秘密は森の中②
どうして居場所がバレたのだろうと思ったけれど、答えは至極簡単だった。
だって、相手は魔女なのだ。私たちの潜伏している場所なんて、魔法を使えばあっという間に探し出せてしまえるに違いない。
でも、だとしたら私たち──どこへ逃げればいいの?
もうこの国に安全な場所なんてどこにもない。唯一逃げ込めるお父様の領地は、馬を急がせても一週間はかかる西の果て。
その間、休むことなく馬を走らせ続けるなんて現実的に不可能だ。
こちらには今、生死の境をさまよっているゲイヴだっているというのに。
「お兄様……っ」
「大丈夫だ、リゼ。今はとにかく掴まっていろ」
言いながら、手綱を握るお兄様は愛馬に鋭く鞭をくれる。
ひと晩を過ごした林務官舎を離れた私たちは現在、森の中の道なき道を馬を駆って逃げていた。私はお兄様の鞍の後ろに乗せられて、お互いの腰を縄で縛りつつ、何とかしがみついて激しい揺れに耐えている。意識のないゲイヴも同じようにお兄様の従騎士が運んでくれているけれど、状況は悪くなる一方だ。
本来なら絶対安静にしなければいけないゲイヴを馬に乗せて連れ回していることもそうだし、お兄様の右腕にもまた血が滲んでいる。
本当は馬を駆るだけでも、かなりの痛みを伴っているはずだ。
こんな逃避行をいつまでも続けるなんて、できっこない。
(どうしよう……どうすれば、みんなを助けられるの? こういうとき、お父様なら……フェルディならどうする? 諦めちゃダメ……考えなきゃ、考えなきゃ、考えなきゃ……!)
再び視界が涙で滲みそうになるのを、お兄様の背中にぎゅっと額を押しつけて堪えた。しっかりしなさい、アシュタリゼ!
今はどんなに泣いたって、誰も助けてくれやしない。だから考えるのよ。
一〇〇回ものループで培ってきた、知識と経験を総動員して……!
(シャモワの魔女……もしもすべての元凶が彼女にあるのだとしたら……魔法は、それを使うために悪魔と契約した者さえいなくなれば解けてなくなるって、前に読んだ書物に書かれてあった。だけど前のループで散々探したにもかかわらず、シャモワの山のどこにも魔女の姿はなかった……だったら彼女は今、どこにいるの? ひょっとしたらゾフィーやイェルクを操るために、案外、私たちのすぐ傍に潜んでいたのかも──)
「──うわっ、何だ? 急に視界が……」
ところが私が懸命に思考を回していると、お兄様が突然驚いたように馬を止めた。どうしたのかと慌てて顔を上げたところで、私もはっと息を呑む──湖だ。
青々とした水を湛えた湖が、星でもちりばめたみたいにキラキラと、初夏の陽差しを反射している。
(わあ、きれい……)
と思わず場違いな感想が浮かんでしまうほど、のどかで美しい景色だった。
湖畔は木の一本もなく開けていて、ちらちらと野花の揺れる草原が広がっているところを見ると、明らかに人の手が入っている。恐らくはあの官舎で暮らす森林官が、皇帝陛下の命を受けて管理している場所なのだろう。……でも、何か変だ。
(……何でだろう? 私……この場所に見覚えが──)
「はあ、しまったな……闇雲に走ってきたせいで、完全に方角を失った。ここじゃ見晴らしがよすぎてすぐに見つかっちまう。もっと他に身を隠せそうな場所を探さないと……」
「──……待って。待って、お兄様……!」
そこですぐさま馬首を返そうとしたお兄様を、私は無意識に引き留めていた。
と同時に自分とお兄様とを結わえつけていた縄を解き、半ば転げ落ちるように鞍を下りる。
「おい、リゼ、何してる!? 今は少しでも追っ手から距離を取らないと……!」
「分かってるわ! だけどお願い、少しだけ待って……! 私……何か……何か、とても大事なことを忘れている気が……」
言いながら、よろよろと立ち上がり、私は何とか自分の足で湖へ駆け寄ろうとした。けれども萎えた足はすぐにもつれて、どたりと草原に膝をついてしまう──それでも。それでも今、絶対に思い出さなければならないと、本能がそう言っている。魂が叫んでる。
そうよ。私は長い長いループの中で、自分の身に降りかかった不幸の数々が、フェルディナントと会うのをやめた途端、ぱたっと止まったことさえ忘れていた。
だとしたら他にも何か、大事なことを忘れていたとしてもおかしくない。そう思って、数歩歩いては転び、また数歩歩いては転びを繰り返す私を見ていられなくなったのか、ついにお兄様も馬を下りてきた。そうして私の傍へしゃがみ込むなり、
