食料、それに村からの報告書が積まれ、レオンが夜のうちに書いた紙も一緒に括られている。


ノアがその紙を横から覗いた。


「灰化って書いたか」


「書いてない」


「だろうな」


書かれているのは、森で実際に確認したことだけだった。


局所的に木々が枯れていること。土が異様に乾き、鳥や虫が減っていたこと。川と井戸の水位が下がっていること。そして複数の獣や魔物が、人里の方へ移動していること。


本来なら森の奥にいる魔物まで村の近くへ出てきたことと、村ではすでに防衛の準備を始めていることも添えた。


推測は書かなかった。


「城にも知らせるんだろ」


ノアが聞く。


「ああ」


レオンは紙の端を整えた。


「ギルドから城側にも共有するよう書いてある」


「ならいい」


報告を受け取った男が聞いた。


「急いだ方がいいか」


「無理はするな」


レオンが答える。


「馬を潰すな。着かなければ意味がない」


「分かった」


村長が水袋を渡し、別の女性が食料の包みを持たせる。


男は馬へ乗った。


「行ってくる」


「頼む」


馬が村の外へ出ていき、蹄の音が次第に遠ざかっていった。


村人たちはしばらくその背中を見送ったあと、それぞれの作業へ戻っていった。


◇


広場には、村中から使えそうな木材が集められていた。


長い板や短い杭、縄、それに古い柵から抜いておいた釘まで並べられている。


ガルドは一本の板を持ち上げて端を確かめた。


「こいつは使える」


次の板を手に取り、今度は首を振る。


「これは駄目だ。腐ってる」


村人が言った。


「まだ持つぞ」


「人が寄りかかるだけならな」


ガルドは板を地面へ置いた。


「魔物が体当たりしたら折れる」


「新しい木はそんなにねえ」


「全部替えろとは言ってねえよ。弱い所からやる」


森側の柵だけではなく、家畜小屋の周囲や人が通る細い道まで、順に傷みを確かめていく。


レオンも板を一本持ち上げた。


村人が慌てる。


「いや、それは俺らが」


「何でだ」


「冒険者に頼んだのは魔物の――」


「昨日見ただろ」


レオンは板を肩へ乗せた。


「魔物一匹倒して終わりじゃない」


「でも」


「柵の方が役に立つかもしれん」


村人は少し困った顔をした。


ガルドが笑う。


「諦めろ。こいつこういう奴だ」


「知り合いか?」


「長い」


レオンが見る。


「余計なことを言うな」


「何も言ってねえだろ」


フィンも板を一枚持ち上げた。


レオンがそちらを見る。


「無理するな」


「これくらいなら平気です」


「なら運べ」


フィンが少し意外そうな顔をした。


「今日は止めないんですね」


「止めるほど重くない」


「ちゃんと見てるんですね」


「見てなきゃ止められん」


「それもそうか」


ガルドが横から言う。


「朝から何の確認だ」


「私の信用度です」


「低そうだな」


「上げてる途中です」


「頑張れ」


「他人事ですね」


◇


ノアと狩人は、村の外周を歩いていた。


森側の柵から畑、川沿い、小さな丘までを順に見て回る。


村の裏手に来たところで、ノアが足を止めた。


「ここだな」


低い土塁がある。人ひとりなら簡単に越えられそうな高さだった。


「獣も入れるな」


狩人が言う。


「昔はここから来なかった」


「昔は?」


「森側の柵だけ見てりゃよかった」


ノアはしゃがみ込み、土に残った古い足跡を見る。


小型の獣。そのそばには別の種類の跡も残っていた。


「最近は?」


「川沿いからも来る」


「何が」


「狐、鹿。たまに猪」


ノアは立ち上がった。


「魔物は」


「まだ見てない」


二人はそのまま東側の丘へ向かった。


上まで登ると、村全体が見渡せる。


森側の柵、畑、家畜小屋、川。


狩人はそこから森を眺めた。


「昔はここまで来れば、森のことはだいたい分かった」


