ラスト・エスコート
(──冗談じゃないわ。冗談じゃないわ。冗談じゃないわ……!)
樹木の月の十四日、深夜。
わたくしはアウグシュタ王国から連れてきた近衛兵ひとりだけを連れ、ユングフラウ宮殿の裏門を目指して歩いていた。宮殿内は現在、皇太子のフェルディナントが暗殺されかけて大騒ぎ。さらに宮殿の外でも、謀叛の疑いをかけられ逃亡を図ったホーエンベルク家の面々を探して、宮廷騎士たちが駆けずり回っている。
宮殿を離れられるとしたら、今しかない、と思った。誰も彼もが不測の事態に翻弄され、混乱を極めているうちに姿を隠さなきゃ。イザベラ・フォン・ホーエンベルクの口を塞ぐために侍女を使わざるを得なかったせいで、このままじゃわたくしにまで反逆の疑いがかかってしまう。そんなリスクを冒して襲撃を決行したにもかかわらず、結局、あの女の口封じにも失敗してしまったし──
(イリッヒ邸でのやりとりから察するに、ホーエンベルクの連中はもうみんな魔女の存在に気づいてる……だからフェルディナントから遠ざけようとしたのに、騎士どもは一体何をしてるのよ……! イザベラ以外は全員取り逃がすわ、フェルディナントの監禁にも失敗するわで、どいつもこいつも無能ばかり……なのによりにもよって、一番の無能だと思ってた皇妃が……!)
フェルディナントは現在、毒の影響で昏睡状態にある。腹部の傷はそこまで重傷ではなく、解毒剤も無事飲まされたようだから、一命は取り留めるだろう。けれど彼が目覚めたそのあとに、改めてイザベラと接触されては困る。そう思い至ったわたくしは、既にこちらの術中にある皇帝──フランツ・マンフレート・フォン・ビュロンライヒを使って、フェルディナントの傍からあの女を引き剥がそうとした。
ところが、だ。それを真正面から阻んできたのが、皇妃ヘレーネ・フォン・ビュロンライヒだった。
ヘレーネとイザベラは事件のあと、看病のためフェルディナントに張りついていて、彼が目を覚ますまでは絶対に傍を離れないと主張して譲らなかったのだ。
ならばせめてイザベラだけでもと皇帝に直接足を運ばせ、勅命という形で連れ去ろうとした途端、皇妃は暴れ、泣き喚き、断固として連行を拒否した。そんなものは無視して強行してしまってもよかったのだけれど、こともあろうにあの皇妃は、
「侯爵夫人はフェルディナントのために、一度は命を投げ出そうとしてくださいました。その夫人を悪者として連れていかれるおつもりなら、彼女をかばうわたくしも同罪です。どうぞ牢へお入れください。ですがそうなれば絶対に、お父様が黙ってはいませんからね!」
と、皇帝を脅しつけたのだ。皇妃の父親は先帝の弟に当たる人物で、一時は幼くして即位したフランツの後見人をしていたこともある政界の重鎮。
現在は既に現役を退き、遠く離れた領地で隠居生活を満喫しているものの、帝国内では未だ絶大な影響力と発言権を持っている。
そんな人物まで引っ張り出されたら、皇帝を洗脳下に置いていたとしても、宮廷をコントロールし切れなくなるのは火を見るより明らかだ。ゆえにさすがのわたくしも、今回ばかりは引き下がらざるを得なかった。強引にことを進めれば、皇帝の豹変が騎士や貴族たちに怪しまれてしまう可能性もあったし。
(あの女……とっくに四十路を過ぎてるくせに、馬鹿で幼稚で、警戒する必要もない能なしだと思って放置していたのが、こんな形で仇になるなんて……これじゃ、フェルディナントがループの真実を知ってしまうのも時間の問題だわ。こうなる前に、あそこで彼を落とせていれば……っ)
──宮殿での、トゥルペン大使との会食のあと。
わたくしは悪酔いしたフェルディナントを控室に軟禁し、彼をその気にさせようと最大限の手を尽くした。ゲイヴにアシュタリゼを襲わせる作戦が失敗に終わったことは、侯爵邸の侍女の目を通して知っていたから、こちらが不利になる前に既成事実を作ってしまおうと画策したのだ。
そうすればフェルディナントから、わたくしと結婚する以外の選択肢を奪えると思った。何より愛のない行為であっても、一度抱いた女には自然と情が湧くもの。少なくとも、今までわたくしが出会ってきた男たちはそうだった。だから晩餐会の前に、イェルクを使って頭痛薬と偽り、しっかり酩酊薬も飲ませておいたのに──
(なのにわたくしがどんなに煽っても〝リゼ、リゼ〟ってあの女の譫言ばかり……どいつもこいつもアシュタリゼアシュタリゼって、一体全体何なのよ!? あんな女の何がいいわけ!? 女として何の努力もしない、色気もセンスも微塵もない、田舎者で男勝りのがさつな女なのに……!)
