57日前 森から来たもの②
村へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
冒険者たちの姿を見るなり、村人の何人かが道へ出てくる。歓迎というより、ようやく来てくれたと安心した顔だった。
村長が前へ出た。
「王都からか?」
「ギルドの依頼で来た」
レオンが答えると、村長は深く頭を下げた。
その横には、四十代後半ほどの日に焼けた男が立っている。肩幅はさほど広くないが脚は太く、腰には短い鉈と小さな弓を提げていた。長く森を歩いてきた人間の身体だった。
男は四人の装備を順に見る。
「四人か」
「足りないか?」
ガルドが聞いた。
男は少し考えてから首を振る。
「数の問題じゃない。魔物を何匹か倒せば終わる話なのか、それが分からん」
レオンが男を見る。
「どういう意味だ」
男は村の向こうに広がる森へ目を向けた。
「魔物が増えたんじゃない」
「違うのか」
「下りてきてる」
フィンが聞く。
「何が?」
「色々だ」
◇
まず村の中を見て回った。
最初に案内された鶏小屋は板が割れ、内側に血の跡が残っていた。
「三日前だ」
村人が壊れた板を指す。
「夜中に何か入った」
「見た?」
ノアが聞く。
「影だけ。犬よりでかかった」
少し離れた畑には、猪が土を掘り返した跡が何本も残っていた。山羊小屋では一頭が死んでおり、首には牙鼠より明らかに大きな噛み傷がある。
さらに、腕へ布を巻いた村人が呼ばれた。
「森の端で襲われた」
「何に」
「分からん。灰色で、細長かった」
「一匹?」
「二匹見た」
ノアが傷口を覗き込む。
「噛まれた?」
「引っかかれた」
狩人も横から傷を見る。
「爪だな。俺はその時そこにいなかった。これだけじゃ種類までは分からん」
最後に村の井戸へ向かった。
フィンが縁から中を覗き込む。
「深いですね」
「前はもっと上だった」
村人の答えに、フィンは振り返ってレオンを見た。
市場で会った農夫の話が頭に浮かぶ。収穫の減少、下がった井戸の水位、畑へ出る猪、牙鼠。場所は違うのに、似た話がまた並んでいた。
「前にも、似た話がありましたよね」
「ああ」
「これも灰化なんですか」
レオンは井戸の底を見た。
「可能性はある」
フィンが少し驚いた顔をする。以前より踏み込んだ答えだった。
「でも、まだ決めつけるな」
「はい」
狩人が聞く。
「別の地域でも?」
「似た話がある」
「森も?」
レオンが狩人を見る。
「何かあるのか」
男は少し黙ったあと、森へ視線を戻した。
「見せる」
◇
午後、森へ入ったのはレオン、ノア、ガルド、フィン、それに村の狩人の五人だった。
村から近い場所には鳥の声も虫の羽音もあり、木漏れ日の落ちる獣道も人や獣に踏み固められている。
フィンは周囲を見ながら歩いた。
「普通ですね」
「ここはな」
狩人はそう答えただけだった。
しばらく進むと、季節にはまだ早いはずなのに落ち葉が目立ち始めた。さらに奥へ行けば、葉を落とした木が一本、二本と現れ、その先にも同じような木が続いている。
ノアがしゃがみ込み、地面を調べた。
「多いな」
レオンが聞く。
「何が」
「鹿と猪。それに小型魔物も混じってる」
「向きは」
ノアは重なった跡を指で追う。
「外だ」
フィンも覗き込んだ。
「村の方?」
「そうだ」
「人がいるのに?」
ノアは立ち上がり、森の奥へ視線を向ける。
「逆なんだよ。普通、人間が入れば獣は奥へ逃げる」
少し間を置いた。
「こいつらは、奥から出てる」
ガルドの顔から笑みが消えた。
「何かに追われてるってことか?」
「そうなら、その何かを確かめないとな」
狩人が歩き出した。
「こっちだ」
◇
さらに奥へ進むにつれて、森の音が少なくなった。
最初に鳥の声が消え、次第に虫の気配まで薄れていく。残ったのは、風に揺れた葉が擦れる音だけだった。
フィンも自然と声を落とす。
「静かですね」
誰も返さなかった。
足元の草は次第にまばらになり、土も目に見えて乾いていた。
やがて狩人が足を止める。
「ここからだ」
目の前には大きな木が立っていた。片側の枝にはまだ葉が残っているのに、反対側は白く乾き、完全に枯れている。
その周囲の低い草も、一部だけ色が抜けたように灰色がかっていた。
レオンはしゃがんで土をひとつまみ取った。指で握ってもまとまらず、乾いた粒がそのまま隙間から崩れ落ちる。
フィンも隣へしゃがむ。
「灰?」
「違う」
レオンは手の中の土を見る。
まだ灰ではない。ただ、周囲とは明らかに違っていた。
狩人が言う。
「もっと奥にもある」
レオンが顔を上げた。
「どれくらい」
「三つ」
「三か所?」
