アリマニカ・アウグシュタという女
アリマニカとの面会は、いつも宮殿の温室でと決まっていた。皇妃が管理しているこの場所に立ち入れる人間は限られていて、出入り口に見張りさえ立ててしまえば、誰の目も耳も気にせず、ふたりきりで安全に過ごすことができるためだ。
「まあ。これって高山菫ではありませんか?」
と、その日も温室の中央にある亭を目指して歩いていると、アリマニカがふと足を止め、ある花壇の前に屈み込んだ。三つ編みから零れた鬢の髪を耳にかけ、そっと微笑んだ彼女が見つめた先には、菫によく似た花が咲いている。
俺は元来花にはあまり詳しくないのだが、アリマニカがあの花を見つけて足を止めるのも一〇〇回目だ。おかげでさすがの俺も花の名前や由来について、すっかり詳しくなってしまった。
「ああ……それは虫取菫という花だ。残念だが、君の知る高山菫とは似て非なる花だな」
「まあ、そうなんですか? こんなによく似ていますのに……」
「……高山菫というのは、シャモワ山脈の限られた地域にだけ咲く花だろう? しかしその花は、母が新大陸から運ばせた熱帯の花だ。可憐な見た目に反して、葉の粘液で虫を捕食する特性を持っている。発見されたばかりの珍しい花だと聞いて母は喜んでいたが……正直、見ていて気持ちのいい花ではない」
「そうでしたか。ですが、わたくしの故国でしか咲かない高山菫のことをご存知だなんて、驚きましたわ。ひょっとして──前のループのわたくしからお聞きになったので?」
「……そういうことだ。話が早くて助かるよ」
「なるほど。これでまたひとつ、フェルディナント様のお話の信憑性が上がりましたわね」
そう言って再び背筋を伸ばしたアリマニカは、硝子張りの天井から降り注ぐ木漏れ日の中で、菫と同じ色の瞳をそっと細めて微笑んだ。
実を言うとアリマニカには、最初に予知夢の謎かけをしたあの日以来、ほぼすべてのループで俺の身に起きていることを告白している。
一度目のループで遠回しに打ち明けたときの、彼女の聡明な答えに心動かされた経験から、以降も何となく、アリマニカなら力になってくれるのではないか、という信頼が芽生えたからだ。そして事実、彼女はどのループでも俺の話を全面的に信じ、相談に乗ってくれた。初めは俺の機嫌を取るために話を合わせているだけかとも疑ったが、意外にも彼女は、
「フェルディナント様はそのような虚言で他者を惑わすお方ではないでしょう。そもそも未来の皇帝ともあろうお方が、いたずらに周囲の不信を招く言動をなさるとも思えませんから」
と至って冷静で、こんな眉唾物の話にも親身に耳を傾けてくれた。
無論、未だ情勢が不安定な被征服国の王族として、俺に取り入ろうという下心がまったくないとは思わない。けれども俺は、出口の見えない絶望の中で唯一寄り添ってくれるアリマニカに……少しずつ、依存し始めている自覚があった。
「それで──フェルディナント様。昨夜の舞踏会の件ですけれど」
ほどなく亭へ移動した俺たちは、白いガーデンチェアに着席し、俺の侍従が淹れていった紅茶を前に向き合った。今日のアリマニカは、淑女然とした帝立学院の制服に身を包んでいるためか、いつものドレス姿とは雰囲気が違って見える。
というのも彼女はもともと、ビュロン帝国が四年前に開校した学院に入学するために帝都へやってきたのだ。帝立学院とは、ビュロン帝国とそれに属する被征服国の貴族の子女が一堂に会する教育機関──すなわち、帝国の同化政策の推進を目的に設立された学院で、爵位を持つ家の子女は入学が義務づけられている。基本は全寮制で、大半の生徒は学院の敷地内にある寮で寄宿生活を送るのが原則だ。
