秘密は森の中①
爽やかな初夏の陽差しが注ぐ窓の向こうから、賑やかに歌う鳥の声が聞こえていた。カーテンを揺らすそよ風が、木々のざわめきと新緑の香りをふわりと運んでくる。……ここは、とても静かだ。時刻は昼時を少し過ぎた頃だろうか。
私は、石の壁に背凭れを寄せた椅子の上で膝を抱え、じっと顔をうずめていた。
そうして森の奏でる音色を聞きながら、祈って待つことしかできない。
女神マータが今度こそ、私の願いを聞き届けてくれるのを。
「──リゼ。入るぞ」
と、不意に扉を叩く音がして、私は石を詰めたように重い頭をぼんやりともたげた。すると、視線を投げかけた質素な扉の向こうから、すっかり猟師の身なりに着替えたお兄様がやってくる。手にはいくつかの食器が乗ったトレイ。
さっきから煮炊きのにおいがすると思っていたけれど、どうやらお兄様が昼食を用意してくれていたみたいだった。
「お兄様、その格好……」
「ああ、官舎の一室にあったのを拝借したんだ。森の中を見て回るのに貴族の身なりをしてちゃ目立つからな。今朝はろくに食事もしてないし、腹減っただろ? 厨房に押し麦があったから、おまえでも食べられそうなものを作らせた。ほら、今のうちにしっかり食べておけ」
そう言ってお兄様が差し出してきたのは、押し麦とレンズ豆、ジャガイモやニンジンやマッシュルーム、そして、挽き肉が入った煮込み料理だった。
どの食材もかなり細かく切られているのは、たぶん、病み上がりの私でも食べやすいようにという配慮だろう。
正直、状況が状況なだけに、食欲なんてものは少しも湧いてこないのだけど、何か口にしておかないと、いざというとき体が持たないのも事実。ゆえに私はお礼を言ってトレイを受け取り、膝に置いた皿の上から、ゆっくりと食事を口へ運んだ。
「ゲイヴの様子はどうだ?」
「……分からない。熱は全然下がらないし、呼びかけても何の反応もなくて……とりあえず今は汗を拭いて、頭を冷やしてあげることくらいしか……」
「そうか……さっき、厨房で蜂蜜を見つけたんだ。ちょっとでも意識が戻ってくれれば、こいつに薬を混ぜて飲ませるんだがな」
と、お兄様が懐から取り出して枕もとに置いたのは、確かに蜂蜜入りの小瓶だった。そうしながら、お兄様は私の隣にある寝台を覗き込み、仰向けに横たわった彼の名前を呼んでいる。
「おい、ゲイヴ。あんまり長く寝込むと、体がなまるぞ。おまえにはこれからもっと働いてもらわなきゃならないんだから……だから、早く戻ってこい」
そう言ってお兄様が軽く頬を叩いたのは他でもない、昨夜から昏睡したままのゲイヴだった。彼が魔女に操られたイェルクに襲われ、毒を受けたと私たちが知ったのは、昨日、帝国騎士団に追われてホーエンベルク邸を飛び出したあとのことだ。
私とお兄様はあれから、イェルクの身柄を押さえに行ったお父様やゲイヴと合流するべく、イリッヒ邸へ直行した。ところがいざ到着してみると、イリッヒ邸も既に騎士団に包囲され、邸内にまで騎士が乗り込んでいる様子だった。そのせいで屋敷に近づけず、私たちは近くの物陰に隠れて、どうしたものかと困り果てていたのだけれど。そんなとき、私たちの姿を見つけて声をかけてくれた人たちがいた。
それが、ゲイヴを連れて屋敷を脱出していたイリッヒ家の従僕たちだったのだ。
彼らはイェルクが逃亡を図ったあと、負傷したゲイヴを連れてホーエンベルク邸へ避難するよう、お父様から指示されたと言っていた。が、何の先触れもなく主家へ駆け込むわけにもいかないだろうと、ひとまず私たちの待つホーエンベルク邸へ使いをやったところ、帝国騎士団が押しかけていく現場を目撃したらしい。
これに肝を潰した使いは大慌てで引き返し、このままでは騎士団がイリッヒ邸にやってくるのも時間の問題だと皆に知らせた。が、負傷した上、意識不明のゲイヴが屋敷にいたのでは、間違いなく事情を問い質される。そこで「イェルクにやられた」などと証言しようものなら、イェルクもまた帝国騎士団の副団長を襲った反逆者にされてしまうのは避けられない。よって彼らは医者の到着を待たず、断腸の思いでゲイヴを屋敷から連れ出した。イリッヒ伯爵のふたりの息子をどちらも守ろうと思ったら、彼らに取れ得る選択肢は、他になかったのだろう。