そうこうしているうちに、これ以上怪しまれることのないようにと屋敷へ帰したイェルクが侯爵と兄に襲われ、わたくしはフェルディナントに抱かれるどころではなくなった。そこで仕方なく意識を失った彼を放置し、事態の収拾のため奔走した──のだけれど、その結果がコレだ。
計画した何もかもがうまくゆかず、まるで女神に邪魔をされているかのよう。
女神、この世に存在するはずがないのに。
もしも実在するのなら、わたくしのような不幸な運命を背負わされた娘など、初めから生まれるわけがないのに……!
《クク……大分追い詰められておるようだな、魔女よ?》
ところが、月明かりだけを頼りに庭園をずんずん歩いていると、不意に背後から不愉快な声が聞こえてきた。
そこで思わず足を止め、わたくしは睨むように振り返る。佇んでいるのは、死んだ侍女に代わって新たに洗脳した近衛兵のみ。が、いま喋ったのは彼じゃない。
彼に抱えさせた手箱の中に収ってある子釜の底の、悪魔だ。
「うるさいわね。誰のせいでこうなったと思ってるのよ、この悪魔! あのとき、あなたさえ余計な真似をしなければ、フェルディナントはとっくにわたくしのものになっていたのに……!」
《はて、今更何巡前の話を持ち出しておるのだ? 第一、我等は其の詫びとして、充分な挽回の機会を与えたではないか》
「それが全ッ然うまくいってないから怒っているのでしょ!? きちんと代償を払ったわたくしの願いを無下にするなんて、契約違反ではなくて!?」
《何を云っておる。此度の遊戯に於いて、直接の代償を支払ったのは侯爵令嬢だ。汝には制約を課したのみで、何も盗らずにやったのは我等なりの誠意と云うものぞ》
「悪魔が誠意を語るだなんて、笑止千万だわ! まさか、遊戯のための代償を支払ったのはアシュタリゼの方だからって、あの女を勝たせるために、また裏で余計な手を回してるんじゃないでしょうね!?」
《何と愚かな。我等が同じ過ちを繰り返す訳が無かろう。抑々遊戯とは、闘わせる駒が対等であればある程、白熱するもの。故に此度は、手出しをする理由が無い。汝等人間が自らの力で足掻き、踊り狂う様を見るのが何より愉快なのだからな》
「だったら、まだゲームを続けさせなさいよ! フェルディナントが死んだらもう一度、やり直しがきくように……!」
《其はならん。汝は遂に禁じ手を──即ち皇帝を駒とし、誰人も抗えぬ強権で以て令嬢を排すると云う手法を用いた。当初定めし遊戯の条件には抵触せぬ故、即時の失格こそ見送ったものの、我等は以前から〝反則に近い〟と警告しておった筈だ。だのに許可なく断行した以上、罰は受けてもらわねば……改めて云おう。今度こそ、汝が皇子を手に入れる最後の機会ぞ》
手箱の蓋を抉じ開けて、内側から現れた枯れ木のような灰色の手がまっすぐわたくしを指差した。……そう。これが、先刻自害しようとしたフェルディナントを止めざるを得なかった理由だ。わたくしはアシュタリゼがついに〝シャモワの魔女〟へ辿り着いてしまった焦りのあまり、悪魔たちの許可なく皇命を使うという手段に出た。このことがやつらの不興を買い、
《遊戯は終いだ》
と宣告されてしまったのだ。すなわち、ループの魔法は解かれた。これにより、フェルディナントは一〇〇日後に定められた死の運命から解放され、同時にいつでも死ねる体になった。彼が死んでももう二度と、時間は巻き戻らない。
要するに、今回が本当に本当の、アシュタリゼとの最終決戦だ。
あの女を消し去らなければ、わたくしの勝利の芽は潰える。
アシュタリゼが存在する限り、フェルディナントの瞳がわたくしを映すことなどありえないと、一〇〇回にも及ぶループの中で、嫌というほど理解したから。
(……大丈夫よ。アリマニカを今回の事件の被害者にする算段はついている。今度こそ計画どおり、すべてをうまく運ぶだけ……だからそこで見ていなさい、女神マータよ。これ以上おまえなんかに、わたくしの邪魔はさせないんだから……!)
