ゲイヴ・フォン・イリッヒという男
「──というわけでここにおまえが呼ばれたわけだ。状況は理解したか、ゲイヴ・フォン・イリッヒ伯爵?」
と、お父様がすごむように確認すれば、その男は背筋を伸ばして直立し「はっ」と鋭く返事した。短く整えられた黒髪に、精悍な顔つきと体つき。
身長も高くて、ちょっと寄りかかったくらいじゃびくともしなさそうな頼もしさのある彼は、代々ホーエンベルクに仕えてくれているイリッヒ伯爵家の長男、ゲイヴ・フォン・イリッヒだ。歳は私よりも七つ上。
なので、お互い幼い頃からの顔見知りではあるけれど、ゲイヴはどちらかというと私よりマヌエルお兄様の方と仲がいい。だけど今は領地を離れて、皇室直属の帝国騎士団長を務めるお父様の副官をしてくれているのが、このゲイヴだ。
「よし。では、おまえに与えられた任務を復唱してみろ」
「私は、アシュタリゼお嬢様が皇太子殿下に婚約を解消される以前から、お嬢様と交際していた設定で振る舞います。さらに明後日に行われるバスラー伯爵家の夜会にお嬢様と出席し、以後はお嬢様の婚約者として周囲に認知されるよう務めます」
「うむ、それでよい。いいか、これはおまえ以外の人間には頼めんことだ。リゼとおまえの風評には浅からぬ傷がついてしまうが、我々はホーエンベルクを侮辱した皇家に対し、毅然とした態度を示す必要がある。すなわち当家は領内の貴族同士の婚姻で結束を強め、皇家に対抗する意思を見せつけるのだ」
「皇帝陛下は、ホーエンベルクを帝都に縛りつけておきさえすれば、手を噛まれる心配はないとお考えのようですからね。帝国の支配を快く思っていない属国が、大人しく皇室に従っているのは誰のおかげかということを、この機にしっかりと示さなくてはなりません」
と、険しい顔をしたお父様の隣で、扇を口もとに当てながらさらりとそんなことを言ってみせたのは、ホーエンベルク侯爵夫人──私のお母様だ。私がもうずっとループを繰り返しているという話は、お母様も承知済み。私たちは今そこに、ホーエンベルク領いちの忠臣であるイリッヒ家の嫡男を巻き込もうとしている。
「突然こんなことになってしまってごめんなさい、ゲイヴ。皇子の婚約者に以前から手を出していた、なんて噂が広まったら、あなたも心ない言葉をたくさん投げつけられるだろうけど……お父様のおっしゃるとおり、頼れるのはあなただけなの。引き受けてくれるかしら?」
「もちろんです、お嬢様。ご幼少のみぎりから、あれほど皇太子殿下に尽くしておられたにもかかわらず、そのご献身を裏切られたお嬢様の痛みに比べればこれしきのこと、どうということはございません。何より、主家の血と名誉とを盾となってお守りすることこそ、騎士の本懐ですから」
そう言って、ホーエンベルク邸の談話室で直立したままのゲイヴはにこりと、私に微笑みかけてくれた。彼は真面目で堅物で、感情というものをあまり表には出さない人だけど、お兄様と兄弟同然に育ったこともあってか、私のことを何かと気にかけてくれる。八つも歳の離れたお兄様は、出征に次ぐ出征で不在がちなお父様に代わって私を厳しくしつけようとなさったから、私も一時期はお兄様より、ゲイヴの方になついていたことがあったくらい。
たびたび私たちの兄妹喧嘩に巻き込まれたゲイヴはいつも困り顔をしていたけれど、でも、最後は決まって私の味方をしてくれた。
だからこそ私は今回、例の計画の協力者にゲイヴを推薦したわけだ。
すなわち私が、本物の悪女になるための共犯者に。