「分かった。そういうことなら、ゲイヴの身柄は俺が預かる。おまえたちは、イェルクの捜索や侯爵家への連絡のために外へ出ていたということにして屋敷へ戻れ。騎士団の狙いはあくまで侯爵家だ。何も知らない使用人にまで危害を加えることはないだろう」
話を聞いたお兄様はそう言って、イリッヒ邸の使用人たちを逃がした。
意識のないまま馬車に乗せられていたゲイヴは馬に乗せ替え、お兄様の従騎士が背負うように縄で縛って、この森まで運んでくれた。
その間、私にできたことはといえば、お兄様の腕の中でただ震えていることだけだ。……こんなことになったのは全部、私のせい。
(ゾフィーも、ゲイヴも、イェルクも──お母様も、みんな私が巻き込んだ。私がループのことを打ち明けたりしなければ……ひとりで解決していれば、こうはならなかったはず。イェルクを追いかけたっていうお父様の行方も分からないし……フェルディも今頃、宮殿で大変な目に遭ってるんじゃないかしら。〝謀叛人のホーエンベルク〟と関わりの深い皇太子として……)
そう思ったらいよいよ食事も喉を通らなくなって、私はスプーンを運んでいた手を止めた。めそめそしていたって何の解決にもならないのに、必死で唇を噛み締めていないと、すぐに涙が溢れそうになる。
こんなことになるのなら、もっと早くに全部諦めてしまえばよかった。
大好きな人たちを守れるなら、私の命なんかどうなったって構わないのだから。
(でも、こうなってしまった以上は、せめて侯爵家にかかった疑いだけでも晴らさなきゃ。ここでループが終わっても……私が死んでも、みんなにはもう二度と、危険が及ばないように……)
何よりお兄様だって、私の前では平気なふりをしているけれど、本心は不安でいっぱいのはず。なのにこれ以上、迷惑をかけるわけにはいかない。
そう自分に言い聞かせ、ぎゅっと握った拳で目もとを拭おうとしたとき、私はふと気がついた。傍らでゲイヴの様子を見守るお兄様のシャツの袖に、うっすらと血が滲んでいることに。
「……! お、お兄様、それっ……! 昨日の傷が開いて……!」
「え? ああ、本当だ。銃で撃たれた傷ってのは、血が止まりにくいとは聞いてたが、ここまでとは……」
「のんきに言ってる場合!? もう一度止血するから、座って!」
「そんなに騒がなくても、ただの掠り傷だよ」
「い・い・か・らっ! 昔、稽古で怪我したときもおんなじこと言って放置したあげく、高熱出してひっくり返ったのはどこの誰!?」
「俺です……」
「ええ、そうです! 分かったらさっさと服を脱いでちょうだい!」
「リゼ、おまえ、そういうとこ母上に似てきたなあ……」
と呆れたような困ったような顔で言いながら、お兄様は渋々といった様子で、革のベストとシャツを脱ぎ始めた。ゲイヴが右腕に負った傷も定期的に包帯を替えないといけないからと、救急箱は初めから彼の枕もとに置いてある。
私はそれを手に取って、床の上に座り込んだお兄様の隣に膝をついた。お兄様が昨夜負傷したのも右腕だ。血の滲んだ包帯をはずすと、その下から剣で斬られたのとはまるで違う、肉が線状に抉られた傷が現れて、私は思わず息を詰めた。
「うぅ、痛そう……お兄様、こんな傷こさえてよく平気な顔してられるわね……」
「そりゃ、昔から父上に何度となく殴られて、痛いのには慣れてるからな。何より今回は、この官舎を乗っ取った俺たちが完全に悪いんだし、被害者面するわけにもいかないだろ」
「そういえば、地下に閉じ込めた森林官たちは? 大丈夫なの?」
「ああ。一応、俺たちに敵意がないというのは分かってもらえたみたいだ。だがいきなり襲撃した上に、今も監禁を強いてる以上は、後日改めて正式な謝罪と賠償が必要だろうな」
