100日後の泣き虫皇子
帝都から上がる群衆の歓声が、宮殿まで聞こえてくるようだった。
今日は朝から誰も彼もが浮き足立って、終始落ち着かない雰囲気が漂っている。
そんな中、身支度を終えた俺は人払いをした寝室でソファに腰かけ、深い深いため息と共に顔を覆った。
「はあ、何です、殿下。いよいよってときに、辛気臭いため息なんかついて」
「いや……ものすごく今さらなんだが……俺がリゼと結婚するなんて果たして許されるんだろうかと、猛烈に不安になってきてな……」
「本当に今さらですね」
「だって、俺は一〇〇ループもの間、魔女なんかに騙されて、リゼを一方的に傷つけていたろくでなしだぞ……おまけにその魔女からも〝甲斐性なし〟とか言われたし……やっぱりリゼとはあのまま、婚約破棄していた方がよかったんじゃ……」
「まあ、言いたいことは分かりますが、こんな土壇場でヘタレないでくださいよ。とっくに引き返せないところまで来てるんですから」
「う……うぅっ……イェルク、おまえ……復帰したらしたで、相変わらず容赦がないな……」
「ええ、おかげさまで、謹慎が明けたら以前と同じように殿下にお仕えして構わないと、陛下からも団長からもお墨つきをいただきましたので、事件前と変わらぬ忠勤をと思いまして」
「だとしても、もうちょっと遠慮とかあってもいいんじゃないか……? 俺だっておまえに裏切られた被害者なんだから……」
「私じゃなくて、私を操った魔女にでしょう? まあ、子女相手に不覚を取って、まんまと洗脳されてしまったことはお詫びしますが……とはいえ、責任を取って首を差し出すと申し出た私に〝生きて償え〟とおっしゃったのは、他でもない殿下ですからね。恨むなら、私を生かす決断をなされたご自身を恨んでください」
そう言って傍らに控えたイェルクは、まったく悪びれもしない澄まし顔で姿勢を正した。あの事件のあと〝魔女に与したがゆえの謹慎〟という名目でしばらく休養していたイェルクが宮殿に戻ったのは、つい一週間前のことだ。
事件後、間もなく目を覚ましたイェルクはすっかりもとの人格を取り戻し、父上やゾフィーと同じく、魔女に操られていた期間の記憶を失っていた。
が、記憶のない間、俺を裏切って魔女のために働いていたことや、兄であるゲイヴを斬りつけたことを知るやたちまち精神に不調を来たし、その絶望ぶりは「どうか自分を裁いてほしい」と、涙ながらに懇願しに来るほどだった。
されど此度の一件でイェルクを罰するのなら、同じく魔女の傀儡と化していた父上の面目も潰れる。そもそも魔女の存在など知る由もなかったイェルクに抵抗の術はなく、魔法にかけられるのを防げたとも思えない。
ゆえに俺はイェルクの懇願を一蹴し、こう告げた。
「今はしばらく休め、イェルク。俺にはおまえを責めるつもりも、資格もない。魔女に踊らされていたのは俺も同じだからだ。だから生きて、共に償おう。本当の意味で自分を裁けるのは、この世で自分ひとりだけだ。おまえの罪も運命も、誰の手にも委ねるな。俺も、そうするから」
と。以降、イェルクは、怪我と毒の影響で静養が必要となったゲイヴと共に、イリッヒ邸でひと月余りのときを過ごし、こうしてまた戻ってきた。
戻ってきてくれた。兄弟水入らずで過ごす時間は、イェルクにほんの少しの許しと、再び前を向く力をくれたようだ。実際、ゲイヴも彼を責めてはいなかったし、魔女に連れ去られた弟が無事に帰ってきたことをただ喜んでいた。「脛に傷ができた者同士、これからも兄弟で支え合っていこう」と、そう言って。
「そういえば、昨夜はイリッヒ伯爵も交えての話し合いだったんだろう。どうだった?」
と、そこでふと思い出した俺はようやく顔を上げ、イェルクに尋ねた。
ゲイヴとイェルクの父であるイリッヒ伯爵は数日前に帝都入りして、今は兄弟と共にタウンハウスに滞在しているのだ。
すると振り向いた俺と目の合ったイェルクは、何やら意味深な微笑を湛えた。
さては笑って誤魔化すつもりかとも思ったが、ほどなくして彼は言う。
「まあ、そうですね。話は比較的穏便に済みましたよ。昨晩は、心配した団長とマヌエル様も同席してくださいましたから」
「ということは、殴られずに済んだのか?」
「いえ。そもそもうちの父は、団長ほど優しくありませんので。代わりに〝殴られて楽になろうなどとは思うな〟という有り難いお言葉を頂戴して終わりです」