しかし現在アウグシュタ王国では、帝国の支配に納得していない独立派と、王家が主導する恭順派の対立が深刻化している。そんな状況下で、王女であるアリマニカを警備の手薄な寄宿舎に住まわせるわけにもいかない。ゆえに彼女はこのユングフラウ宮殿に寄留することを許され、大雑把に言ってしまえば、既に俺と〝ひとつ屋根の下〟で暮らしているわけだ。そして今日のアリマニカは、下校後すぐに、着替える間も惜しんでここへ来た。まったく俺の予想どおりに。
「ああ……アシュタリゼとの婚約破棄の件だろう? あのことなら、心配はいらない。混乱は思ったよりも早く収束しそうだ」
「というと?」
「……ホーエンベルク侯爵がな。どういうわけか、今回は俺のところへ抗議に来なかったんだ。これまでのループでは、翌日には必ずいきり立って乗り込んできたんだが……」
「そう……なのですか? 今回は陛下のもとへ直談判に行かれた、というわけでもなく?」
「ああ。聞けば普段どおりに出仕して、騎士団長としての職務を遂行しているというのでな。さすがに妙だと思って、こちらから正式な謝罪のために呼びつけたんだが……〝陛下がお決めになられたことならば、臣下が口を挟めるものではない〟と至って落ち着いた様子だった」
「そうでしたか……それを聞いて安心しました。今日は一日、フェルディナント様に万一のことがあったらと気が気ではなかったので」
「心配をかけてすまなかった。だが侯爵の反応といい、昨夜のアシュタリゼの反応といい、どうも気にかかる。特にアシュタリゼが去り際に残したあの言葉……」
「──〝くれぐれもお体にはお気をつけて〟、ですか?」
と、アリマニカが未来を先読みしたように言うのを聞いて、俺は目を丸くした。
彼女も同じところに違和感を覚えていたのかと驚いていると、アリマニカは不意に不安げな顔をして目を伏せる。
「実は、わたくしも……侯爵令嬢のあの言葉が、頭から離れないのです。だって、あれではまるで──フェルディナント様への宣戦布告ではありませんか」
「……宣戦布告?」
「ええ、そうです。あの状況でわざわざ〝お体にはお気をつけて〟なんて言葉をかけていかれるなんて、フェルディナント様への報復を宣言したようにしか聞こえませんわ。ですからわたくしは、あなた様のことが心配で心配で……」
「ああ……なるほど。確かにそういう解釈もできなくはないな」
「……? ではフェルディナント様はどう解釈なされたのですか?」
「いや……実はこれは、前々から感じていたことなんだが……もしかするとアシュタリゼもまた、俺と同じようにループを繰り返しているんじゃないか? だから彼女は、このあと俺の身に起きることを知っていて、あんな言葉を残していったのではないかと……」
「えっ、まさか……ということは、ホーエンベルク侯爵の反応がいつもと違ったのも?」
「ああ。事前にアシュタリゼから、先の展開を聞かされていたからだとすれば納得がいく。婚約破棄の件も、あのような形で恥をかかされておきながら、顔色ひとつ変えずに立ち去るというのもアシュタリゼらしくないし……」
「……ひょっとして、フェルディナント様が婚約破棄の場に昨夜の舞踏会を選ばれたのも、それを確かめるためだったのですか?」
「そうだ。仮にループの件が俺の考えすぎだったとしても、公衆の面前であんな恥辱を受ければ、アシュタリゼも今後、俺と関わろうとはしないだろうしな。ならば一石二鳥だ、と思ったんだ」
「……」
「君はどう思う? 仮に彼女も同じ時間をループしているとしたら、恐らくこの現象を止めるための手立てを探していると思う。だとすれば……俺もループしていることを彼女に明かすべきだろうか?」
「──なりません」
と、意外なほどきっぱりとした口調で否定され、俺は図らずも胸を衝かれた。
見れば向かいのアリマニカは真剣な眼差しで俺を見つめ、心なしか怯えているようにも、緊張しているようにも見える。