「湖へ行けばいいんだな?」
と言って、血の染みが広がるのも構わず私を抱き上げる。お兄様はそこから駆け足で、湖の畔まで向かってくれた。お兄様の馬を連れた従騎士たちもあとを追ってくる。そして湖面が近づくにつれ、私の中の確信も深まった。
ああ、私──やっぱり、この場所を知ってるわ。
「お兄様……私たち、前にここへ来たことがある?」
「え? いや……少なくとも、俺はないな。帝都の狩猟大会かなんかで、父上たちと一緒に来たんじゃないか?」
「そう、なのかしら……私、他のループでも、この森に立ち入ったことって、なかったと思うのだけど……」
記憶を遡りながら、私は細波が寄せる水際に下ろしてもらい、お兄様に支えられたまま立ち尽くした。そうする間にも何か、形のない不安と焦燥がぞわぞわと、胸の内を這い上がってくるのを感じる──気味が悪い。心の中でそう呟いて、思わず胸を押さえたときだった。波間に浮かぶ真昼の星を浚うような風が吹く。
青い湖面に浮かんだ水鳥たちが、遠くで水を蹴立てて飛んでゆく。
ここは穏やかで、静謐で、風がとても気持ちいい。
『んーっ、風が気持ちいいわね~! 遠駆けなんて久しぶり。だけどあなたの方から誘ってくるなんて珍しいじゃない、ゲイヴ?』
そう思った刹那、私の耳に甦った声があった。他の誰でもない、自分の声だ。
途端にはっと目を見開いて、傍らに佇む馬の背を見上げる。
そこには従騎士の肩に額を預け、ぐったりとしたゲイヴがいて──
『……急に呼びつけてしまって申し訳ございません、アシュタリゼお嬢様。殿下の婚約者であるあなたを内密に連れ出したなどということがバレたら、間違いなく首を刎ねられますね』
『ふふふっ、大丈夫よ。あなたのことは信用してるし、お父様にも絶対秘密にしておくから──』
直後、ガクガクと震え出した膝から力が抜けて、私はぺたんと座り込んだ。
異変に気づいたお兄様がそんな私の肩を支え、隣で何か言っているけれど、今は何も聞こえない。聞きたくない。
(ああ……思い、出した──)
そうだった。
私は、一度目の人生で。
ここで、ゲイヴに殺されるはずだったんだ。あの日「話がある」と言って呼び出されたこの湖畔で突然彼に襲われて、組み敷かれて、それから、それから──
「──おい、リゼ、聞いてるのか? どうしたんだ、リゼ!」
耳もとで叫ぶお兄様の声を意識の外で聞きながら、私は今にもバラバラになってしまいそうなほど震える自分の体を抱いて、抱いて、大粒の涙を零した。
あまりにも息ができなくて、陸の上にいるのに溺れているみたいだった。
「お……おに……さま……わた、し……私……っ」
「何だ? 何か思い出せたのか?」
「全部……私のせい、だった……」
「何?」
「私……私が、フェルディを……ゲイヴに殺されたフェルディを、生き返らせて、と……シャモワの魔女に、そう、頼んだのだわ……今、起きてる何もかも……全部、私が……!」
ああ、こんな大切なこと、どうして忘れていたんだろう。
いいえ、答えは簡単だわ。それが魔女との約束だったから。私はその約束を了承したの。私をかばって死んだフェルディナントを生き返らせることができるなら何だって構わないと、魔女が記憶を求めた意味を、深く考えもせずに。
『ではあなたの記憶と引き替えに、ひとつ試練を与えましょう、アシュタリゼ。死んだ人間を生き返らせるという願いは、わたくしの力をもってしても、そう簡単に叶えられるものではないの。だからあなたには、試練を乗り越えてもらう必要があるわ。そう、記憶を失ったまま、彼を死の運命から救い出すという試練をね──』
目の前でフェルディナントを失ってから、およそ一年が過ぎたあの日。
シャモワ山脈の奥地で私を迎えた魔女はそう言った。
きらめく赤毛と真っ赤な唇が目を引く〝妖艶〟という言葉がぴったりの魔女だった。ただし彼女には、名前がなかったように思う。そんなものは遠い昔に、悪魔にやってしまったの、と魔女は言った。それが魔界と契約を結び、魔法を手に入れる唯一の方法だったと。同じものを、私も求めた。その結果がこれだ。
私は名前を失う代わりに、一度目の人生の記憶と、大切な人たちの──フェルディナントの運命を、悪魔の贄として差し出した。
すべては、彼を救うための契約だったはずなのに。なのに、私は……!
