100回ループしたおてんば令嬢
「──リゼ。入るわよ」
と扉の外からお母様の声がして、姿見の前で最後の確認をしていた私は「はい」と返事しながら振り向いた。そこはユングフラウ宮殿に新たに設けられた、皇太子妃の居殿。廊下には当然のように警備の宮廷騎士が佇んでいて、彼らが開いてくれた扉の向こうから、お母様とお兄様がやってくる。
待ちに待った、フェルディナントとの婚礼当日。
私の支度が終わるのを別室で待っていたお母様は、真っ白に整えられた花嫁衣装を見るなり「まあ」と感嘆のため息を零した。最後まで着つけを手伝ってくれたゾフィーも、ふたりの反応を見るや満足げに微笑んで、一礼と共に引き下がる。
私が私の家族と過ごせる最後の時間。その時間を何も言わず尊重してくれるゾフィーの有能さは、彼女がもうすっかり以前の彼女に戻ったことを物語っていた。
「お母様、お兄様」
「ああ、リゼ。なんということでしょう。とても美しいわ……まるで若い頃のわたくしを見ているみたい」
「そういうことを平気でおっしゃるあたりが母上ですよねえ……ま、母上が今も昔もお美しいことは否定しませんが」
「うふふっ。そう言うお兄様もばっちりキマッてるわ。お兄様が帝都で着飾ってるところなんて、なかなか見られないから何だか新鮮!」
「からかうな。今のおまえの前じゃ、いくら盛装したところで霞んじまうよ──結婚おめでとう、リゼ」
そう言ってさりげなく私の手を取ったお兄様は、生まれて初めて、そこに淑女への挨拶をしてくれた。それが嬉しかったり、気恥ずかしかったりする一方で、ほんの少しだけ物寂しい。何故ならこの瞬間から、私はホーエンベルクを離れ、皇室の一員になるのだということを改めて思い知ったからだ。もちろんだからと言って、家族とのつながりがなくなるわけではないのだけれど。
しかしもう侯爵家のタウンハウスや、生まれ育ったホーエンベルク城へ気軽に帰ることはできないのだと思うと、薄いレース地のベールに感謝したくなるくらい、胸がきゅうと苦しくなった。
「あのね、お母様、お兄様。今日という日を無事に迎えられたこと、本当にありがとう。ふたりがいてくれなかったら、私、たぶん……屋敷が帝国騎士団に囲まれたあの夜に、全部諦めていたと思うの。だからお母様とお兄様には、感謝してもし切れないわ」
「あらあら。今さら何を言っているのかしらね、この子は……わたくしたちは家族なのだから、互いに守り合うのは当然のことでしょう。特にあなたは昔から、跳ねっ返りで向こう見ずで、放っておくと後先考えずに突っ走っていってしまうのだから……」
「ははは、そうそう。フェルディナントやゲイヴの件もそうだが、おまえは大事なものを守るためなら、自分のことなんか二の次三の次にしちまうからなあ。そのおまえを守ろうと思ったら、俺たちも全力にならざるを得なかったってだけの話で」
「うっ……け、けど、私をそういう風に育てたのは、お母様やお兄様じゃない! もちろんお父様のせいでもあるけど……!」
「何回叱られても自分を曲げなかったやつが、何言ってんだ。だから俺たちも諦めて、おまえの気の済むように、柔軟な教育方針を取ることにしたんじゃないか」
「オホホ……まったく、マヌエルの言うとおりね。花嫁修行を早々に投げ出した娘をここまで育て上げるのは、正直苦難の連続だったわ」
「お、お母様……っ」
「けれどね、リゼ。あの事件を乗り越えられたのは、他の令嬢たちが当たり前に手にするものを投げ出して、自分の心が望むものだけを選び続けたあなただからこそよ。わたくしたちはほんの少し、外側からそれを手伝っただけ……本当に、よく頑張りましたね。たとえお嫁に行ったって、あなたはわたくしの自慢の娘よ」
まるでまぶしいものでも見つめるみたいにそう言って、お母様は花嫁衣装の上から、そっと私を抱き締めてくれた。おかげで今度という今度こそ、ベールでは隠し切れないくらいの涙が迫り上がってくる。
でも、泣いちゃダメよ、アシュタリゼ!