「フェルディナント様。あなた様は、最初にこうおっしゃいましたよね? 〝女神の定めし運命を受け入れることが、ループを終わらせる鍵になるはずだ〟と……ですがもし今のお話が事実だったとして、互いにループしていることを打ち明けたなら、侯爵令嬢は次にどうされると思います?」
「……彼女の性格なら〝一緒に解決する道を探そう〟と……俺にそう持ちかけるだろうな」
「そうです。そしてその結果、話はふりだしに戻ってしまいますわ。フェルディナント様のおっしゃる〝運命〟というものが、侯爵令嬢とは別々の道を歩むことだとしたら……この話を令嬢に打ち明けた時点で、きっと取り返しのつかないことになってしまう」
「だが、運命に従わなければループが終わらないという、俺の仮説自体が間違っているとしたら?」
「そう考えたくなるお気持ちも分かりますが……だとしても、フェルディナント様の仮説が当たっている可能性も否定できない以上、危険ですわ。場合によっては永遠に死の苦痛や恐怖から逃げられなくなってしまうかもしれないのですよ?」
「……」
「何より……こうも考えられませんか? もしあなた様の仮説が誤っているのだとしたら、ループの原因は──侯爵令嬢の方にあるのかもしれない、と」
「……何だって?」
「たとえばの話ですけれど……ループが始まる前の最初の人生では、侯爵令嬢の方が亡くなる運命にあったのですよね? その未来をフェルディナント様が変えてしまわれたのをきっかけに、ループが始まった……とすれば、運命に逆らっているのはむしろ、侯爵令嬢の方である可能性も──」
と、アリマニカが言いかけたところで、俺はたまらずバンッとテーブルに手をついて立ち上がった。大きな音に驚いたらしいアリマニカが、びくりと震えながら俺を見る。そんな顔をさせるつもりはなかった。
しかし、それだけは──その言葉の先だけは、聞きたくない。
「……すまない。だが、仮に今、君が口にしようとした仮説が正しいなら、俺は一生、このループに閉じ込められたままでも構わない」
「そ、そんな……! 本気でおっしゃっているのですか?」
「もちろん本気だ。アシュタリゼが……リゼが死ぬ未来こそが女神の望む運命だというのなら、俺が代わりに彼女の死を引き受ける。何百回でも、何千回でも」
「ど、どうして……どうしてそこまでご自分を犠牲になさるのです? こう言っては何ですけれど、相手は一侯爵家のご令嬢に過ぎないのですよ? 対するあなた様はビュロン帝国の未来を担う、たったひとりの皇子でいらっしゃるのに……!」
「俺は既に一〇〇回死んだ身だ。死の瞬間の痛みも恐怖も、誰よりもよく理解している。だからたったの一回だって、彼女にあんな想いをしてほしくない。リゼは……俺のすべてだったんだ。彼女のいない未来なんて考えられない。たとえ道は違えても、せめて彼女が生きていてくれさえすれば……」
言いながら額を押さえた手が、自分でも笑えるくらい震えていた。
──嘘だ。本当は、怖い。とてつもなく怖い。
この先も何百、何千と、永遠に死を体験し続けるなんて耐えられない。
今でさえ自分を保つのがやっとなのだ。あと数十回も繰り返せば、恐らく俺は壊れると思う。来る日も来る日も自分が死ぬ悪夢を見て、ここが夢か現実かも分からなくなり、恐怖に泣き叫び取り乱すだけの廃人と化してしまうに違いない。
けれど、それでも。
(それでも、俺は……リゼの存在しない世界を生きる方が、もっと怖い)
彼女は俺の光だ。どんな暗闇に呑まれようとも、彼女が笑って手を引いてくれたから今の俺がいる。帝国をより平和で盤石な未来へ導くためなら、柄にもない『氷血皇子』の仮面を被り続けようと覚悟できたのも、アシュタリゼの暮らすこの国を守りたいと思ったからだ。本当は泣き出したいのを我慢して、戦争へ行く侯爵を見送る彼女の横顔を、もう二度と見ずに済む国を築きたかった。だのにそのアシュタリゼがいなくなってしまったら──俺は、何のために生きればいい?