言いながら、お兄様は私が肩口に巻いた止血帯の端を咥えると、もう一方の端を左手で掴んで、力いっぱい引っ張った。昨日まで昏睡していた私は足だけでなく腕の筋力まで落ちていて、充分な強さで布を巻くことができないからだ。代わりに私はトレイに乗っていた水差しの水で傷を洗い、清潔な布を押し当てた。
お兄様がこの傷を負ったのは、昨日の真夜中のこと。
騎士団の追跡を逃れるため、一度帝都から脱出することにした私たちは、馬を駆って郊外にある森の中へと逃げ込んだ。
ここは皇室の狩猟場を兼ねた広大な御料林で、日頃から狼などの害獣や密猟者の侵入を監視する森林官によって管理されている。彼らはその仕事のために、森のあちこちに林務官舎と呼ばれる小さな館を構えていて、私たちはそこを隠れ家として使わせてもらうことにしたのだ。通常、官舎で生活しているのは森林官一家と見習い猟師が二、三人。これなら自分と従騎士四人で制圧できると踏んだお兄様は、夜闇に乗じて奇襲をかけ、どうにか彼らを無力化することに成功した。
が、いくら切羽詰まった状況とはいえ、こちらの一方的な事情を押しつけて、何の罪もない人々に危害を及ぼすことは騎士道に反する。ゆえにお兄様は、森林官とその妻子、及び見習いを無傷で拘束しようとして、撃たれた。森林官は森で危険な獣や密猟者と遭遇したときのために、職務上、銃を携帯しているのだ。が、まさか猟銃だけでなく短銃まで常備されているとは思わず、お兄様は油断を衝かれた。
もっとも弾が腕を掠めただけで、直撃を免れたのは不幸中の幸いだったけど。
(でも、一歩間違えてたら、お兄様の命はなかったわ。あのときも私はただ、何もできずに見てただけ……これじゃ一体何のために戦い方を学んだのか分からない。肝心なときに限って、何の役にも立てないなんて……)
思えば、お父様やお母様には大反対された剣術をこっそり教えてくれたのも、お兄様とゲイヴだった。お兄様は昔から厳しくて、悪戯や無茶ばかりしていた私のことをよく叱りつけていたけれど、私も剣を取ってみんなを守りたいという想いだけは、何も言わず尊重してくれた。
だけどこんなことなら、剣じゃなくて銃を習うべきだったかも。
最近じゃ戦にもどんどん銃が導入されてるっていうし、引き金を引くだけの武器ならたとえ足腰が立たなくたって、みんなの役に立てたかもしれないのに……。
「なあ、リゼ。そういえば、まだちゃんと言ってなかったが……ゲイヴのこと、ありがとうな」
「……え?」
ところが、私が内心、じくじくと疼く後悔を抱えながら新しい包帯を巻いていると、突然お兄様が口を開いた。何のことだか分からず、思わずぽかんと顔を上げれば、目が合ったお兄様は可笑しそうにぷっと苦笑を零して言う。
「何だよ、その顔は? 昨日、おまえが父上を止めてくれてなきゃ、ゲイヴのやつはとっくに首と胴が離れてたんだぞ?」
「え……あ、ああ、なんだ、あのことね。でも、結局ゲイヴをこんな目に遭わせちゃったし、私は何も……」
「だとしても、だ。自分を手籠めにしようとした男のために体を張るなんて、普通できることじゃない。いくらあれがゲイヴの意思じゃなかったとしてもだ。おまえだって、いきなり襲われて怖かっただろうに……それでもこいつを許してくれて、ありがとう」
お兄様はいつになく静かな声でそう言うと、私の髪をひと房、掴むように撫で下ろした。その手つきがあまりに優しいものだから、私は言葉に詰まってお兄様を見る。するとお兄様はふっと微笑って、包帯を巻き終えた腕から止血帯をはずし、シャツに袖を通し始めた。
「けど、悪かったな。こんなことになるなら、やっぱりおまえにも話しておくべきだったよ。こいつがおまえに惚れてること」
「……え? えぇっ!? お、お兄様、もしかして知ってたの……!?」
「当たり前だろ? 俺がどれだけこいつと一緒にいたと思ってるんだよ。ただ、ゲイヴからおまえには言わないでほしいと頼まれてな……こいつは別におまえとどうにかなりたいなんて、これっぽっちも望んじゃいなかったから」
