在りし日のおてんば令嬢
あれは、そう、俺が騎士修行のためにホーエンベルク城で暮らし始めてから間もない頃。百年以上続くビュロン皇家の通過儀礼として、七歳という幼さで見知らぬ土地へ送り出された俺は当時、慣れ親しんだユングフラウ宮殿へ募る恋しさと、城での過酷な生活に心が擦り切れて、いつも泣いてばかりいた。
「う……うぇ……っ……ばあや……姉上……父上、母上ぇ……っ」
ビュロン帝国の現皇帝、フランツ・マンフリート・フォン・ビュロンライヒ唯一の嫡男という肩書きのおかげで、ユングフラウでは誰からも珠のようにかわいがられていた俺にとって、騎士見習いとしての日々は厳しすぎた。
何せ当時赫鷲騎士団を率いていたホーエンベルク侯爵は、騎士団に身を置く間は俺を皇子としては扱わないと宣言し、他の騎士見習いの少年たちと同等の気力と体力、そして努力を求めたからだ。ところが幼い頃の俺はひどく虚弱で、皇家の血を引いているという一点を除かれてしまうと、騎士となるべく生まれた他の少年たちと比べて何もかもが見劣りしていた。そのせいで訓練を指導する騎士たちからは、
「まったく、次期皇帝があんな貧弱で、ビュロンは本当に大丈夫なのかね」
「最近は周辺諸国もどんどん力をつけてきてるからなあ。女のようにめそめそしてばかりの皇帝なぞ戴いたら、あっという間に隣国の二の舞じゃないか?」
「市民革命か……アレに巻き込まれたら貴族もタダでは済まないからな。皇子にはもっとしっかりしていただきたいんだが……」
と口々に陰口を叩かれ、俺は日に日に孤立していくばかりだった。
そんなときだったのだ。当時まだ四歳だったアシュタリゼが泣いている俺を見つけて、声をかけてくれたのは。
「あーっ、おーじさまだ! こんなとこで、なにしてるのー?」
と、その日も城の中庭で、植え込みの陰に隠れて泣いていた俺は、にわかに響いた甲高い声に驚いて、びくりと肩を震わせた。見ればそこではアシュタリゼが、陽光を受けてキラキラ輝く金の髪や、淡い蜂蜜色のドレスのあちこちに葉っぱをくっつけたまま、赤い宝石みたいな瞳を真ん丸に見開いていて……そうしてこちらを指差す少女を、俺は次の瞬間、慌てて自分のいる木陰へ引き摺り込んだ。何故なら少し離れたところから、アシュタリゼを呼ぶ使用人たちの声が聞こえてきたからだ。
「アシュタリゼお嬢様~! そろそろお部屋にお戻りになりませんと……!」
「はあ、まったく、なんてすばしっこいお嬢様なのかしら。ちょっと目を離すとすぐこれなんだから……」
「元気すぎるというのも考えものね……」
アシュタリゼを探しているのは、どうやら乳母と侍女らしい。ふたりは彼女の名を口々に呼びながら、息をひそめる俺たちの前を通りすぎると、そのまま遠ざかっていった。俺はそこでようやく安堵して、深々とため息をつく。
が、一拍ののち、自分がにアシュタリゼの小さな体を抱きかかえ、口を塞いでいたことに気がついて、大急ぎで彼女を解放した。
「あっ……ご、ごめん、つい……!」
と謝りこそしたものの、きっとすぐに泣き喚かれるだろうと覚悟して、俺はぎゅっと目を瞑る。
ところが、覚悟していた泣き声はいつまでも降ってこず、恐る恐る目を開けてみると、すぐ目の前にじっとこちらを覗き込む、不思議そうな紅眼があった。
「ひっ……!? な、何……!?」
「おーじさま、おめめ、まっかっか。リゼとおそろいね!」
「えっ……!? あ、こ、これは……」
そうだ。彼女の登場ですっかり忘れていたが、自分は直前まで膝を抱えて、相変わらずしくしく泣いていたのだ。そのことを遅れて思い出した俺は、こんな小さな子どもに泣き顔を見られたことが恥ずかしくて、思わずばっと顔を背けた。
先刻、彼女の乳母たちに見つからないようにしたのだって、泣いているところを見られてまた呆れられるのが嫌だったからなのに。
なのに結局、もっと恥ずかしい思いをすることになるなんて……!
