真実は踊る
翌日、目が覚めると、太陽は既に高く昇っていた。
「フェルディナント……! ああ、よかった……無事に目が覚めたのね。本当によかった……!」
差し込んだ陽差しのまぶしさにうめくなり、そう言って覗き込んできたのは母上だ。さらに母上の傍らにはホーエンベルク侯爵夫人の姿もあって、ふたりは夜も眠らずに、寝室で俺の介抱をしてくれていたようだった。
「ご心配をおかけして申し訳ございません、母上……侯爵夫人もご無事で何よりです。あれから、あの侍女はどうなったのですか?」
「それがね……ひとまず身柄は押さえたのだけど、皆があなたの救護にかかりきりになっている間に、隙を衝いて自害してしまったのよ。そのせいで、詳しい話は何も聞き出せなくて……」
「自害……そう、ですか……では、彼女の主人であるアリマニカは? 彼女は無事ですか?」
「フェルディナント……ごめんなさい。今、陛下にお願いして探してもらっているのだけれど……実はニカちゃんも、夕べから行方が分からないの。もしかしたら昨日の事件を起こしたのもニカちゃんなんじゃないかって、みんな噂してて……」
「な……そんな馬鹿な──ッ痛……!」
「まあ、動いてはダメよ、フェルディ! 毒は抜けたとはいえ、腹部の傷はまだ塞がっていないのだから……!」
思わず飛び起きた俺が、左の脇腹に走った痛みに息を詰めると、慌てた夫人と母上とが再び横にならせてくれた。だが、アリマニカが行方不明だなんて──にわかには信じられない。ましてや昨夜、例の侍女を送り込んだのが彼女かもしれないなどと言われても、俺には到底受け入れられなかった。
「母上……あの侍女の主人がアリマニカである以上、疑いがかかるのは仕方ありませんが……彼女に限って、それはありえません。何故ならアリマニカには、夫人のお命を狙う理由がないのですから」
「……果たしてそうかしら。彼女は、アウグシュタ王国の王女でしょう? かの国と因縁のあるホーエンベルクの縁者を狙うのは、別に不思議ではないと思うわ」
「いいえ、夫人。アリマニカには、ホーエンベルクに対する私怨はありません。むしろ、婚約の解消後、私と侯爵家の関係が悪化したことに責任を感じ、何とか間を取り持とうと動いてくれていた……先日、彼女がイェルクを連れて侯爵邸を訪問したのもそのためです。彼女はずっと私のよき理解者であり、相談相手になってくれていました」
「そう……わたくしは王女と直接お話をしたわけではないから、断定はできないけれど……仮にあなたの言うことが正しいのなら、王女は昨晩の騒ぎに乗じた何者かに拉致された可能性もあるわね」
「えっ……!? ら、拉致って、つまり誘拐された、ということですわよね? だとしたら一体誰が、どうして……!?」
「あくまで推測の域を出ませんが……ひょっとすると、皇室とホーエンベルクの仲違いを望む何者かが、宮廷に潜んでいるのやもしれません。彼らにとって、積極的に両者の間を取り持とうとする王女は邪魔者でしかないでしょう。ですので事件のどさくさに紛れて、彼女をどこかへ連れ去ったのやも……」
「逆に昨日の騒動自体が、アリマニカ誘拐のための目眩ましだった可能性もあります。でなければあのように警備も厳重な中、わざわざ乗り込んできて騒ぎを起こすのは不自然ですから」
「……そうね。確かにその可能性もあるのだけれど……」
と、夫人は何やら考え込んだ様子で、物憂げに眉を曇らせた。
何がそんなに引っ掛かっているのかと、視線だけでそう問えば、夫人はやがて、赤い瞳でじっと俺を見つめて言う。
「ねえ、フェルディ、覚えているかしら。昨夜、意識を失う直前のことよ。わたくしが侍女の言葉に従って自害しようとしたとき、あなた、こう言ったわね。〝ここで死んでも、もう一度やり直せばいいだけだ〟と」
刹那、こちらの胸中を見透かそうとするように放たれた夫人の言葉に、俺ははっと息が呑んだ──そうか。あのときは毒で意識が朦朧としていたから、つい余計なことを……。しかし同時に、俺も気になっていたことがある。昨晩、襲撃を受ける直前、夫人が口にしていた言葉だ。彼女は確かにこう言った。
『娘も、あなたを救おうとしていたのよ』