ノアが横を見る。


「どういう意味だ」


「風向きや鳥の鳴き方、鹿の動きだ」


狩人は鼻から息を吸い、次に耳を澄ませた。


「雨が降るか。獲物がいるか。でかい獣が近くにいるか。長く見てりゃ、何となく分かる」


「今は?」


狩人はすぐには答えなかった。


やがて森を見たまま言う。


「分からん」


ノアも同じ方を見る。


「俺が知ってる森じゃなくなってきてる」


それ以上、何も言わなかった。


◇


広場では、フィンが縄をまとめていた。


「ねえ」


後ろから声をかけてきたのは、昨日、共同小屋で話した少年だった。


フィンが振り向く。


「何?」


少年の視線は、フィンの腰の剣へ向いている。


「見せて」


「駄目」


即答だった。


少年が目を丸くする。


「何で?」


「危ないから」


「触らない」


「見るだけ?」


「うん」


フィンは少し考え、剣を鞘ごと腰から外した。


「じゃあ、これだけ」


少年の目が輝く。


「重い?」


「そんなに」


「持っていい?」


「駄目」


「見るだけって言っただろ」


後ろからガルドの声がした。


少年が振り返る。


「この人も冒険者?」


「そう」


フィンが答える。


少年はガルドを見上げた。大きな身体に斧と丸盾。


少しだけ後ろへ下がる。


ガルドが笑った。


「何だ、その顔」


少年は黙った。


「俺の方が強そうだろ」


フィンが横から言う。


「子ども相手に張り合わないでください」


「張り合ってねえ」


少年がフィンを見る。


「フィンも強い?」


「昨日見ただろ」


「見てない。聞いただけ」


「あ、そうだった」


少年は胸を張った。


「俺も冒険者になる」


「何で?」


「魔物倒す」


「それだけ?」


「強いから」


「誰が」


「冒険者」


フィンが少し笑った。


その時、後ろから女性の声がした。


「何してるの」


少年が肩をすくめる。


母親が籠を抱えて歩いてきた。


「邪魔しないの」


「邪魔してない」


「してる」


「してない」


「今、仕事してるでしょう」


少年の腕を取る前に、女性はフィンへ頭を下げた。


「すみません」


「大丈夫です」


「昨日もずっとあなたの話をしてて」


フィンが少し照れる。


「本当ですか」


「魔物を倒したって」


少年が口を挟む。


「強かったんだよ」


「見てないでしょう」


「聞いた」


「誰に」


少年は黙った。


母親がため息をついた。


「余計な所ばっかり耳がいいんだから」


フィンが笑う。


女性も少しだけ笑ったが、その表情はすぐに曇った。


「本当に、また魔物が来るんですか」


フィンの笑顔も消える。


「まだ分かりません」


「森の奥がおかしいって」


「はい」


女性は村の外へ目を向けた。


「夫が森の近くの畑へ出てるんです」


「今日は?」


「行ってます」


フィンが驚く。


「危なくないですか」


「危ないですよ」


女性は当たり前のことのように答えた。


「でも、畑は待ってくれないから」


「なら今日は休んで――」


そこまで言って、フィンは口を止めた。


女性が少し困ったように笑う。


「一日なら休めます」


フィンは黙る。


「二日でも、何とかなるかもしれない」


女性は籠を抱え直した。


「でも三日、その先も森が危なかったら?」


答えられなかった。


「食べるものを作る人がいなくなったら、今度はそっちで困るでしょう」


少年が母親を見る。


まだ話の意味を全部は分かっていない顔だった。


女性はその背中を押す。


「ほら。水運ぶの手伝うよ」


「剣まだ見たい」


「後」


「ほんと?」


「仕事したらね」


二人は歩いていった。


フィンはしばらく、その背中を見送っていた。


いつの間にかレオンが横へ来ていた。


「何だ」