「……? おーじさま、どーしたの? ないてるの?」
「……っ! う、うるさい! 泣いてなんかないっ!」
「えー? でも……」
「いいから、もうあっちに行けよ! 目ざわりなんだよ……っ!」
と、勢い任せに怒鳴ってしまってから、はっとした。
今のは完全に八つ当たりだ。アシュタリゼは何も悪くないのに。
そう思い至った俺が弾かれたように顔を上げると、そこにはドレスをぎゅっと握って、唇をきつく引き結んでいるアシュタリゼがいた。
その瞳からは今にも涙が零れ落ちそうになっていて、俺は全身から血の気が引くような思いに駆られたのを覚えている。何せ今、大声で泣かれたりしたら、今度こそ乳母たちが引き返してきてしまう──
「あ……アシュタリゼ、ごめん! 謝るから、泣かないで──」
「おーじさまのバカッ!」
「えっ……」
「り、リゼは、こんなことで、なかないもんっ! だって、リゼがないたら、おとーさまもないちゃうから……だからリゼは、なかないんだもんっ!」
「お、お父様、って……あの団長が?」
「そーだよっ! リゼのおとーさまは、とっても、なきむしなんだからっ! リゼがかなしいとおとーさまもかなしいって、すぐないちゃうんだから……! でも、おとーさまがかなしいと、リゼだってかなしいもん! だから、リゼはなかないのっ! わかった!?」
小さな肩を未だぷるぷる震わせながら、それでもアシュタリゼは宣言どおり、泣かなかった。急いで鼻を擦って、目もともぐいと拭ったあとには胸を張り、無理矢理作ったみたいな笑顔で座り込む俺を見下ろした。
たった四歳の、城中の人間から大切に育てられてきたのだろう女の子が、だ。
アシュタリゼのそんな様子を見たら、俺はますます自分が恥ずかしくなった。
「あ……アシュタリゼは、強いんだな。ぼくも、見習わないと……」
「……? リゼ、しってるよ。おーじさまって、とってもえらいんでしょ? えらいのに、リゼをみならうの?」
「うん……ぼくはリゼみたいに、強くないから。ちょっとつらいことがあると、すぐにくじけて……いつもめそめそ泣いてしまうんだ」
「あーっ。じゃあ、おーじさま、やっぱりないてたんだ。うそつき、よくないんだー!」
「う、うん……ごめん……」
「でも、なんで、うそついたの? おーじさまも、おとーさまがかなしくないように、ないてないフリしたの?」
「い、いや、そうじゃなくて……皇子がこんな風に泣いてばかりいるのは、よくないことだから」
「……? そーなの?」
「そうだよ。いずれこの国の皇帝になるのなら……もっと強くて、皆に尊敬されるような男にならなきゃいけないんだ。人前で弱みを見せるなんて、一番やっちゃいけないことなんだ。なのにぼくは、どれもちっともうまくできなくて……」
「んー……おーじさまはおーじさまだから、ないちゃダメってこと? なら、おーじさま、やめちゃったら?」
「えっ……? い、いや……そんなことはできないよ」
「できるよ! おーじさまがおーじさまやめたこと、リゼ、ナイショにしててあげる! そしたらリゼといっしょのときは、おーじさま、ないちゃってもヘーキでしょ?」
「き、気をつかってくれるのは嬉しいけど……ぼくは、泣き虫な自分をやめたいんだよ」
「でもおーじさま、くるしそうだよ。ほんとにくるしくてかなしいときは、ガマンしないでなきなさいって、おとーさまがいってたよ?」
「……!」
「あれ? けど、おーじさまがおーじさまをやめちゃったら、リゼ、おーじさまのこと、なんてよんだらいい?」
「な……なら、フェルディ、と」
「ふぇるでぃ?」
「うん。ぼくのことは、フェルディと呼んでほしい」
「……わかった! おーじさまは、きょうから〝ふぇるでぃ〟ね!」
そう言って彼女が浮かべた満面の笑みがあまりにもまぶしくて、俺はまた泣いてしまいそうだった。というより、泣きながら笑っていた。
こんな小さな子どもに励まされる自分がやっぱり恥ずかしくて、情けなくて──けれど、泣いてもいい、と言ってもらえたことが、泣きたいくらい嬉しくて。
当時の俺にとってアシュタリゼは、世界でたったひとりの味方だった。
彼女の前ではどんな自分も曝け出せたし、ビュロン帝国の皇子ではなく、ひとりの人間として接してもらえることが嬉しかった。そうしていつしか、ありのままの俺を受け入れ、笑いかけてくれる彼女の存在がかけがえのないものとなり──彼女が与えてくれた幸せの分だけ、俺も彼女を幸せにしたいと願った。
彼女の幸せを奪い、傷つける者は、誰であろうと許せなかった。
そう。だから俺は俺のことが、誰よりも許せないんだ。