『このままじゃわたくしたちは、あなただけでなく、あの子さえも失ってしまう──』
と。
「……もちろん覚えています、夫人。実は、こんな話をしても、信じていただけないかもしれませんが──私は、もうずっと長い間、同じ時間の輪の中を巡り続けているのです。つまり、私が命を落とすと時間が巻き戻り、また同じ日からやり直すことになる、という現象なのですが……」
ゆえに俺は、直前まで毒に冒されていた男の譫言だと笑われるのを覚悟で、告白した。一種の賭けのような気持ちを抱きながら、今日まで体験してきた真実を。
途端に夫人の目が見開かれ、母上も呆気に取られている。
……やはり、いきなり信じてもらうのは無理か。昨夜の夫人の言葉も、俺が勝手な願望から都合よく解釈しただけで、実際にはまったく違う意味だったのかも──
「──大地の月の十二日」
と、いざ言葉にするや否や、たちまち沸き上がってきた自己嫌悪を打ち消すように、そのとき侯爵夫人が言った。
「あなたはいつも決まって玉輪の月の二十日に命を落とし、気がつくと大地の月の十二日に時間が戻っている……違う?」
自分で言い出したことなのに、俺は耳を疑った。夫人もまた縋るような、それでいて信じられないものを見るような目で俺を見ている。
ああ、そうか。やはり、そうだったのか──
「侯爵夫人、あなたは」
「いいえ、違うわ。わたくしではないの。今のは、娘が……リゼが話してくれたことよ」
「な……」
「あの子もあなたと同じ一〇〇日間を、何度も繰り返しているそうなの。わたくしたちには分からないけれど、でも、リゼが予言する未来はみんなそのとおりになったわ。だからあの子は、あなたを死の運命から救うことさえできれば、この現象を止められるはずだと──」
そこから先は、夫人も言葉にならなかったようだった。
彼女の瞳の中で、俺は自分の頬を、ひと筋の涙が伝っているのを見る。
(……リゼ)
リゼ。
彼女も俺を、救おうとしてくれていた。だから、だったのか。
何度手酷く突き放しても、彼女が諦めなかったのは。
どんなに傷つけられようと、手を伸ばし続けてくれたのは。
(リゼ)
なのに、俺は。
彼女を守るためだと言いながら、俺が今日まで彼女にしてきたことは──
(リゼ。すまない……すまない──)
俺はずっと、アシュタリゼがめげずに幾度もやってくるのは、突然の婚約破棄に納得がいかないからだと思っていた。ゆえにあの手この手を使って接触を図り、話し合いの席を持ちたいのだろう、と。けれど違った。アシュタリゼも俺と同じ円環の中に閉じ込められ、必死に助かる方法を探していたんだ。それを俺は突き放し、踏み躙り、彼女の言葉に耳を傾けようともしなかった。最近のループでは、実はアシュタリゼもそうなのでは、と薄々気づき始めていたくせに「違う」と否定されるのが恐ろしくて、あれこれと理由をつけて、逃げ回って……。
「フェルディ。だけどあなたもループを繰り返していたというのなら、どうして」
「……分かりません。少なくとも私の死の運命は、何をしても変えられなかった。ならばこの現象の原因は、もっと他にあると考えていたのです。私が……私が、リゼを愛してしまったのがそもそも間違いだったのでは、と」
「何ですって?」
「ループが始まってから、私がリゼに近づくと、彼女を不幸が襲うようになりました。先日の劇場での事故もそうです。そのたびに彼女は死にかけ……私は次第に、恐ろしくてたまらなくなって……」
「……そう。やはりそうだったのね。あなたもずっと、あの子を守ろうとしてくれていたのね。本当にごめんなさい、フェルディ──ありがとう……」
侯爵夫人はそう言いながら、俺の手を強く、強く握った。
彼女の指先も、絞り出したような声も、すべてがわなわなと震えていた。
それから夫人が話してくれたところによれば、俺たちが巻き込まれている現象には〝シャモワの魔女〟と呼ばれる存在が関わっている可能性が高いらしい。
俺もホーエンベルク領で過ごしていた頃に何度か耳にしたことのある、シャモワ山脈のお伽噺だ。アシュタリゼはこの魔女とアウグシュタ王国が結託して、ビュロン帝国に工作を仕掛けてきているのではと疑い、証拠を集めるべく動き出そうとしていた。その矢先だったのだそうだ。