「俺が見つけた分だけだ」
「いつから」
「最初は一か月くらい前だ。もっと小さかった」
「広がってる?」
「たぶん」
ノアが森の奥を見る。
「鳥がいない」
「虫も少ないな」
ガルドが足元を見回した。
「餌がなくなりゃ、獣も外へ出る」
フィンが小さく続ける。
「じゃあ、魔物も……」
誰も否定しなかった。
その時、低い唸り声が聞こえた。
全員の動きが止まる。
ガルドがすぐに盾を前へ出し、ノアは短刀へ手を伸ばす。フィンも剣を抜いた。
藪が大きく揺れた。
姿を現したのは、狼ほどの大きさの小型魔物だった。長い前脚に灰色の毛、細い身体。肋骨が浮くほど痩せ、毛並みもひどく荒れている。
狩人が息を呑んだ。
「こいつなら見たことがある」
レオンは魔物から目を離さない。
「どこでだ」
「もっと奥だ。村からなら半日は入る」
魔物が低く唸る。
ガルドが一歩前へ出て盾を構えた。
「来るぞ」
魔物が地面を蹴った。
真っ直ぐガルドへ向かったかと思った瞬間、盾へぶつかる直前で横へ跳ねる。狙いを変えた先にいたのはフィンだった。
「フィン!」
レオンの声が飛ぶ。
魔物が跳びかかる。
フィンは左へ身体を逃がし、牙が肩の横を抜けたところへ剣を振るった。刃は肩を浅く裂き、灰色の毛と一緒に血が飛ぶ。
魔物は着地するとすぐに向きを変えた。
フィンは追わない。
一歩だけ下がって距離を取り、その間にガルドが再び自分と魔物の間へ入れる位置へ動く。ノアも横へ回っていた。
レオンは剣へ手をかけたまま、フィンの動きを見ている。
「周りを忘れるな」
「はい」
フィンは短く答えた。
魔物が再び跳ぶ。
今度のフィンは下がらなかった。左足を半歩前へ入れながら上体を外へ逃がすと、前脚が胸元をかすめて通り過ぎる。
その瞬間、右下から斜め上へ剣を入れた。
刃が腹へ食い込み、肉を裂く重い感触が手へ返ってくる。だが振り切らず、剣を引きながら自分の身体も離した。
魔物が地面へ落ち、勢いのまま転がった。
まだ動いている。
フィンはすぐには近づかなかった。
倒れた魔物だけに目を奪われず、ガルド、ノア、そして周囲へ順に視線を走らせる。
ほかに動くものはない。
魔物が起き上がろうとしたが、前脚に力が入らず再び崩れた。
フィンは一度息を吸い、距離を詰める。
魔物が頭を上げた。
剣先を首の付け根へ向け、そのまま踏み込んで突く。
魔物の身体が一度大きく震え、それきり動かなくなった。
森に静けさが戻った。
ガルドが盾を下げ、ノアも短刀から手を離す。
レオンは最後まで剣を抜かなかった。
フィンはその場に立ったまま、魔物の血と自分の手を交互に見る。指先が少し震えていた。
レオンが近づく。
「どうした」
フィンは息を吐いた。
「……まだ嫌ですね」
「何が」
「これ。殺すの」
レオンは短く答えた。
「嫌でいい」
フィンが顔を上げる。
「これ、慣れるんですか」
「必要な時に動ければいい」
フィンは少し黙ってから、自分が立っていた場所を振り返った。
「今度は、周りも見てましたよね」
「ああ」
「じゃあ、少しくらい褒めてもらっていいですか」
レオンが少し考える。
「前よりずっといい」
フィンが目を瞬く。
「今日は普通に褒めましたね」
「そうか?」
ノアが笑った。
「珍しいな」
ガルドは魔物の横へしゃがみ込み、浮き出た肋骨へ目をやった。
「痩せすぎだ」
フィンの表情が戻る。
レオンも魔物を見る。
骨の浮いた腹。荒れた毛。
「こいつ、まともに獲物が取れてなかったんだろうな」
ガルドの言葉に、狩人が頷く。
「だから、こんな所まで出てきたのかもしれん」
誰もすぐには続けなかった。
◇
狩人は倒れた魔物を見下ろした。
「こういう奴までここへ出てくるのは、初めてだ」
ノアが森の奥を見る。
「普段は半日も入ったところにいるんだろ」
「ああ」
ガルドが低く言う。
「そいつまで外へ押し出されてきた」
狩人が頷いた。
最初に村で言っていた意味が、今なら全員に分かった。
魔物が増えたのではない。
森の奥から下りてきている。
フィンが暗い木々の先を見る。
「もっと先も見ませんか」
「戻る」
レオンはすぐに答えた。
「でも」
「日が落ちる」
「まだ少しあります」
「知らない森だ」
レオンは立ち上がる。
「原因を探るには、装備も人数も足りない」
狩人が言う。
「俺なら案内できる」
「今日はここまでだ」
フィンは何か言おうとしたが、その前にガルドが口を開いた。
「山で欲張ると死ぬぞ」
フィンは黙る。
ノアも頷いた。
「見たものだけ持ち帰る。それでいい」
「戻る」
レオンが歩き出すと、今度は誰も反対しなかった。
◇
村へ戻った頃には、日が傾いていた。