「……なるほど。つまり、責めも許されもしなかったと」
「はい。ただ兄は、殿下の婚礼が無事に終わったら、マヌエル様と共に領地へ帰ることになりました。帰ったあとはもう、アシュタリゼお嬢様とは会わないつもりのようです」
と、イェルクから静かに告げられた事実に、俺は目を丸くした。
ゲイヴも弟と時期を前後して静養から復帰し、以前と変わらず帝国騎士団副団長としての務めをまっとうしているようだったから、そんな話は寝耳に水だ。
「な……は、伯爵がそうしろと言ったのか?」
「いえ。兄自身の希望です」
「それを、団長も伯爵も了承したと?」
「はい。後任の副団長の人事については、後日、改めて殿下にお話があるかと思います」
「だが、リゼは……リゼにはもう話したのか?」
「いいえ。お嬢様には、帝都を発つ日取りが決まってから伝えるそうです」
「それは……リゼが、悲しむぞ」
「でも、殿下は安心なさるでしょう?」
「うっ……だ、だとしても、別に、手紙のやりとりくらいなら……してもいい」
「あははっ。お嬢様とよりを戻されてから、素直になられましたね、殿下」
「からかうな。俺は本気で心配してるんだ」
「大丈夫ですよ、兄にはマヌエル様がいますから。殿下の婚儀のあとは、マヌエル様のご結婚も控えてますし、ホーエンベルク城もすぐにまた賑やかになります。そうすれば、兄もいくらか慰められると思うので」
「……なら、おまえも早くいい結婚相手を見つけることだな。伯爵もゲイヴも帰ってしまったら、おまえは帝都の屋敷にひとりだろう」
「そうですねぇ。私は次男なので、本当は未婚のままぶらぶら気楽にやるつもりだったんですけど、兄から本家の相続を押しつけられてしまいましたし……まあ、将来兄が寂しくないように、甥や姪をたくさん産んでくれそうな女性を探すことにしますよ」
「ふ……それがいい。ただし、相続で揉めない程度にな」
と俺がからかい混じりにそう言えば、イェルクもようやく本来の顔で笑った。
……ゲイヴもまだ、あの事件を引き摺っていたんだな。
だからこそ、自分で自分にけじめをつけようということなのだろう。
そうと分かっていても、幼い頃から一緒にいるのが当たり前だった兄弟が、いよいよ別々の道を歩き出すのかと思うと物寂しい。
だが事件の終幕をきっかけに、何もかもが終わりを迎えるわけじゃない。
俺たちの物語は、ここからまた始まるんだ。そしてその先には、それぞれが貫いた誓いの分だけ、祝福が待っていると信じたい。俺とアシュタリゼが一〇〇ループのときを超え、もう一度手と手を取り合えたように。
「──失礼。邪魔するぞ」
ところが刹那、不意にノックの音が響いて、寝室の扉がひとりでに開いた。
何ごとかと振り向けば、外で待機していた騎士たちが深々と頭を下げる様子に、俺も慌てて立ち上がる。
フランツ・マンフレート・フォン・ビュロンライヒ。
俺の父である当代の皇帝が、そこにいた。これには俺もイェルクも即座に姿勢を正し、父上を出迎える。小柄な母上とは対照的に、すっと伸びた背筋は実際の身長よりも、この人をさらに大きく見せた。俺と同じ青色の瞳はやわらかさと威厳を同時に湛え、顔も体も、一流の彫刻家の手によって巌から削り出されたかのよう。
皇家の象徴である銀髪は長く伸ばされ、今はうなじで束ねられているものの、ほどくとより厳格で近寄り難い印象になるのを俺はよく知っていた。
もっとも、母上が毎朝手ずから父上の髪を結うのを日課としているため、実を言うとほどいた姿は滅多にお目にかかれないのだが。
「父上。わざわざ私の居殿まで足をお運びいただけるとは……」
「よい、楽にせよ。出立の前に、息子の晴れ姿をじっくり見ておきたいと思っただけだ。花婿衣装、よく似合っておるではないか。仕立てが間に合ってよかったな」
そう言って目尻の皺を綻ばせた父上の眼差しに、俺は何とも言えない面映ゆさを感じた。そう、俺はつい先刻、婚礼用の盛装に着替え終えたばかりで、全身が白と銀の装飾で統一されている。胸には、伝統的な愛の証である銀の薔薇。
俺は今日、この薔薇をアシュタリゼに捧げにゆく。かつて薔薇の騎士たちが届けた愛の告白ではなく、これから夫婦となるための、愛の誓いとして。
「あ……ありがとうございます。母上が〝大聖堂で見るまでの楽しみにする〟とおっしゃっていたのですが、父上がそうおっしゃるなら、少なくともがっかりはされずに済みそうですね」