ありもしない謀叛の嫌疑をかけられ、侯爵邸に騎士団が押し寄せたのは。
「では、まさか、昨夜の騒動は……」
「ええ。騎士団の動きも、王女の侍女の件も、すべてわたくしたちの口封じが目的だった可能性が高いわ。敵にとっては、魔女の存在を証明されることが最も都合が悪いのでしょう。だからあなたに知られる前に握り潰してしまいたかったのだとすれば、辻褄が合うはず……」
「しかし仮に夫人の推測が当たっているとすれば、宮廷内にもアウグシュタとつながる裏切り者がいることになります。そうでなければあれほど迅速に騎士団を動かし、あなた方を追い詰めることなど……」
「いえ……それについても、魔女が関与しているのではないかとわたくしたちは睨んでいるの。悪魔の力を使えば、危険を冒して内通者など作らずとも、人間を簡単に洗脳できるはずよ。実際、その力を使って、うちの侍女やイェルクが操られてしまった可能性が高いわ」
「イェルクが……!? ですが、あいつは──」
と、とっさに擁護しようとしたところで、俺もはたと気がついた。
……そうだ。思えばイェルクは、このところ少し様子がおかしかった。
特に昨日はホーエンベルク侯爵とゲイヴの間に深刻な行き違いを発生させ、夜は夜で、酔い潰れた俺を放置したまま退勤するという、普段の彼からは考えられないような行動をしていた。あれがすべて夫人の言う〝魔法〟で操られた結果なのだとすれば、まさか、アリマニカを連れ去ったのも──
「あ、あの……侯爵夫人? ごめんなさい。わたくし、ふたりが何を話しているのか、いまいちよく分からないのですけれど……えっと、つまり、シャモワの魔女さんという方がいて、悪いことをするために魔法を使ってみんなを操っている……ということでいいのかしら?」
「ああ……すっかり話し込んでしまい、申し訳ございません、皇妃陛下。ですが概ね、たったいま陛下がまとめてくださった内容で間違いございませんわ」
「まあ、そうなのね……! それじゃあやっぱり夕べの陛下も、陛下ではなかったのかしら? だって、明らかにご様子がおかしかったものね……」
「父上が……ですか?」
と、話を聞くうち、いつまでも横になってはいられなくなり、枕を支えに上体を起こした俺の問いかけに、母上は頷いた。何でも昨夜、俺が毒のために昏倒したあと、知らせを聞いた父上がこの部屋に現れたらしい。ところが父上は俺の容態の確認もそこそこに、反逆の疑いのある侯爵夫人を再び拘禁しようとした。
周囲がいくら止めても聞かず、勅命という言葉を使って、かなり強引に夫人を連れ去ろうとしたようだ。されどそのもくろみは、皇妃である母上が全力で反対してくださったおかげで阻止された。母上は昔からことあるごとに自分を叱り、諭してくれる侯爵夫人を本当に慕っているから、彼女のような人が謀叛人であるはずがないと、強い言葉で父上を詰ったらしい。普段、父上の言うことには笑顔で頷くばかりの母上が、そうまで強硬に逆らう姿というのは俺も見たことがなく、父上もさすがに動揺したのか、最後には諦めて引き下がったそうだった。
「確かに、それは……父上も、夫人の口封じに動いていたように思えますね……」
「でしょう!? いつもの陛下なら、わたくしが〝嫌〟と言うことは絶対にしないでくださるのに……リゼちゃんとの婚約の件だって、わたくし、たくさん〝嫌です〟と申し上げたのよ? だって、フェルディナントのお嫁さんはどうしてもリゼちゃんがよかったから……なのに陛下は、わたくしの話を全然聞いてくださらなくて」
「……! 言われてみれば父上は、母上の話には必ず耳を傾けてくださるのに……だとすると、婚約解消の件も……まさか最初から、魔女に操られて──?」
自分で口にしたはずの仮説が、瞬間、身の毛もよだつような悪寒となって全身を駆け抜けた。しかしそう考えると、昨日の騎士団長代理の不可解な言動の数々にも納得がいく。いや、あるいはあの男すらも魔女の支配下にあるのかもしれない。だとすれば、俺たちがこうしている今も、やつに追われるアシュタリゼたちは──