握り締めた拳の中で、掌に血が滲むのを感じながら、わたくしは踵を返した。
悪魔ごときの挑発に乗せられて、時間を無駄にするわけにはいかない。
とにかく今は、一刻も早く宮殿を出なくちゃ。波立つ心にそう言い聞かせ、目深に被った外套のフードを改めて引き下ろした。間もなく行く手にガス灯の明かりに照らされた裏門が見えてきて、わたくしは覚悟を決める。
「ん……? おい、待て、止まれ! 貴様ら、何者だ?」
やがて門から市街へ出ようとすると、当然ながら、見張りの騎士に呼び止められた。人数は十。……よかった。アシュタリゼたちを探す騎士の出入りが激しいためか、跳ね橋は濠にかかったままだ。これなら、きっとうまくいく。
「……夜分に申し訳ございません。急用で、どうしても街へ出たいのですが」
「質問に答えろ。何者だ、と訊いている」
「名乗るほどの者ではございませんわ。わたくし、本当に急いでおりますの。道を開けてくださいます?」
「ほう。どうあっても名乗るつもりはない、か。怪しいやつめ。今すぐ面を改めさせろ──」
と、居合わせた全員の注意が夜闇に乗じて現れた、いかにも怪しい女へ引きつけられた、瞬間だった。突然、最後尾にいた騎士が背後から口を押さえられ、悲鳴を上げる間もなく喉笛を掻き切られる。一拍遅れて異変に気づいた隣の騎士も「うわっ!?」と叫ぶ寸前で胸を突かれた。瞬時に二人を無力化した彼は次いで迷わず、倒れゆく騎士の腰から長剣を引き抜く。その音に気づいた騎士が振り向いた途端、闇を裂いて投擲された短剣が喉もとに突き立った。これで三人。
残すは、たったの七人だ。
「ぐっ……かっ……あがっ……!?」
「……!? おい、どうし──」
──まったく『帝国騎士団』が聞いて呆れるわ。思わずそうほくそ笑んでしまうほど迂闊に、彼らは背後で倒れた仲間に気を取られた。
が、騎士たちが抜剣するよりも早く、既に長剣を手に入れた彼が、さらに二人の騎士を斬り伏せる。こうなれば勝ったも同然だった。
慌てた彼らが、応戦しようと向き直ったときにはもう遅い。
その頃にはわたくしの連れた近衛兵が死角から斬りかかり、無防備な背中に次々と刃を叩き込んだ。奇襲による挟撃。決まってしまえば、あっという間だ。十人もいたはずの警備の騎士は、ものの五分足らずで呆気なく血の海に沈んでしまった。
「ふう……どうやらうまくいったようね」
「お怪我はありませんか、アリマニカ様」
足もとに倒れた全員が沈黙したのを確認し、そう声をかけてきたのは、他でもない、イェルクだった。騎士の返り血で全身を真っ赤に染めた彼は、ひと筋の自我も感じさせない眼差しでわたくしを見つめている。
「ええ、わたくしなら大丈夫よ。ご苦労だったわね、イェルク」
「いえ。アリマニカ様のためならこれしきのこと、どうということはありません」
「ふふ……やっぱりおまえはかわいいわね。どのループでも、わたくしの忠実な騎士として働いてくれて……顔もとても好みだし、フェルディナントと同じ時代にさえ生まれていなければかわいがってあげたのに、残念だわ」
「恐れ入ります」
騎士から奪った鞘と剣帯を腰へ巻きつけたイェルクは、剣を収めながら律儀に頭を下げた。今は血で汚れてしまっているけれど、武骨な兄とは似ても似つかない中性的な顔立ちはよく整っているし、髪もやわらかくて上品な猫のよう。
さすがにフェルディナントの美しさには敵わないとはいえ、彼の護衛官に抜擢されたのも頷ける程度には見劣りしない。おまけに騎士としての腕も立つから、本音を言えば、このまま飼い続けたいくらい気に入りの手駒だった。
「でも、本当に残念ね。おまえともそろそろお別れなんて」
「過分なお言葉です。アリマニカ様のお役に立てるのであれば、私はどうなろうと構いません。さあ、追っ手がかかる前に行きましょう」
「ええ。最後のエスコート、どうかお願いね、わたくしのかわいいお人形──」
「──そこまでだ。止まれ、イェルク」
ところが、イェルクに右手を預けたわたくしが、その手を引かれるままに跳ね橋を渡ろうとした、直後だった。突然橋向こうの物陰から現れた人影が、濠の向こうに立ち塞がる。さすがのわたくしも肝が冷えた。
ヘルマン・フォン・ホーエンベルク。
背後に付き従っているのは、副官の従騎士?