待っていた村人たちが一斉に集まってくる。
「どうだった」
「何匹いた」
「奥に何がいる」
次々に飛んでくる質問へ、レオンが答えた。
「魔物は一体出た。倒した」
村人の何人かがほっと息をつく。
だがレオンは続けた。
「ただ、魔物を倒せば終わる話じゃない。森の奥から獣も魔物も出てきてる」
空気が変わった。
「どういうことだ」
「原因はまだ分からない」
「じゃあ、どうする」
レオンは少し考えてから村人たちを見る。
「まず夜は一人で村の外へ出るな。子どもも森へ入れるな」
村長が頷く。
「分かった」
「家畜はできるだけ中央へ寄せる。外側の柵も見直した方がいい」
ガルドが村の端を見た。
「補強なら手伝える」
ノアも周囲を見回す。
「見張り位置も変えた方がいいな。今の場所だと森側が見えにくい」
狩人が東を指した。
「丘の上なら森が見える」
「夜も?」
「晴れてればな」
フィンも口を開いた。
「鶏小屋みたいに村の端にあるものも、移せるなら中へ寄せた方がいいですよね」
ガルドが頷く。
「そうだな」
フィンは少し嬉しそうだった。
レオンは井戸の方へ目を向ける。
「それと、水位を測って記録してくれ。井戸と川、両方だ」
村長が聞き返す。
「水まで?」
「ああ」
「魔物と関係あるのか」
「分からない。だから残す」
村長は少し戸惑った顔をしたが、やがて頷いた。
「分かった」
「明日の朝、王都へ報告を出したい。ギルド宛てでいい。森の枯れ方、水、獣の移動、井戸のことも全部書く」
「討伐の報告じゃなく?」
「それだけじゃ足りない」
レオンは言った。
「俺も書く。持っていってくれ」
◇
夕食は村の共同小屋で取った。
野菜のスープに干し肉、山菜を混ぜた芋が並んでいる。
向かいに座っていた少年がフィンへ聞いた。
「魔物倒したの?」
「一匹」
「強かった?」
フィンは少し考える。
「弱ってた」
少年が首を傾げた。
「弱い魔物?」
「そうじゃなくて……お腹が空いてたんだと思う」
「魔物も?」
「たぶん」
少年はしばらく考え込む。
「じゃあ、かわいそう?」
今度はフィンが黙った。
答えるまで少し時間がかかった。
「かわいそうでも、襲ってきたら戦うよ」
「ふうん」
「でも、最初から人を襲いたくて来たわけじゃないのかもしれない」
少年は難しそうな顔をした。
「難しい」
「私も」
「大人なのに?」
「十八」
「大人じゃん」
「そうかな」
横からガルドが言う。
「まだガキだ」
「ガルドさんは黙っててください」
少年が笑った。
◇
夜。
村の外れの柵のそばで、ノアとレオンは遠くの森を見ていた。月明かりの下では、木々の輪郭だけが黒く続いている。
ノアが言う。
「あの土、どう思う」
レオンはすぐには答えなかった。
「灰化か?」
「その可能性はかなり高くなった」
ノアが横を見る。
「じゃあ灰化だと?」
「まだ断定はしない」
「宰相に怒られるから?」
「それもある」
ノアが笑った。
レオンは森から目を離さない。
「森だけじゃない」
「水も?」
「ああ」
「獣も」
「ああ」
少しの沈黙のあと、レオンが続けた。
「似た話が増えすぎてる」
ノアも森を見る。
「偶然じゃないかもしれない」
「そう思ってる」
「王様の仕事になったな」
「最初からそのつもりで来た」
ノアが横を見る。
「冒険者の依頼だったんじゃ?」
「両方だ」
ノアは少し笑い、それ以上は何も言わなかった。
少し離れたところでは、夜番の村人が火へ薪を足している。
「明日、どうする」
「村の守りを整える」
「森は?」
「追加で人を入れるなら、そのあとだ」
「それならいい」
「何だ」
「珍しく慎重だと思って」
レオンが見る。
「いつも慎重だ」
ノアは黙った。
「何だ、その顔は」
「別に」
「言え」
「嫌だね」
◇
翌朝。
まだ朝食前だというのに、村の外から子どもの声が響いた。
「鹿!」
「いっぱい!」
レオンたちも外へ出る。
森側の畑には、一頭の鹿が立っていた。少し離れてもう一頭、その奥の畑の端にも複数いる。
角のある雄、小柄な雌、若い個体。合わせれば七、八頭ほどいた。
人が出てきても逃げない。
ただ、どの鹿も森を背にしている。
狩人が隣へ来て、しばらく群れを見た。
「また増えた」
フィンが小さく聞く。
「こんなに来るんですか」
「来ない」
「じゃあ……」
狩人は答えなかった。
鹿の一頭が振り返り、森を見る。
だが戻ろうとはしない。
レオンも同じ方角へ目を向けた。
木々の間は暗く、何も出てこない。
それでも鹿たちは、その暗がりから少しでも離れるように畑へ集まっていた。
レオンはしばらく、森の方を見ていた。