「ちょっと考えてました」


「何を」


フィンは村を見る。


木材を運ぶ男がいる。縄を結ぶ女がいる。その間を、小さな桶を抱えた子どもが行き来している。


「冒険者が来て、村の人を守る。もっと、そういうものだと思ってました」


レオンも村を見た。


「俺たちが来る前から、この村はここにある」


「……はい」


「俺たちがいない日の方が多い」


それだけ言って歩き出す。


フィンはもう一度村を見回してから、その背中を追った。


◇


昼前。


村長の家では、簡単な村の見取り図を広げた机を囲んで話し合いが始まっていた。


レオン、村長、狩人、ガルド、ノア。それに何人かの村人が席につき、フィンは壁際から話を聞いている。


レオンが言った。


「一つ考えたい」


村長が見る。


「何だ」


「子どもと年寄り、それから怪我人を先に移せないか」


部屋が静かになった。


村長の顔が固まる。


「どこへ」


「近くの村」


「そこも獣が増えてるんだろ」


レオンは答えなかった。


「王都まで行けっていうのか」


「そこまでは言ってない」


「行く金もない」


別の村人も口を挟む。


「馬車も足りん」


「家畜はどうする」


「畑は」


「いつ戻れる」


次々に声が上がった。


レオンは止めず、最後まで聞いた。


やがて村長が言う。


「三日なら何とかなる。一週間でも、たぶん耐えられる」


そこで一度言葉を切った。


「だが、その先は?」


レオンは黙る。


村長も答えがないことは分かっていた。


「森がおかしいってのが一日で戻るのか」


「分からない」


「一週間で?」


「分からない」


「一か月なら?」


「分からない」


村長は机へ手を置いた。


「じゃあ、家を捨てろって言われても決められん」


フィンは村長を見る。


怒っているわけではなかった。


ただ、本当に決められないのだ。


狩人が言った。


「近くの村も同じなら、向こうへ行っても食い扶持が増えるだけだ」


ガルドが腕を組む。


「それもそうだな」


ノアは見取り図へ目を落とした。


「なら、逃げる先を一つに決めない方がいい」


村長が見る。


「どういうことだ」


ノアが図の上で指を動かす。


「森側から来たなら川沿いへ逃がす。川側なら丘の向こうだ。火が出た時に広場へ集めるのも危ない」


レオンが頷いた。


「今すぐ村を捨てろとは言わない」


村長を見る。


「ただ、何か起きた時に誰が誰を連れて、どこへ動くかは決めておこう」


「誰が誰を?」


「まず子どもと年寄りだ。集める人間を決める。歩けない者を運ぶ人間も必要になる」


見取り図の家畜小屋を指す。


「家畜を逃がすなら、誰が縄を切るのかも決めておく」


次に井戸へ指を移した。


「火が出れば水を運ぶ人間がいる。見張りも要る。戦える者は最後だ」


村長が眉を寄せる。


「人手は多い方がいいだろ」


「全員に武器を持たせるな」


レオンははっきり言った。


「使えない剣は味方を傷つける」


ガルドも頷く。


「怖くなったら振り回す。狭い村じゃそっちの方が危ねえ」


狩人も続けた。


「弓を触ったこともない奴に持たせても邪魔になる」


村長は少し考えた。


「戦えるのは、狩りをする者が六人。兵役経験があるのが二人だ。若い男なら他にも――」


「若いだけでは数に入れない」


部屋の端にいた若い男が、少し不満そうな顔をした。


レオンは村人たちを見回す。


「剣を持つことだけが、守ることじゃない」


誰も口を挟まなかった。


「子どもを集める奴がいる。怪我人を運ぶ奴がいる。火を消す奴も、逃げ道を空ける奴もいる」


レオンは見取り図へ目を戻す。


「前で戦う人間だけいても、村は守れない」


村長はしばらく黙っていた。


やがて頷く。


「分かった」

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