消えてくれ、恋心
ほとんど毎朝、大量の〝死〟が洪水となって押し寄せる。
圧死。溺死。転落死。斬死。焼死。轢死。窒息死。毒死。突然死──
あらゆる痛みと苦しみと、恐怖と絶望。
それが真っ黒な渦となって我が身を呑み込み、何千もの切れ端にしてやろうと言わんばかりに肉と皮膚とを粉々に、
「──ッ!」
その朝も、そんな世界の終わりのような悪夢に溺れて目が覚めた。
高所から落下したのに似た衝撃が体を震わせ、はっと目を見開いたとき、天蓋の帷の隙間からうっすらと差し込む朝日が見える。
「……朝か……」
掠れた声で呟きながら、鉛を詰められたのかと思うほど重い体をもたげれば、不快な脂汗が全身をぐっしょりと濡らしていた。けれどもこの不快感こそが、ここが目覚めたあとの現実世界だということを教えてくれる。どうもループを重ねるごとに、俺は悪夢と現実の境界が曖昧になり、自分が今、目覚めているのか、はたまた夢を見ているのか判別するのが難しくなっていくようだった。
(今回のループも、今日で一八日目……死ぬまであと八二日か……)
まったく眠った気のしない頭を垂れ、額に張りついた銀の前髪を掻き上げる。
そうしながら、昨夜、このユングフラウ宮殿で開かれた舞踏会での顛末を思い返した。俺から一方的に婚約破棄を告げられたアシュタリゼは、あれからどうしたのだろうか。皆の前では平気そうに振る舞っていたが、やはり屋敷へ戻ったあとにはひとり、悲しみと屈辱に肩を震わせていたのだろうか……?
「って、あぁーー……だからリゼのことはもう考えるなというんだ、俺のバカ……ッ!」
と、月の下でひとり啜り泣くアシュタリゼの姿をひとしきり想像してしまってから、俺は己の愚かさを罰するためにガンガンと、天蓋を支える寝台の支柱に頭を打ちつけた。今回のループではせっかく婚約破棄まで一八日という最短記録を達成したのに、翌朝から早速彼女への想いに囚われていたのでは意味がない。
俺はこの地獄のようなループを終わらせるため、とにかく一日でも早く、彼女のことを忘れなければならないというのに……!
「──フェルディナント殿下、起きてください。ご起床のお時間ですよ……って、うわぁ。まーたやってるよこの人……」
いっそ頭を打った衝撃で、記憶喪失にでもなってしまえばいい。
そうすれば彼女と過ごした過去の記憶ごと、すべてを手放してしまえるのに──などと思いながら俺が支柱に縋った直後、背後からシャッと帷を開く音がして、朝の光が満杯に差し込んだ。そのまぶしさに目を細めつつ振り向けば、帝国騎士団の団服をかっちりと着こなした細身の騎士がひとり、露骨な呆れ顔で佇んでいる。
毛並みのいい猫のような黒髪を、窓から差し込む朝日に洗われている彼の名はイェルク・フォン・イリッヒ。俺がホーエンベルク侯爵領で騎士修行に励んでいた頃から付き合いのある、専属の護衛官だ。
「あぁ、イェルクか……すまない。また朝から見苦しいものを見せてしまって」
「いや、別にいいですけど……殿下、最近やっぱりおかしいですよ? そんな風に乱心されるほど、アシュタリゼお嬢様との婚約解消がお嫌だったんですか? だったらアウグシュタ人の王女との婚約なんて、きっぱりお断りされてしまえばよかったのに」
「それができれば苦労はしない……第一、この婚約解消は他でもないリゼのためなんだ。そう、リゼ……リゼの……くっ……うぅ……僕は本当に、なんて最低な男なんだ……口ではリゼを守ると言いながら、あんな風に彼女を傷つけることしかできないなんて……」
「はあ……しっかりしてください、殿下。また素が出てますよ」
顔を覆ってうなだれるしかない俺を適当にあしらいながら、イェルクは手早く帷を払って支柱へと括りつけた。次いで彼はてきぱきと、慣れた様子で朝の支度を開始する。これらは本来なら専属の侍従の仕事なのだが、俺はループを重ねるごとに自分を保てなくなっていくのを感じ、近頃は毎朝の近侍をイェルクに頼んでいた。
彼ならば幼い頃から俺の本性──すなわちアシュタリゼからよく「泣き虫皇子」とからかわれてばかりいた、俺の素顔を知っているからだ。つまり、イェルクにならどんな情けない姿を見られたところで『氷血皇子』の仮面は傷つかない。
「だいたいねえ、殿下のようにヘタレたお方が『氷血皇子』なんて大それた看板を背負って演じ切るなんていうのが、土台無理なお話だったんですよ。だから私は、アリマニカ王女との婚約には反対だったんです。アシュタリゼお嬢様みたいに思い切りがよくて男気がある方に引っ張っていってもらう方が、殿下の性には合ってるんですから」
ほどなく寝台を下り、軽い拭浄と洗顔を済ませると、俺はイェルクにぶつくさと文句を言われながら真新しい衣装に袖を通した。これらの衣服は昨夜のうちに、衣装係が今日の日程に合わせて用意していってくれたものだ。
本来ならそれを俺に着せるのも彼らの仕事なのだが、イェルクは俺の情けない言動には文句を垂れても、業務外の仕事をさせられることに対しては、いつのループも何も言わない。皇太子である俺にも臆することなくずけずけものを言う一方で、そういうところは至って忠義者なのだ。