どうして、この男がここに──
「団長……まさかここまで追ってくるとは、驚きましたよ。完璧に撒いたと思っていたんですがね」
「ふん、残念だったな。実はわしも、おまえを追うのは一旦諦めたつもりだった。代わりに宮殿へ引き立てられたというイザベラをどうにか救出できないかと、偵察に来たつもりだったのだが──よもやそこで目当ての〝魔女〟と出会えるとはな」
言いながら、ヘルマンは如才なく剣を抜き、身構えた。その獣のごとき眼光に射竦められたわたくしは、図らずも息を呑む。迂闊だった。
さっきのイェルクとの会話を聞かれていたのだわ。〝アリマニカ〟が〝シャモワの魔女〟であることは、まだ誰にも知られていない切り札だったのに……!
「ほ……ホーエンベルク侯爵。何か、勘違いをされているようですわね。わたくしは……」
「黙れ。言い訳など聞くつもりはない。よくもわしの部下を──娘を弄んでくれたな、魔女め……!」
ぞっと怖気が走るほどの殺意が、わたくしの全身を撫で上げた。
これが『百勝公』。なるほど、アシュタリゼを人質に取る作戦をしくじったアウグシュタ王国が事件のあと、あっという間にこの男に蹂躙されたという話にも納得ね。向こうは従騎士を三人も連れているし、圧倒的に分が悪い。イェルクも、アウグシュタの近衛兵も腕が立つのは確かだけれど、あの男には敵わない。
かと言って、イェルクを盾にする作戦ももう通用しないはず……。
だとしたら、今のわたくしに取れ得る方法は、ひとつだけだ。
「聞きなさい、悪魔」
門番を制圧する間、一時的に預かった子釜入りの手箱は、近衛兵の手に戻してあった。その蓋の向こうに潜む異形に向かって、わたくしは言う。
「ここに倒れている騎士十人──彼らの魂を贄として捧げるわ。代わりにあの男たちの息の根を、確実に止めてちょうだい」
蓋の下で、子釜がゴポリと音を立てた。内に満たされた粘性の黒い液体がひとりでに泡立ち、波打つさまが、見なくても目に浮かぶ。
《ふむ、騎士十人か。対する標的は四人……少々足りんなあ》
「……何ですって?」
《ク、ク……まあ、良い。斯様な幕切れでは、些か拍子抜けだからな。ならば一つ──舞台がより面白くなるよう、演出してやろう》
──通った。そう理解した瞬間、わたくしは知らず口角を吊り上げた。直後にがばりと手箱が開き、釜の底から異形の手が飛び出してくる。それは急成長する枯れ木のごとく、十本の枝をどこまでも長く、長く、闇の中に伸び上がらせて──
「な……なんだ、あれは……!?」
突如として現れた超常の存在を、ヘルマンたちは愕然と仰ぎ見た。
彼らがそうする間にも地面へ降り注いだ異形の腕は、銘々、倒れた騎士の亡骸を掴み、魔界へと引き摺り込む。この世の常識と物理法則とを完全に無視した、人外のものの所業。これが〝魔法〟だ。
こんなおぞましく強大な力に、矮小な人間ごときが太刀打ちできるわけがない。
「やっておしまいなさい、悪魔」
一拍ののち、一度は釜の底へ引っ込んだ異形の腕が、炸裂する花火のごとき勢いでヘルマンへ襲いかかった。……さあ、ここからが本番よ。
最高の最終幕にしましょうね、アシュタリゼ?