ここで大泣きしたりしたら、せっかくゾフィーが手間暇かけてくれた化粧が台なしになっちゃう。だから、私も衣装が崩れない程度に力いっぱい、お母様を抱き締めた。あの夜をみんなで生きて越えられた奇跡に、改めて感謝しながら。
「それにしても、よかったわね。一年もかけて準備していたドレスが無駄にならなくて……あなたがフェルディとよりを戻さなかったら、危うく皇家にドレス代を請求してしまうところだったわ」
「お、お母様が言うと冗談に聞こえないのよ……しかも、ヘレーネ様ならふたつ返事で支払ってくれそうなのがまた怖いというか……」
「はははっ。だがそれだけ、婚前から婚家といい関係が築けてるってことじゃないか。フェルディナントはもちろん、両陛下になら安心しておまえを任せられるよ。特に陛下は懐の深いお方だし……」
「じゃ、次はお兄様がお義姉様のご家族にそう言ってもらえるように頑張って。お兄様の婚儀には、私もとびっきりのご祝儀を持って駆けつけるから!」
「おいおい、勘弁してくれよ……俺の婚儀は領地でささやかに済ませるつもりでいるんだから、あまり大事には──」
「──奥様、若旦那様、そろそろご出立のお時間でございます」
ところがそのとき、一度は扉の外へ引き取ったゾフィーが、廊下から遠慮がちなノックと共にそう告げた。……いよいよ別れのときだ。
これが今生の別れというわけではないけれど、やっぱり寂しくて胸が潰れそう。だけどいつまでも立ち止まってはいられない。
ループの魔法が解けた今、時間は進む。人生は続く。未来へ向かって、どこまでも。そして私はその未来を、フェルディナントと共に生きたいと望んだのだから。
「……それじゃあね、リゼ。先に大聖堂へ行って待っているわ」
「緊張しすぎて、馬車から転げ落ちたりするなよ?」
「そんなことしません! でも帝都は朝からとんでもない人だかりみたいだから、ふたりも気をつけてね」
「ああ。じゃ、またあとでな」
お兄様は軽く手を挙げてそう言うと、お母様をエスコートして踵を返した。
けれどもふたりが、そうして廊下へ向かった刹那。足音に気づいた騎士たちが開いてくれた扉の向こう、そこに新たな人影が佇んでいることに私は気づいた。
逆光で表情は分からないものの、お兄様はすれちがいざま何も言わずに目礼し、お母様もそっとその肩に触れてから退室する。
ふたりが寝室を去ったあと、入れ違いに絨毯を踏み締める足音と、硬い杖の音を響かせて入室してきたのは他でもないお父様だった。いつもは騎士団長の団服に身を包んでいることの多いお父様が、今日は紺地に銀糸の刺繍が施された燕尾服をまとい、胸もとには紅玉のクラヴァットピンを刺している。さらに左手の小指には、代々本家の当主にのみ受け継がれてきた『赫鷲』の紋章が彫られた指輪。
夜会でも、お父様はいつも騎士らしくドルマンにペリースという正装でいることが多かったから、私は貴重な燕尾服姿に、図らずも息を呑んでしまった。珍しく粧し込んだお兄様も普段とは別人みたいだったけど、お父様もかっこいい……!
「お父様……!」
「リゼ……驚いたな。まるで三十年前の母様を見ているようではないか」
「それ、さっき、お母様も自分でおっしゃってたわ。〝よく似合ってる〟って意味だと受け止めていいのよね?」
「おお、おお、もちろんだとも。わしはあのときの母様以上に美しいものなどこの世にあるまいと思っていたのに、娘のおまえが軽々と記憶を塗り替えてしまった」
「まあ、嬉しい! この花嫁衣装も、私なんかに着こなせるのかずっと不安だったから……」
「何を言う。世界一まぶしい『ホーエンベルクの紅玉』の輝きが、花嫁衣装ごときに呑まれてしまうわけがあるまい。本当に強く、美しくなったな、リゼ……そんなおまえをついに送り出す日が来たのかと思うと、父様は、父様は……っ」
と、先刻私が懸命に涙を堪えたのが馬鹿らしくなってしまうほど、お父様はおいおいと声を上げて泣き出した。困ったことに、あの事件があってからというもの、お父様は前にも増して涙脆くなってしまった気がする。だけどそれもそのはずだ。
お父様はホーエンベルク邸が帝国騎士団に囲まれた夜、イェルクを追った先で悪魔に襲われ、瀕死の重傷を負った。実際、死んでもおかしくないほどの傷だったにもかかわらず生き延びたのは、負傷したあともひとりで魔女を追おうとして街中で倒れ、ユングフラウの市民に助けられたおかげらしい。一緒に悪魔と戦ったゲイヴの従騎士は無惨に殺され、悪魔の贄として魔界へ引き摺り込まれた。にもかかわらずお父様だけが生還したのは、アリマニカに扮していたシャモワの魔女が、