「──! マヌエル様、森から誰か来ます!」
声を放って泣き崩れ、うずくまることしかできない私の耳に刹那、従騎士の警告が突き立った。立入禁止の森の奥までやってくる相手など、私たちを追跡してきた追っ手以外、考えられない。そこでようやく我に返り、顔を上げた私にも、木立の奥から近づいてくる重い馬蹄の音が聞こえた。しかも、ひとつやふたつじゃない。
少なくとも二十騎以上はいるだろうと思われる馬蹄の響きが、腐葉土を蹴立てて迫っていた。だけどこんな見晴らしのいい場所じゃ、今から馬に飛び乗って駆け出したって逃げ切れない。
「くそっ……おい、銃を貸せ。俺が時間を稼ぐ。おまえたちは妹を連れて早く逃げろ」
「なりません、マヌエル様! でしたら我々が……!」
「この中で一番銃の扱いに慣れているのは俺だ。どうしてもと言うのなら誰かひとりだけ、弾の装填係として残ってくれ」
「では私がお供いたします」
と、即座に馬の背から滑り下りたのは、四人の中で最も年長の、お父様の従騎士だった。私たちは林務官舎を出てくるときに、森林官が所持していた猟銃一式を拝借してきている。お兄様はそれを使って時間を稼ぐつもりだ。ここ数年、狩猟のために銃にも親しんできたお兄様なら、誰よりも正確な射撃ができる。
だけどお兄様を囮として置いていくなんて、そんなの、できるわけない!
「ダメよ、お兄様! いくら銃があったって、帝国騎士団相手に足止めなんてできっこない! 全部私のせいなの……! だから、ここは私が──」
「馬鹿を言うな、リゼ。俺が母上に立てた誓いを、早々に破らせるつもりか?」
「でも!」
「詳しいことは分からないが、何か思い出したんだろう? ならおまえの記憶が、この状況を打開するための鍵となるはずだ。分かったらもう行け。ゲイヴと従騎士たちを頼む」
「嫌よ、放してっ! お兄様……っお兄様──!」
「──リゼ!!」
けれど、そのときだった。お父様の従騎士によって、湖岸の岩陰に身を潜めたお兄様から引き離され、馬上へ抱え上げられそうになった、刹那。
私の名前を呼んだのは、お兄様じゃなかった。
信じられない思いで、新緑の森を振り返る。木立の向こうから現れたひと群の馬たちは皆、帝国騎士団の証である赤と金の障泥や馬面甲を身につけていて──
「マヌエル、撃つな! 僕だ!」
そう言って馬上からお兄様に呼びかけたのは、斜めに注ぐ木漏れ日を銀髪に浴びた、彼だった。
フェルディナント・マンフレート・フォン・ビュロンライヒ。仔馬の頃からホーエンベルクで共に育った白馬を駆った、私の大切な、大切な皇子様──
「フェル……ディ……? フェルディ……フェルディ──」
その姿をこの目で見ても、まだ信じられなかった。
私は、幻でも見ているんじゃないだろうか。
そう思いながら、従騎士が呆気に取られているうちに腕から抜け出し、彼に向かって走り出す。もちろん、すぐに足がもつれて転んだ。
痛みを感じる暇もなく、また立ち上がって駆け出した。
それを見たフェルディナントも、すぐさま鞍を飛び下りて──私たちは互いに走り寄り、手を伸ばして、最後は固く、固く抱き合った。
「フェルディ……! 会いたかっ……た……っ……会いたかった……!」
「僕もだ、リゼ。遅くなって、すまなかった──」