「……っ! 母上、夫人、騎士団の拘束を逃れたリゼたちは、まだ見つかっていないのですよね? 団長やゲイヴについては?」
「いいえ。残念だけれど、今のところ、情報は何も……ただ、ヘルマンとゲイヴが向かったはずのイリッヒ邸は、騎士団が到着した頃にはもぬけの殻だったと聞いているわ。ふたりはイェルクの身柄を確保しようとしていたはずなのだけど……」
「では既にイェルクを確保して、リゼと合流している可能性も?」
「そうね……なくはないと思うわ。昨夜の混乱の中で、あの子たちが無事にヘルマンを見つけ出せていればよいのだけれど──」
「──皇妃陛下、失礼いたします」
ところが再び考え込んだ夫人が、瞳に不安の影をよぎらせた刹那、部屋の外からにわかに呼び声がかかった。気づいた母上が「どうぞ」と促せば、剣を佩いた複数人の騎士が寝室へ駆け込んでくる。途端に俺たちの間には、緊張が走った。
まさか父上が……あるいはゴルドンが、今度という今度こそ夫人を連れ去ろうと騎士を送り込んできたのだろうか。そう身構えた俺は脇腹に痛みが走るのを堪え、すぐさま寝台を滑り降りた。そうして母上と夫人を背にかばい、無言で騎士たちを睨み据えた──のだが、それを見た彼らの反応は、
「こ、皇太子殿下! 今はどうか安静になさってください、我々は敵ではありません……!」
という、まったく予想外のものだった。
「……何だ? おまえたちは、陛下の命で来たわけじゃないのか?」
「は、はい。昨夜は、殿下にとんだご無礼を……まずはそれをお詫びしたく、殿下が無事に目を覚まされたと伺って参りました」
「どういうことだ?」
「実は我々も団長代理の命令はおかしいと感じていたのです。明確な証拠もなく、一方的に団長を謀叛人と決めつけて、屋敷へ騎士を送りつけるなど……」
「少なくとも我々には、昨日、執務室で殿下に頭を下げられていた団長のご様子が演技だったとはとても思えません。副団長がここ数日、本気で令嬢の身を案じていたことも知っていますし……」
「何より他にもおかしなことがあるんです。昨晩、宮殿裏門の警備に当たっていたはずの騎士たちが忽然と姿を消していて……現場には大量の血痕だけが残されていたと聞きました。これは明らかな異常事態です。ですので我々は、ぜひとも殿下の指示を仰ぎたく……!」
口々にそう話す騎士たちは、昨夜から畳み掛けるように起こっている異例の事態の数々に、すっかり動揺しているようだった。
つまり彼らもまた父上やゴルドンの言動に違和感を覚え、味方になりにきてくれたということだ。それを聞いた俺は安堵すると同時に少しだけ、誇らしい気持ちになった。さすがは団長やゲイヴが鍛え上げてくれた、優秀な宮廷騎士だ。彼らは自分たちが帝国に捧げた忠誠の正しい守り方を、完璧に心得てくれている。
「おまえたち……そうか、感謝する。では、現在の騎士団の状況を教えてくれないか」
「そ、それが、殿下。先刻、逃亡中の侯爵令嬢たちの潜伏場所を特定したとの急報があり、団長代理自ら騎士を率いて出動を……!」
「な……何ですって!」
瞬間、椅子を蹴倒すほどの勢いで立ち上がり、ほとんど悲鳴に近い声を上げたのは侯爵夫人だった。騎士たちの報告に彼女は顔面蒼白になり、今にも倒れてしまいそうなのを、母上が慌てて支えている。
「ふ、フェルディナント、このままじゃリゼちゃんが……! あなたの命令で、他の騎士たちを向かわせることはできる?」
「……」
「フェルディナント?」
──状況は最悪だ。確かに母上の言うように、ゴルドンを止めるための騎士を派遣することはできるが、今から後発隊を編制して追わせたところで間に合うとは思えない。そもそも父上もゴルドンも魔女の手に落ちているとしたら、皇太子がいくら命じたところで勅命に上書きされ、恐らく手も足も出せないだろう。
だとしたら、俺が今ここで出せる最適解は、
「……おい、おまえたち。今すぐ着替えを手伝ってくれ。それから、母上と夫人を安全な場所へ。警固の者も平時の倍に増やすように」
「ふ、フェルディ、あなた、一体何を……」
「ご安心ください、侯爵夫人。これ以上魔女の好きにはさせません。私に──考えがあります」




