『紅玉』と背神者
始まりは、一度死んで迎えた最初のループでのことだった。
「なんだ、これは……?」
と、その日、死に戻った事実に困惑しながら立ち寄った自らの寝室で、俺は一通の手紙に目を落とし、愕然と呟いた。
『運命とは、女神マータからの贈りもの。ゆえに刃向かってはなりません。愛するひとを守りたいのなら』
差出人の正体は分からない。
誰が、いつ、どうやって、何のためにこの手紙をこっそりと、俺の部屋へ置いていったのかも分からない。ただ、まるで今、俺の身に起きている出来事を見透かしたような短い文面に、慄然としたことだけは覚えている。
俺は最初の人生で、殺されかけたアシュタリゼをかばって死んだ。
そして、死に戻った直後には、あれは予知夢だったのではと誤解して、アシュタリゼを死の原因から遠ざけようとした。ところが俺の突拍子もない行動は、かえってアシュタリゼと仲違いする結果を招いてしまい、どうしたものかと煩悶しながら足を向けた寝室であの手紙を見つけたのだ。その直後だった。アシュタリゼが乗馬中に落馬して、大怪我をしたとの知らせが飛び込んできたのは。
「あはは、ごめんごめん。私としたことが、ちょっとドジッちゃってね~。幸い命に関わるような怪我はしないで済んだし、降臨祭の舞踏会が終わったあとでよかったわ。あなたに〝婚約者欠席〟なんて恥をかかせなくて済んだから……」
知らせを受けて飛んでいったホーエンベルク邸で、アシュタリゼはそう言って笑っていた。実際、彼女は足を骨折した以外は至って元気だったし、俺のせいで亀裂が生じかけていた関係もこの出来事をきっかけに修復できた気がしてほっとした。
けれども同時に、アシュタリゼの笑顔はひたひたと、俺の胸をある不安で満たしていった。すなわち、彼女がこんな憂き目に遭ったのは──そもそも俺が〝運命〟に逆らおうとした結果なのではないか、と。
(もしも一度死ぬ前の出来事が、ただの夢ではないとしたら……俺は前回の人生では無意識に、今回の人生では意図的に、彼女の運命を変えようとしたのかもしれない。だから彼女を不幸が襲ったのだとしたら? 俺はその過ちを正すために、やり直すチャンスを与えられたんじゃないのか……?)
もちろん、初めのうちは我ながら、ずいぶん飛躍した妄想だなと苦笑した。
ところが一度芽生えた不安の種はどんどん育ち、あっという間に恐怖という名の影を落として、真っ赤な疑惑の実をつけた。何故ならアシュタリゼの落馬事件の直後から、彼女にまつわる黒い噂がどこからともなく噴き出して、俺の耳にも届くようになったためだ。そしてその噂を危惧した皇帝から、アウグシュタ王国の王女アリマニカとの縁談を勧められたとき、俺の不安はピークに達した。
だからつい、ひとりで抱えられずに話してしまった。
親睦を深めるためにやってきたアリマニカに、ふたりきりになった温室で、ある不吉な予知夢のたとえ話を。
「……王女はそんな悪夢を見たとしたら、どう考える? それでも俺との結婚を望むか、あるいは諦めるか」
俺が語ったたとえ話は、アリマニカが俺との結婚を望んだ結果、どう足掻いても俺に不幸が降りかかると分かった場合どうするか、というものだった。それが運命に逆らった報いだと──俺とアリマニカの結婚が運命に逆らう行為だとしたら、女神への信仰を取るか、はたまた祖国のために俺との結婚を強行するか、と尋ねたのだ。こういう形の質問にしてしまえば、彼女はただ婚姻の覚悟を問われているだけだと解釈するだろうし、俺にアシュタリゼという婚約者がいるのを知っていながら縁談を持ちかけてきたアウグシュタの無礼を咎めることもできると思った。
が、アリマニカが少し悩んでから出した答えは、俺の予想を軽々と飛び越えた。
「……そうですね。あくまで王女としてお答えするなら、そのときはフェルディナント様との結婚は潔く諦めて、父を説得いたしますわ。わたくしとの婚姻がフェルディナント様を不幸にしてしまうのなら、かえって我が国の忠誠を疑われる結果になりかねませんもの。たとえば〝アウグシュタ王は王女を人質として差し出したと見せかけて、実はフランツ三世陛下唯一のご継嗣でいらっしゃるフェルディナント様の暗殺を命じたのではないか〟とか……ふふ、いかにも噂好きのご夫人方が好んで吹聴されそうな憶測じゃありませんか?」
妖艶な紫百合の香りが漂う亭で、アリマニカはまるで他人ごとのようにそう言って、とても十六歳の少女とは思えない、大人びた顔で微笑った。
が、かと思えば急にいじらしく頬を赤らめて、
「とはいえひとりの女としては、フェルディナント様とこうして巡り会うことができたのは、まごうことなき女神の祝福だと思っておりますけれど……」
などと呟いたのち、不意に現れた年相応の乙女の顔を、ふっと綻ばせて言う。
「ですがだからこそ、フェルディナント様が苦しまれる未来なんて望みませんわ。その美しいお顔が苦痛に歪むさまを眺めて楽しむような趣味は、生憎持ち合わせておりませんの。あなた様にはいつまでも、心から微笑っていてほしいと願っています」
「……つまり、俺の幸せのために身を引く、と?」