「ふふ、そうか。どうりで母上が朝からそわそわしていたわけだ──イェルク」
「はい、陛下」
「息子とふたりで話したい。少々席をはずしてもらえるか」
「御意に」
左手を胸に当て、恭しく一礼したイェルクは、父上の言葉に従って寝室をあとにした。ほどなくふたりきりになると、父上は先程まで俺が腰かけていた席の対座に着席する。俺も促されるがまま向かいに腰を下ろしたが──正直、生きた心地がしなかった。何せ、父と完全にふたりきりという状況など、生涯でも指折り数えるほどしか経験してこなかったから。
「ち、父上……その、婚礼の日取りについてですが……無理を申し上げてしまい、本当に申し訳ありませんでした」
「いや、よい。元々、年内には執り行うつもりで準備を進めていたのだ。予定が多少早まっただけのことで、そう畏まる必要はない。……緊張しているのか?」
「え、ええ……一応、人並みには。何しろ、予定をだいぶ前倒しにしたにもかかわらず、姉上たちの式よりもさらに規模が大きくなっていますので……」
「はっはっはっ。次期皇帝の婚礼だぞ。姉たちのときとは比べものにならぬのは当然だろう。しかしこれでも、余のときよりは控えめなくらいだ」
「そ……そうなのですか?」
「うむ。何を隠そう、皇族同士の結婚であったからな。息子同然に育てた余と、血を分けた愛娘の結婚とあって、叔父上がひどく張り切ってしまわれて……今のおまえを見ていると、あのときのことを思い出す。おまえもついこの間、ホーエンベルクのところへ修行へやったばかりだと思っていたのだがな……」
言いながら、父上は何かまぶしいものでも見るように目を細めて、束の間、じっと俺を見つめた。かと思えば組んでいた長い足を戻し、急に改まった口調で言う。
「とはいえまずは、無事に今日という日を迎えられてよかった。余が不甲斐ないばかりに、おまえには苦労をかけたな」
次いで父上が低く告げたその言葉が、何を指しているのかはすぐに分かった。
俺とアシュタリゼが巻き込まれていたループの話は、既に父上にも打ち明けてある。そして恐らく、父上はいずれのループでも魔女に操られていた。
今の謝罪は、そうした過去を振り返ってのものだろう。
「いいえ、父上。魔女に誑かされていたのは私も同じです。あれは誰も彼もが魔女の掌の上で踊らされた、不幸な事件でした。まさか魔女の目的が最初から、皇太子妃の座を手に入れることだったとは思いもしませんでしたし……」
「うむ……しかし、アウグシュタ王が偽の王女を送り込んでいたことには、もっと早くに気がつくべきであった。これについては紛れもない、余の手落ちだ。おまえと侯爵令嬢には、本当にすまないことをしたと思っている」
「父上……」
皇帝である父から、こんな風に謝罪を受ける日が来るとは思っていなかった。
……いや、違うな。父上は今この瞬間だけは〝ビュロン帝国の皇帝〟ではなく、ひとりの父親として向き合ってくれているのか。俺にはそれが何だかひどく嬉しくて、胸が詰まった。どれほど努力を重ねても、決して越えられる日など来ないだろうと思っていた父に、認められたような気がして。
「……そのお言葉をいただけただけで、私には充分です。アシュタリゼも、きっとそう言うと思います」
「そうか。だがアウグシュタには、此度の一件の代償は必ず払わせるぞ」
「はい。彼らは魔女を王女と偽って送り込んできただけでなく、過去に私が粛清した帝国貴族ともつながっていたようですし……」
「まあ、おかげで事件を〝アウグシュタ人が帝国の分断を狙って仕組んだ謀略であった〟ということにできたのは助かったがな。魔女の色恋で国が揺らぎかけたなどとは、皇家の威信に懸けて、口が裂けても言えぬであろう」
「そもそも〝魔女〟や〝悪魔〟などというものが実在したこと自体、世に広めるわけにはいきませんからね。シャモワの魔女には、このままおとぎの世界へ帰ってもらうのが最善でしょう」
と苦笑しながら、俺は無意識のうちに、あの夜、アリマニカの侍女に刺された腹のあたりに触れていた。アウグシュタ王国の王女、アリマニカ・アウグシュタが偽者だったことは既にアウグシュタ王の自供が取れており、事件の前からユングフラウに蔓延していたアシュタリゼを貶める噂もかの王が工作したものだったようだ。
しかし呆れたのが、わざわざ偽の王女など送り込んできたのは、本物のアリマニカが醜くて、世間に出すのが恥ずかしかったからというその理由。