「うむ、よく言った、ゲイヴ。だが、ひとつ忠告しておこう。おまえにリゼの婚約者を名乗ることを許したのは、あくまでリゼの頼みだからであって、わしはまだおまえを男として認めてはおらん。無論、騎士としてのおまえは信用しているが、それとこれとは話が別だ。もしもリゼの身に何かあったら……」
「まあまあ、あなた。リゼを想って汚れ役を引き受けてくれたゲイヴに、そんな怖い顔をなさらないで。彼になら娘を任せても大丈夫ですよ」
「そうは言うが、あのフェルディナント皇子でさえリゼを裏切ったのだぞ? 此奴も幼い頃からリゼをよく知っているとはいえ……!」
「ごめんね、ゲイヴ。お父様ったら今、ちょっと人間不信気味なの。でも顔が怖いだけで悪気はないから……」
「心得ております、お嬢様」
「だけど今日、ここで話したことはくれぐれも内密にしてね。特に、イェルクには知られないように……」
「そちらも承知しております。弟は殿下と近すぎる上に勘の鋭いところがありますので、色々と探りを入れられるとは思いますが……しかし計画の内容も、目下お嬢様の身に降りかかっていることも、決して口外はしないとお約束いたします」
ゲイヴにはイェルクという四つ下の弟がいて、彼もまた帝国騎士団に名を連ねている。しかも騎士団内での役職は、皇太子専属の護衛官だ。
イェルクはフェルディナントと同い年という理由で、昔、赫鷲騎士団へ修行に来た彼の世話役に任じられ、以来ずっと側近く仕えてきた。ホーエンベルク領にいる間、フェルディナントが最も信頼していたのがイェルクだと言ってもいい。
だから成人して帝都へ戻ったあとも、お父様が帝国騎士団長になったのをいいことに、彼はイェルクを自らの護衛官として引き抜いた。
そのイェルクとは当然、私も仲はいいけれど……これまでのループを顧みるに、彼はあちら側だと思っていた方がいい。
イェルクは幼い頃からフェルディナントの傍にいたためか、直接の主君であるお父様よりも、ビュロン皇室に対する忠誠心の方が強いのだ。ま、そんな彼を弟に持つゲイヴなら、なおさら共犯者として適任だと見込んだわけなんだけどね。
「それじゃあ、ゲイヴ。今夜は来てくれてありがとう。明日からよろしくね」
「はい、最善を尽くします。お嬢様もよい夜を」
「うん。でも、明後日の夜会までには私のこと、〝お嬢様〟じゃなくて〝リゼ〟って呼ぶ練習をしといてね?」
「あ。し、失礼いたしました、り……リゼ」
「うーん、ぎこちない。あと、婚約者に敬語は変でしょ?」
「うっ……す、すまない……あ、明後日までには、何とか仕上げてくるので……」
と、ゲイヴも交えた晩餐のあと、玄関まで見送りに出た私の前で、彼は珍しくまごまごしていた。一〇〇回もループを繰り返してきたけれど、こんなゲイヴを見たのは初めてかも。それが何だか新鮮で、おかしくて笑ってしまったら、ゲイヴも笑い返してくれた。
(ゲイヴにも何度かループの件を打ち明けてるけど、彼だけはいつも必ず私の話を信じてくれたのよね。そのゲイヴと明日から婚約者になるなんて、自分で決めたこととはいえ、ちょっと気恥ずかしいというか……)
なんて、そんな彼を見ていたら、私もつい照れてしまう。
するとゲイヴは去り際に、ふとこちらへ手を伸ばしてきて──
「それでは、リゼ。また明後日に」
私の髪をそっと耳にかけがてら、顔を寄せてそう囁いたゲイヴを間近に見たら、私はますます赤面してしまった。美男子という言葉がぴったりのフェルディナントとは系統が違うけど、ゲイヴも充分整った顔立ちをしていることには違いない。
おまけに顔つきも体つきも男らしくて、こんなことをされると途端に異性として意識してしまうというか──いや、別に意識したからって何にもやましいことはないんだけどね! だって私、今日から彼の婚約者だもんね!