だから俺はこのイェルクという同い年の青年を、昔から一番に信頼していた。
「……それは俺が一番よく知っているさ。だが、俺もビュロンを背負う者として、いつまでも彼女に甘えているわけにはいかないんだ。他国を侵略し、併呑し、肥大化してきた我が国は常に不安定で、頂点に立つ皇帝が楔として機能しなければ、早晩瓦解する。ひとりでは何も背負えない皇子に、そんな重大な役目が務まると思うか?」
「そのお志はご立派ですけどね。歴代の皇帝全員が、たったひとりで帝国を治めてきたわけではないでしょう。孤独はむしろ判断をにぶらせます。殿下には、殿下の本当のお姿を受け入れた上で支えてくれる理解者が必要だと思いますよ」
「それならおまえがいるじゃないか、イェルク。第一、アリマニカ王女も聡明で、リゼとはまた違った包容力のある女性だ。彼女との会話はいつも示唆に富んでいるし、細かいところにもよく気がつく。未来の皇妃としての資質は申し分ない」
「どうですかね。向こうだって祖国の命運を背負っているわけですから、殿下に気に入られようと必死になるのは当然な気がしますが。あの王女は何だか底が見えなくて、私はあまり好きではありません。アシュタリゼお嬢様のように表裏のない女性であれば歓迎なんですが」
「リゼの話はもうよしてくれ。彼女との婚約は昨日、正式に破棄されたんだ。今日は団長……ホーエンベルク侯爵にもその件で怒鳴り込まれるだろうし、これ以上は責められたくない」
「……失礼しました。ですがいくら殿下でも、歯の一本や二本は覚悟されておいた方がいいですよ。なんたって殿下は昨夜『百勝公』の逆鱗に触れたんですから」
「分かっている。むしろ歯の一本や二本で済むならいい方だ。……過去には団長に殺されたこともあるからな」
「え? 何ですか?」
「いや……何でもない。今日の御前会議は鳥の上刻からだったな?」
「はい。それと、会議前に陛下の承認が必要な書類が二件ほど」
「分かった。行こう。今日は天の下刻頃、アリマニカ王女の来訪があるはずだ。主立った予定は、午過ぎまでには片づけておきたい」
「はあ。今のところ、王女から謁見の要請が来ているとは聞いてませんが……」
「来るさ、これから。あとで秘書官にもそう伝えておいてくれ」
イェルクは何やら怪訝そうな顔をしているが、俺にはこのあと起きる出来事がだいたい予測できている。すべてのループは、毎回同じ出来事が同じ順序で、同じ日時に起こるわけではない。それでも一〇〇回も同じ三ヶ月を繰り返せば、嫌でも見えてくるものがある。日時や形は変わっても、結局のところ、俺がときを遡ってから死ぬまでの一〇〇日間に起きる出来事は、大きくは変わらないのだから。
(特にアリマニカの行動は読みやすい。ある特定の出来事が起きたあとは、彼女は毎回ほとんど決まった動きをする。逆に読めないのはリゼの方だ。最初の頃は婚約解消の説明を求めて宮殿に押しかけてくることもあったが、最近のループでは屋敷に引きこもってしまったり、かと思えばいきなり領地へ帰ってしまったり、何の前触れもなく失踪したり……)
アシュタリゼの行動が予測不能なのは今に始まったことじゃない。
彼女は昔から「考えるよりまず行動!」が口癖の人だったから、そのときそのときの思いのままに突拍子もない行動をしでかして、よく周囲を驚かせていた。しかしそれにしたところで、ループ中、これほど大きく行動が変わる人物というのは彼女を置いて他にいない。だから時折、こんな考えが脳裏をよぎることがある。
──ひょっとしたらアシュタリゼもまた、俺と同じようにループを繰り返しているんじゃないか、と。
(昨夜の舞踏会での彼女の言葉……あれもやはり、俺がこのあと死ぬことを見越しての忠告だったんじゃないか? もしそうだとしたら、ループを重ねるごとにリゼの反応が淡々としていっているのにも頷ける……)
だが、仮にアシュタリゼもループしていたとして、何だ?
同じ謎に巻き込まれて苦しんでいるのなら、共に手を取り合って解決の道を探そうと持ちかけるとか?
──そんなのは言語道断だ。俺は金輪際、何があってもアシュタリゼと会ってはいけないし、言葉を交わしてもいけない。何故なら俺がアシュタリゼに近づこうとすると、どのループでも必ず、彼女を不幸が襲うからだ。
そして最悪の場合、今度こそ彼女が死んでしまうかもしれない……。
(……俺は死んでもやり直せるが、リゼもそうとは限らない。仮にやり直せるのだとしても、この終わりのない苦しみを、彼女にまで味わわせてたまるものか。俺は何と引きかえにしても、必ずリゼを幸せにする……そう誓ったんだ。あの日、女神マータに──)
しかし皮肉なのは、その女神の定めし運命が、俺とアシュタリゼを引き裂こうとしているということ。すなわち彼女への想いを断ち切り、アリマニカとの結婚を受け入れるという形で運命に服従しなければ、ループからは抜け出せない。
それが一〇〇ループをかけて、俺が導き出した答えだ。
だからもう消えてくれ、恋心。
俺の中から君を消し去ることでしか、俺は、君を守れない──