「侯爵の死体が出ないと、騒動のあとの事後処理が面倒だから」
と言って、お父様だけは魔界へ送らなかったからだとか。魔女はその時点で、お父様も絶命したと思い込んでいたのだろう。ところが、お父様は重傷を負って倒れ込んだだけで、意識までは手放していなかった。ゆえに魔女と悪魔のやりとりを聞き、野放しにしておくわけにはいかないと無理をして追跡を続行した。
結果、途中で力尽きて数日間昏睡していたわけだけど、目覚めたあとには一目散に宮殿を目指し、再会したお母様たちに、アリマニカこそが魔女であると告げた。
おかげで私とフェルディナントは、魔女に騙されたまま永遠の別れを選択せずに済んだわけだ。けれどお父様はあのときの怪我が原因で左足が不自由になり、杖をつかなければ歩けない体になってしまった。辛うじて剣は振れるし、馬にも乗れなくはないものの、以前のような生活は二度と送れない。
だから体の衰えと一緒に、心まで弱くなってしまったのだろうと思う。
私もフェルディナントも、そのことに一番責任を感じていた。
お父様は「命を拾っただけでも儲けものだ」とおっしゃってくれたけど、幼い頃から憧れてやまなかった『百勝公』はもういない。
私が死なせてしまった。最愛の人の命と引きかえに。
「……お父様」
だけど私たちは、二度と過去へは戻れない。間違いや不都合を、なかったことにはもうできない。ならば逃げずに背負うと決めた。その誓いを胸に、私はレースの手套を嵌めた両手で、涙に濡れたお父様の右手を包み込む。
「私が今日、こうしてここにいられるのは、私を信じて守ってくれたお父様のおかげです。お父様は、私が生まれたときからずっと、ずっと……最高にかっこいい、ヒーローだったわ」
「リゼ……」
「だから今度は、私たちがお父様を守る番。フェルディがね、約束してくれたの。これからの帝国を私たちの手で、争いとは無縁の、平和で豊かな国にしていくんだって。もう二度と、お父様たちが戦場で剣を振るわなくていい時代をつくるわ。誰も血を流さなくていい時代を。たとえ綺麗ごとだと言われても──『赫鷲のホーエンベルク』の名に懸けて」
白い薔薇の冠で飾られたベールの向こうから、私はまっすぐにお父様を見つめて言った。そんな私を見つめ返したお父様の瞳から、なおもぽろぽろ、ぽろぽろと涙が零れ落ちていく。そのままたくましい腕を伸ばして、ひしと抱き寄せてくれたお父様を、私も思い切り抱き締めた──大好きよ。大好きよ、お父様!
言葉にならないこの想いが、少しでも伝わればいいと願いながら。
「リゼ、リゼ……父様はなあ……っ本当は、おまえに行ってほしくない……ずっと父様の傍にいてほしい……!」
「うん……」
「だが、それでもな……皇子なら……殿下になら、おまえを任せられる。あの方はこれからも変わらずおまえを愛し、守り、慈しんでくださるだろう──だからどうか、ふたりで幸せになりなさい」
「うん……!」
ついに堪え切れなかった涙がひと雫、ぽろりと零れてしまうのを感じながら、私は笑って頷いた。ほどなくまた扉が叩かれて、出発の時刻だと知らされる。
娘が父親に手を引かれる、最初で最後のエスコート。私は杖をつくお父様の歩調に合わせて、たくさんの騎士や廷臣が居並ぶ宮殿の廊下を渡り──やがてエントランスの外に停められた、白い馬車の踏段に足をかけた。
ユングフラウ宮殿の前庭には、既に先頭が見えないほど長い長い行列ができている。フェルディナントが乗る馬車はずっと前の方にあるはずで、ここからでは姿が確認できない。私がお父様と一緒に乗り込んだのは、色とりどりの花と金銀の宝飾で飾られた、壁も覆いもない婚礼馬車だ。フェルディナントも似たような馬車に乗ってるはずなんだけどな、と、無数に翻る旗幟の向こうを透かし見ようと、私がじぃっと目を凝らしていると、不意に馬蹄の音がひとつ、傍らに歩み寄ってきた。
「団長、お嬢様。そろそろ出発しますが、心の準備はよろしいですか?」
「……あ! ゲイヴ!」
白い馬車を引き立てる、真っ黒な軍馬に跨がって微笑みかけてきたのは、傷の静養から復帰したばかりのゲイヴだった。