「そ……そう、なの?」
「ああ。ゲイヴが誰よりも身の程をわきまえてるのは、おまえも知ってるだろ。こいつは主君の娘に手を出すようなやつじゃないし、おまえの幸せを傍で守れることが自分の幸せだと、そう言ってた。そのために、伯爵家の領地のほとんどは弟に譲る算段まで立ててたくらいだ」
「えぇっ……!? ち、長男なのに!?」
「まあ、うちの国は分割相続が基本だからな。本家を継ぐのは必ず長男じゃなきゃいけないって決まりもないだろ?」
「で、でも、だからって……!」
「たぶんゲイヴは、生涯所帯を持たないつもりだったんじゃないか? その方が身軽でいられるし、おまえが皇太子妃になっても領地のことを気にせず、ずっと傍で見守れるだろ」
「……!」
「……こいつは、そういうやつだからさ。あんなことになって、一番絶望したのもこいつだと思うんだ。だから俺も父上を止めたかった。魔女なんかのために最も望まないものを強いられたゲイヴを、あのまま死なせるなんて冗談じゃないと……だが、俺ひとりじゃ、父上を説得するなんて到底無理だったな。おまえがいてくれて本当によかったよ。ありがとう、リゼ」
そう言って、しっかりベストの留め具まで閉め終えたあと、お兄様はもう一度微笑んだ。この人のこういうところ──卑怯だ。
いつもはお父様に似てどこか抜けてるくせに妹のことをちゃんと見てくれてて、必要なときに、必要な言葉をかけてくれる。そういうとこ、ゲイヴとそっくり。
そのせいで、私は帝都に来てから彼に頼りきりになっちゃったのよ?
ゲイヴもお兄様と同じくらい、私を大事にしてくれたから。
いつだって、お兄様と同じ瞳をしてたから──
「でも、お兄様……もしもこのまま……ゲイヴが、目を覚まさなかったらどうしよう……っ……私のせいで、ゲイヴが……っお母様が……!」
「大丈夫だ。母上もゲイヴも、おまえを遺していったりしない。そうなったら、誰よりもおまえが一番悲しむのを知ってるからだ」
「じゃあ……っじゃあ、お父様も……イェルクも……?」
「ああ。父上なんか言わずもがなだし、イェルクは死んだらゲイヴにぶん殴られるのが嫌で戻ってくるよ」
「なら、フェルディは……? 私、ずっと、フェルディのこと誤解して……ひどいことも、たくさん言っちゃった……っフェルディは、私のこと……守ろうとしてくれてただけかも、しれないのに……!」
「そうだな。だがそれは、誤解させたあいつも悪い。だから俺が一発ずつ叩いて、喧嘩両成敗にしてやるよ」
「う、うぅっ……うぅーっ……そんなことしたら、お兄様がヘレーネ様に怒られちゃうぅ……っ!」
ぼろぼろ、ぼろぼろと、とめどなく零れ出した涙を拭いながら私がそう泣きじゃくれば、お兄様は笑って胸を貸してくれた。
昨日の夜から必死に抑えていたものが全部溢れて、止められない。
怖い。つらい。苦しい。悲しい。何より、胸が痛くてたまらない。
大好きで大切な人たちに、私は何も返せてない。
このまま死ぬなんて、やっぱり嫌だ。
もう一度、ループが始まる前のあの日々に戻りたい。
みんなが屈託もなく笑い合えていた、遠くて、かけがえのない日々に。
「──マヌエル様、どちらにいらっしゃいますか? マヌエル様!」
ところがなおもお兄様に抱かれて泣きじゃくっていると、どこからか呼び声がした。ユングフラウの偵察へ行ったはずの、お兄様の従騎士の声だ。
彼は普段領地で暮らしていて、帝都ではあまり顔を知られていないからと、情報収集のために今朝お兄様が派遣したのだった。
「俺ならここだ。偵察はどうだった?」
ほどなく部屋を出たお兄様は、二階の吹き抜けから一階にいる従騎士へ向かって声をかけた。私もお兄様に掴まってついていくと、階下にはお父様の従騎士もみんな集まっている。
「マヌエル様! アシュタリゼお嬢様も、時間がありません。ただちに出立のご準備を……!」
「何? どういうことだ?」
「──騎士団です! 帝国騎士団が、まっすぐこちらへ向かっています! 今すぐここを離れましょう……!」