「うふふ……あらあら、リゼったら。その様子だと、新しい婚約者ともうまくやれそうね?」
ほどなく、見送りを終えた私が談話室へ戻ると、お父様と食後酒を愉しんでいたお母様が、私と同じ紅玉の瞳を細めながらからかってきた。
「も、もう、お母様! そういうこと言うと、お父様が明日からゲイヴをいじめちゃうから、あんまりからかわないで!」
「オホホ……それもそうね。明後日の夜会であなたと踊る前に、ゲイヴの手足が折られてしまっては大変だわ。現に今、ワイングラスがひとつ粉々にされたところだし」
「お、お父様……手、大丈夫?」
「ああ……何ともないぞ、リゼ。これは血やワインなどではなく、わしの涙だからな」
「お父様の涙って右手から出るんだ……?」
「けれど、リゼ。今さらこんなことを訊いても手遅れだけど……本当に構わないのね? あなたが今夜選んだのは、茨の道よ」
と、お母様が急に真面目な顔をしておっしゃるものだから、私もつと胸を衝かれて押し黙った。確かに、自ら噂どおりの悪女になるなんて、今までのループでは一度も試したことがない。でも、このループが始まる頃にはいつも決まって、ありもしない私の悪行の噂が社交界に蔓延している。これまでのループではその理由も出処も、はっきりとしたことは分からなかった。
とはいえ状況から考えるなら、水面下でアリマニカ王女との婚約を推し進めていた皇室が、私との婚約解消を正当化するための大義名分として噂という名の毒を少しずつ、少しずつ貴族たちの間に流し込んでいたと見るのが妥当だ。
だとすればそこには恐らく、フェルディナントも関与しているはずで──
(……自分たちがでっちあげた虚偽の噂が、気づいたら本物になっていたなんて知ったなら、さすがのフェルディも今までとは違う反応を示すはず。一方的に私を裏切るつもりが、実は自分も裏切られてたことが明るみに出るんですもの。もしかしたら私とゲイヴの関係に張り合おうとして……向こうから何か仕掛けてくるかも)
今までのループでは私の方からフェルディナントに接触しようとして、失敗してばかりいた。フェルディナントにもループの事実を打ち明けて、婚約破棄はしてくれて構わないから、どうかあなたが死なないよう守らせてほしいと伝えたいのに、面会も手紙のやりとりも、いつも拒絶されておしまい。
強引に会おうとして突き飛ばされ、
「もう二度と近寄らないでもらえるか」
と、まるで汚らわしいものでも見るように、冷たく吐き捨てられたこともある。
だから今回のループでは〝フェルディナントの方から私に接触したくなる理由を用意すればいい〟という、逆転の発想に打って出ることにした。もちろん、ループが繰り返されている理由は分からないままだし、フェルディナントの死を回避できたからといって、ループが終わる確証はまだどこにもないのだけれど──
(だとしてもやれることは片っ端から試してみなきゃ。そのためにここ一〇ループくらいかけて流行りのロマンス小説を読みあさり、徹底的に〝悪役令嬢〟の立ち回りを研究したんだから……!)
生来読書というものが苦手な私にとって、それは途方もない苦行の日々だった。
おかげで時間はかかってしまったけれど、あの苦しみに比べれば不快なだけで実害のない周りの風評なんてなんのそのだ。そんなものは今の私にとって、茨でも何でもない。名誉を挽回する術ならば、これからいくらでも用意すればいいのだし。
「大丈夫よ、お母様。こう見えて私、中身はもう酸いも甘いも噛み分けた貴婦人同然なんだから。純真で傷つきやすいかわいそうなアシュタリゼとは、とっくの昔にお別れしたの」
「あら、そう。わたくしはそんなアシュタリゼとはついぞ会ったことがないから、きっとずっと遠い昔にお別れしてしまったのね」
「お母様!」
「オホホホ……冗談よ。もっとこちらへおいでなさい、リゼ。わたくしたちの知らないところであなたがどれほど苦しみ、傷ついたのかは、正直想像を絶するわ。あなたをその苦悩から解放できるなら、母も覚悟を決めましょう。ゲイヴとの噂も、あらかじめしっかり流しておいたから……明後日の夜会では思う存分、鬱憤を晴らしてきなさい」
「まあ、さすがはお母様……! ありがとう。私、絶対にフェルディナントの鼻っ柱をへし折ってくるわ!」
「おお、リゼ! 母さんだけじゃないぞ! 父さんだってリゼのためなら何でもするぞ! だからわしとも抱擁を……!」
「あなたはその前に右手を何とかなさってください。そんな汚れた手でかわいい娘に触ろうだなんて、父親の風上にも置けないわね」
「おおん、イザベラ! おまえ、最近わしに冷たくないか……!?」
「あら、いやだ、気のせいですよ。皇室の側近く仕えておきながら、今の今までアウグシュタ人の策謀に気づかず、娘に大恥をかかせた夫に愛想を尽かしたりなどしておりませんから、どうかご安心を」
「ぬおお……! ぐうの音も出ん! でも愛想は尽かさないでッ!」
「まあ、それはあなたの今後の立ち回り次第ですわね」
なんて、いつもの夫婦漫才を始めたふたりの隣で笑いながら、私はお母様にぴったりと寄り添った。ここにお兄様もいたならきっと、一緒に呆れたり笑ったりしてくれたはず。何度ループを繰り返しても、この温かい日常だけは変わらない。
だから、フェルディナントのことはもういいの。
私には大好きな家族と、赫鷲騎士団のみんなさえいればいい。
ここでループが終わっても、少しも後悔なんてしない。
(……そうよ。しないと誓って、リゼ。ゲイヴはきっと、誰よりも真摯で誠実な、素敵な夫になってくれるはずだから)