「ええ。祖国のためにもあなた様のためにもならない結婚なら、あとはわたくしの我が儘になってしまいますもの。そんな身勝手な女を娶るだなんて、あなた様も望まれませんでしょう?」
「では……君は、運命に従うのだな」
「はい。誰も幸せになれないのなら、抗う理由がありませんから」
優雅に紅茶を啜りつつ、アリマニカが平然と告げた答えは、はっと俺の胸を衝いた。確かに彼女の言うとおりだ。
アシュタリゼが傷つくと知っていながら彼女の傍にいたいと願うなど、そんなのは俺の自分勝手な我が儘でしかない。醜い独占欲の発露でしかない……。
(いや、だが、これが運命に逆らった結果だと決まったわけでは……前の人生の記憶だって、本当にただの夢かもしれないじゃないか。どうも俺の思考はあの手紙に引っ張られすぎているようだ……単なる誰かの悪戯かもしれないのに、馬鹿馬鹿しい)
そう思い直した俺は翌日、改めてアシュタリゼの見舞いのために、ホーエンベルク邸を訪問した。そこで父からアリマニカ王女との婚約を勧められたこと、しかし俺はアシュタリゼを妻にしたいと望んでいることを、包み隠さず打ち明けた。そうした上で、アシュタリゼの気持ちも確かめておきたかったのだ。アリマニカが俺を気遣ってくれたように、俺も彼女が望まないものを、強引に押しつけたくはない。
「フェルディ……私も同じ気持ちよ。あなた以外の人と結婚するなんて、今さら考えられない。だって私、ずっとあなたの隣にいるのが当たり前で……こ、これからも一生、そうだったらいいな、って……」
そう言って、顔を真っ赤にしながら、それでも彼女が気持ちに応えてくれたことが、俺はたまらなく嬉しかった。だからもう一度、誓い直した。
必ずアシュタリゼを幸せにしてみせる、と。そうして互いの想いを確かめ合い、安堵して帰路に着き──ほどなく俺は、己の浅はかさを思い知る羽目になった。
何故ならその晩、ホーエンベルク邸で火災が発生し、足の怪我が原因で逃げ遅れたアシュタリゼが、顔にひどい火傷を負ったと知らされたから。
『運命とは、女神マータからの贈りもの。ゆえに刃向かってはなりません。愛するひとを守りたいのなら』
あの言葉が、何度も何度も頭の中でループした。
俺はたぶん、間違えた。そう確信した。
そして同時に、アリマニカの言葉を思い出した。
『フェルディナント様とこうして巡り会うことができたのは、まごうことなき女神の祝福だと──』
ああ、そうか。そうだったのか。
俺は、アシュタリゼと結ばれる運命ではなかったのか。
俺の運命の相手は、恐らくアリマニカだ。そう考えれば、アシュタリゼのことをあんなに気に入っていた父上が突然心変わりしたことにも納得だし、あの予知夢も俺が運命に抗った結果、彼女を不幸に巻き込んで非業の死を遂げる未来を伝えようとしていたに違いない。当時の俺は、そう思った。
何より世界が、アシュタリゼに牙を剥いている。
俺が運命に背き続ける限り、彼女もまた傷つき続けるというのなら、俺は──
「アシュタリゼ・フォン・ホーエンベルク侯爵令嬢。本日をもって、私と君との婚約を解消させてもらう」
人生で初めてそう告げた瞬間の、驚愕と悲しみに歪んだ彼女の表情を、今でもまだ覚えている。それは永遠に抜けない棘となって、俺の心の奥底にずっとずっと突き立っている。おかげでこの胸は、幾度となくループを繰り返しても、真っ赤な血を流したまま。けれど二回目のループでも三回目のループでも、以降延々、同じことの繰り返しだった。俺たちの距離が近づくたびに、アシュタリゼは傷ついた。
転落。失明。毒殺未遂。高熱。落雷。記憶喪失……。
厄介なのは、これらの不幸が降りかかるのは俺から近づいたときだけじゃない。
アシュタリゼの方から和解を求めて近づいてきたときも同じなのだ。
だから俺は徹底的に彼女を遠ざけた。声をかけられても無視し「会いたい」と求められても拒絶し、手紙もすべて読まずに捨てた。もちろん返事も書かなかった。
そうして俺がアシュタリゼから遠ざかると、彼女を襲う不幸もぴたりと止んだ。
しかし問題はまだ残っている。俺の死に戻りが終わらないということだ。
アシュタリゼとの婚約を破棄しても、彼女をどれだけ遠ざけても、一〇〇日後に俺が死に、また時間が巻き戻るという現象だけは一向に終息する気配がない。その原因をあれこれと調べ、考察するうちに、俺はあるひとつの答えに辿り着いた。
(もしも俺の運命が、アリマニカの下にあるのなら──)
ただ形だけ夫婦になるのでは意味がない。俺は夫として、きちんと彼女を愛せる男にならなければならない。それはすなわち、アシュタリゼへの未練を残したままでは、永遠にこのループから抜け出せないということだ。ならば俺はアシュタリゼへ向かうすべての想いを断ち切って、必ずループを終わらせる。俺とアシュタリゼの関係に完全に終止符を打つことさえできれば、死の苦痛を繰り返す地獄のような日々も、アシュタリゼを不幸が襲う心配も消えてなくなる……。
だから見ていろ、女神マータよ。
俺はあの日の誓いを果たす。おまえがどんな試練を課そうとも、俺の望みは、アシュタリゼが笑っている未来だけなのだから。