今日は彼も黒髪を後ろに撫でつけて、帝国騎士団の団服に、普段は省略されがちな正帽や外套、飾帯まで揃えた、宮廷騎士の正礼装をしている。ということは、前方でフェルディナントの護衛についているはずのイェルクも同じ装いなのだろうなと思いながら、あまりにさまになったその姿に、私は思わず見惚れてしまった。
「げ、ゲイヴ……何だか、今日は雰囲気が違うっていうか……一段とかっこいいわね……」
「過分なお言葉です。お嬢様も、大変お綺麗ですよ」
「うっ……うん……! あ、あ、ありがとう……」
「ですが今後、式が滞りなく終わったあとは〝お嬢様〟ではなく〝妃殿下〟とお呼びしなければなりませんね」
「そ、そうね。最初のうちは慣れなくて、呼ばれても反応できないかもしれないけど……ていうか、何ならあなたたちは別に今までどおり〝リゼ〟って愛称で呼んでくれても……」
「そういうわけには参りません。あなたはこれから、一国の妃となられるのですから。何より、フェルディナント殿下のご機嫌を損ねるわけにはいきませんし」
「あー、まあ確かにフェルディは嫉妬しちゃうかもしれないけど……でも、少なくとも、お父様に投げ飛ばされる心配はもうないわよ? ね、お父様?」
「ゴホッ、ゴホンッ! そんなことよりゲイヴ、さっさと出発の合図を出せ! 陛下と殿下をお待たせするでない!」
「かしこまりました」
ゲイヴは笑ってそう答えると、すぐに騎士団へ合図を送った。婚礼行列の開始を告げる喇叭が高らかに吹き鳴らされ、鼓笛隊の奏でる音色と共に行進が始まる。
皇族の結婚を世に知らしめつつ、式場となる大聖堂まで市中を行進する華やかなパレードは、宮殿の敷地を出るなり目も眩むほどの喝采に迎えられた。道に並んだ誰もが手に手に祝いの花を持ち、笑顔で私やフェルディナントの名を呼んでいる。
ユングフラウの空は、見渡す限りの花吹雪でいっぱいだ。
「わあ、きれい……!」
呼びかけてくれる人々に手を振り返しながら、私は街全体が虹色に輝くような景色に見とれてしまった。そんな私を乗せた馬車を守り、先導する形で、ゲイヴも馬を進めている。結局彼との仮初めの婚約は解消となり、私は再びフェルディナントと婚約を交わすことになったわけだけど。事件の顛末を知ったゲイヴは何も言わずに身を引いて、私たちの復縁を祝福してくれた。本当は彼にも色々な想いや葛藤があるのだろうことを知りながら、私も、その祝福を受け入れた。
最初の事件もホーエンベルク邸での事件も、すべてが魔女に仕組まれたものだったことは分かってる。だからゲイヴを責める気持ちや恐怖の感情は消えていて、今はただ、長年彼の想いに気づけなかったこと──そして、彼に応えられなかったことへの罪悪感だけが残った。ゲイヴは「気にしなくていい」と言ってくれたし、あれから何ごともなかったみたいに以前の彼に戻ったけれど。
でも、私たちの関係はきっともう二度と、元には戻らないのよね。
それもまた、私がこれから背負っていくもののひとつだ。
「ご列席の皆様、大変お待たせいたしました。新婦、アシュタリゼ・フォン・ホーエンベルク侯爵令嬢のご入場です」
やがてユングフラウを一周する長い長い行進のあと、私たちはついに式場へと到着した。先程までの熱狂とは打って変わって、厳かな空気に満ちた大聖堂の赤絨毯を、私は一歩一歩、お父様と一緒に踏み締める。まっすぐに伸びた絨毯の先には、ステンドグラスから降り注ぐ七色の陽光に照らされた、最愛の人。
フェルディナント・マンフレート・フォン・ビュロンライヒ。
ループの始点から一〇一日後の今日、私は、この人の妻となる。
「新郎フェルディナント、ならびに新婦アシュタリゼよ。汝らは母なるマータの教えに従い、本日、神の御前と、聖なる教会の証人の前において……」
ほどなく始まった誓約の儀式のさなか、静まり返った大聖堂で、私はフェルディナントと向かい合って佇んだ。右手はひとつの女神十字を握り合い、それを大司教が聖布で包み込みながら、滔々と問いの句を読み上げる。
直前までフェルディナントの左胸にあった銀の薔薇は、今は私の左胸に。
その輝きが、こんなにも嬉しくて誇らしい。
「ここに、汝らは健やかなるときも病めるときも、富めるときも貧しきときも、歓びのときも悲しみのときも、命ある限り、互いを尊び、慰め、守り、誠実を尽くして、永久に愛し合うことを誓いますか?」
そうして大司教の問いかけが聖堂中に響き渡ったとき、私たちは顔を上げ、笑い合った。答えは、最初から決まっている。
「はい。我が剣と、女神マータの名に懸けて──誓います!」
(完)