「……分かりましたわ」
ところが俺が理性を呑み込もうとする本心と、脳裏に浮かぶアシュタリゼの笑顔の間で揺れていると、不意にアリマニカがぽつりと言った。
気づいた俺が虚ろな眼差しを投げかければ彼女はまた微笑んで、テーブルに置かれたままの俺の手に、そっと両手を重ねてくる。
「不粋なことを申し上げてしまいました。それがフェルディナント様の願いなら、わたくしも協力いたします。これ以上あなた様が苦しまなくていいように」
「アリマニカ……」
「あなた様が、侯爵令嬢を守りたいと願われているように……わたくしも、あなた様を守りたいのです。御身だけでなく、お心も」
「……アリマニカ。君は、どうしてそこまで……俺は、これから婚約者になろうとしている君に、とてつもなく不義理なことを言っているのに……」
「あら、申し上げませんでした? わたくし、フェルディナント様の美しいお顔が悲痛に歪むところなんて見たくありませんの。あなた様にはいつだって、微笑っていていただきたいのです。そのためならどんなことだって厭いませんわ。わたくしはこうして、あなた様のお傍にいられるだけで幸せですから……」
と言いながら、アリマニカは優しく取り上げた俺の手に、愛おしむような頬擦りをした。……一〇〇度もループを繰り返してきたのだから、さすがに分かる。
アリマニカは恐らく、単に政略結婚に従っているわけではなく、本心から俺を好いてくれている。しかも彼女の気持ちは、俺の心がアシュタリゼのもとにある、と分かっても変わらないらしい。
どうしてそうまで俺を慕ってくれるのか、理由は分からないが……そんな彼女を前にしても、まだアシュタリゼへの未練を断ち切れずにいる自分が情けなかった。
本当は、ここまで一途に支えてくれようとするアリマニカの想いにも報いたい。
アシュタリゼほど深く愛することはできなくとも、これから共にビュロンの未来を担う妻として……。
「では、フェルディナント様。次の安息日に、わたくしはホーエンベルク邸へお邪魔して、侯爵令嬢のご様子を見て参りますわ。一応、侯爵家がフェルディナント様への報復を考えている可能性もゼロではありませんし……ついでに侯爵令嬢もループされているのではという仮説についても、探れるだけ探ってみます。もちろん、フェルディナント様の置かれたご状況については決して口外いたしませんから、ご安心を」
「ああ……すまない、助かるよ。ただ、気をつけてくれ。過去のループでは逆上したアシュタリゼが、君にちょっとした怪我をさせたこともあったから……」
「まあ、そうなのですか。ですが侯爵令嬢にしてみれば、婚約者を略奪したわたくしの訪問が面白くないのは当然ですものね……可能な限り、失礼のないよう気をつけます」
ほどなく、すっかり冷めてしまった紅茶を飲み干した俺たちは亭を離れ、温室の出口を目指して歩いた。そのさなか、アリマニカは俺の不安と罪悪感とを取り去ろうとするかのように、やわらかく微笑みかけてくれる。
日は徐々に傾き始めていた。硝子の天井から降り注ぐ陽光が、彼女の笑顔を暖かな黄金色に照らし出す。そんな彼女の気遣いに応えたいと、思わず足を止めた木陰で──俺は、アリマニカの右手にキスをした。
途端に目を見開いたアリマニカの頬が、薔薇色に染まる。震える唇を押さえ、瞳を潤ませた彼女の足もとで、虫取菫が喝采にも似た、甘い香りを漂わせていた。