そんなことのためにアウグシュタ王は、出自も定かならぬ女を娘の身代わりとして帝国へ差し出したというのだから、これにはホーエンベルク侯爵ですら憤る気力を削がれたようだった。とはいえ、問題の女が〝シャモワの魔女〟であったことまではさすがに把握していなかったらしく、帝国から送られた詰問の使者によってことの顛末を知った王は、泡を食って何もかもを自白した。
曰く、シャモワの魔女は俺との縁談を支援することを条件に王女として帝立学院へ入学することを肯じたらしい。
しかも無事に入学を果たしたあとには、約束を守らなければ自分が偽者であることを帝国にバラす、と王を脅迫していたらしく、ゆえに逆らうわけにはいかなかったと、泣きながらに弁明があったと使者から聞いた。
つまり、アリマニカは学院への入学時点で既に魔女であり、それは事件の発端となった最初の人生でもそうだったということだ。とすれば、俺がゲイヴに殺された例の事件も、恐らくは魔女が引き起こしたもの。アウグシュタ王曰く、魔女はビュロン帝国の皇太子妃の座に異様な執着を見せていたそうだから、あのときもゲイヴを操って、アシュタリゼを亡き者にしようとしたと見るべきだろう。
(結局、俺たちは最初から最後まで、魔女の身勝手に振り回されていたということだ。あんな女のために、俺は危うく帝国も、帝国一の忠臣も、最愛の人も失うところだった……その罪を、父上ひとりに背負わせるものか)
俺は今後もビュロン帝国の皇太子として、父上を支えながら罪を償う。
そして二度とビュロンにあんな混乱を起こさせはしない。戦争も政争も、もうたくさんだ。これからの未来を生きる俺たちには、そんなものは必要ない。
真の平和と豊かさを追求し、誰もが笑って暮らせる世を築いていくことこそが、大陸に覇を唱えた大国の務めというものだろう。
「さて、そろそろ時間だな。では行くとしようか、新郎殿」
「はい、父上」
「……」
「……? どうかなさいましたか?」
「いや……本当に、立派になったものだと思ってな。ほんの十四年前には、宮殿を離れるのが嫌だと言って、泣きべそをかいていたあの皇子が……」
「ぐっ……ち、父上……あれは当時、母上や姉上から散々に甘やかされていたのが原因であって……! 特に母上には、私を騎士修行へやりたくないと、夜毎泣かれたものですから……っ」
「はっはっはっ。そうであったな。当時は余もヘレーネに大層恨まれた。だが今では、おまえをホーエンベルクへやったのは正解だったと確信している。おかげで余も安心して玉座を退けるというものだ」
「縁起でもないことをおっしゃらないでください。父上には、まだまだ帝国を束ねていただかなければ困りますよ」
「既に四十年もこの座にいる老いぼれに、まだ働けと申すのか? むごいことを言う息子もいたものだな」
「ですが、私が物心ついてから父上と過ごした時間は、ホーエンベルク城で過ごした時間よりずっと短いのですよ? せめてもうしばらくは、帝国の父たる者としての手本を見せていただきませんと……」
「まったく、仕方のないやつだ。まあ、しかし、そうだな。せめておまえが〝父〟となるまでは、老体に鞭打つとするか。孫の顔も見ずに田舎へ引っ込んでは、またヘレーネに叱られてしまうからな」
言いながら立ち上がった父に笑い返して、俺もその背中を追った。以前は仰ぎ見るばかりだった父上と、こんな何でもない父子の会話ができたことが少しだけ誇らしい。それもこれも、俺を一人前の騎士として育ててくれたホーエンベルクの人々のおかげだ。だから俺は、守りたい。彼らと共に生きる未来を、この先も。
「フェルディナント」
ところが、部屋を出る直前。扉に手をかけたところで、ふと立ち止まった父上が改めて俺を振り向き、言った。
「最後にもうひとつ、言っておこう。これは余も叔父上から、口酸っぱく言われたことだが……皇家の人間が互いに愛し、愛される者と結婚できるというのは、奇跡にも近い幸運だ。余はその幸運が、おまえにも訪れたことを嬉しく思う」
「父上……」
「だからこそ降りかかる困難にも、今後、幾度となく直面することだろう。だが、おまえたちなら大丈夫だ。胸を張りなさい。おまえはもうあの頃の〝泣き虫皇子〟ではないのだから」
「……! はい……!」
そう言って微笑みかけてくれた父上の手によって、扉は開かれた。
目も眩むほどの真っ白な陽差しが、その先に満ちている。