フェルディナントはそう言って、泣き崩れる私の全身を支えるように抱き寄せてくれた。わあわあと声を上げて泣く私の泣き声だけが、静かな森の湖畔に響いている。ああ、よかった。幻じゃない。彼はあの日、この場所で命を落とし、それでも私を迎えに来てくれた、本物のフェルディナントだ。
「フェルディナント、おまえ、どうして……」
ほどなく、森から現れたのがフェルディナント率いる味方の騎士であることを理解したお兄様が、皆を連れて歩み寄ってきた。
するとフェルディナントも顔を上げ、不器用に笑いかける。
「久しぶりだな、マヌエル。こんな形で再会するとは思いもしなかったが……ともかく、君も無事でよかった」
「あ、ああ。けど俺たちはてっきり、騎士団の追っ手がかかっているものと……」
「君たちが潜伏していた官舎へ向かったのは、確かに魔女の息がかかった一派だ。だがやつらなら、もう撤収させたから心配ない」
「なんだ、そうだったのか……ってちょっと待て。〝魔女〟だって? おまえ、どうしてそれを……!」
「ああ、君たちの事情なら、侯爵夫人から伺ったよ。今回の騒動は恐らく、ホーエンベルクの口封じを狙った魔女によって引き起こされたものだとな」
「……! ま、待って、フェルディ。それじゃ、お母様は……!?」
「もちろん無事だ。今は母上と安全な場所にいる。もう何も心配はいらない。ビュロン帝国皇太子の名に懸けて、以後何人たりとも、ホーエンベルクに手出しはさせないと約束しよう」
そう言って微笑みかけてくれたフェルディナントの笑顔は、あまりにもまぶしくて。私はお兄様と顔を見合わせたあと、また涙が溢れ出すのを止められなかった。
するとお兄様も、そんな私たちをまとめて抱き寄せてくれる。
そうしてぽん、ぽんと優しく肩を叩いたあと──最後に一発、ものすごい力で私たちの背中を引っ叩いた。
「いっ……たあっ!? おっ、お兄様、何するの!?」
「言っただろ、これで喧嘩両成敗だ。今なら皇妃陛下の目もないし、万事丸く収まってめでたしめでたしだな」
「だっ……だからって、ほんとに叩かなくても……っ! フェルディなんて、事前に何も聞いてないのに……!」
と、私がさっきとは別の意味で涙目になって抗議すれば、お兄様は他人事みたいにハハハと笑った。だけど、一緒に怒り出してもいいはずのフェルディナントからは何の反応もない。それを不思議に思った私の視線の先で、彼は──じわりと血の滲んだ脇腹を押さえながら、完全に言葉を失っていた。
「え……えっ……!? ふ、フェルディ、しっかりして! その傷、どうしたの!?」
「あ、ああ……心配ない……昨夜、ちょっとしたゴタゴタに巻き込まれてな……そこからほとんど休まず馬を飛ばしてきたものだから、少し傷が開いただけだ……」
「そんな……! 馬を飛ばしてきたからっていうより、今のお兄様のせいよね!?」
「い、いや、濡れ衣だろ! 傷なら、ほら、俺のも開いてるし、何ならゲイヴだって……!」
「どこで張り合ってるのよ!? いいから、ちゃんとフェルディに謝って!」
「は……ははっ……相変わらずだな、君たちは……」
おなかの傷を痛そうに押さえながら、けれど、フェルディナントは笑っていた。
心の底から安堵したみたいに──嬉しそうに。
おかげで私たちも張り詰めていたものが緩んで、つられて笑い出してしまう。
かくして、ホーエンベルクを巡る一連の冤罪騒動は幕を閉じた。
まだいくつかの謎と、不穏の種を残したまま。




