音なき戦場にて②
これは僥倖だ、と俺は思った。どうやら母上には今の俺が、護衛の騎士を引き連れて、事件の重要参考人であるホーエンベルク侯爵夫人のもとへ聴取をしに来たものと見えているらしい。まあ、当然といえば当然だ。
俺の母は昔から、人を疑うということを知らない。よって皇太子でもある自分の息子が、よもや騎士団長代理の命令で事実上拘束され、自室へ監禁されにいくところだなどとは夢にも思っていないのだろう。とすれば──好機だ。母上には申し訳ないが、その純真と立場とを、利用させてもらわない手などない。
「そうでしたか。しかし母上、今回はことがことです。ちゃんと父上の許可はいただいたのですか?」
「ええ、もちろんよ。陛下も難しい顔した騎士たちより、仲のいいわたくしの方が夫人も話しやすいだろうとおっしゃって、快くお許しくださったわ。というわけでわたくしも中へ入っていいかしら?」
「ふむ……私もご一緒してよろしいのですか?」
「あら、いいに決まっているじゃない。このところ、あなたと侯爵家の関係はぎくしゃくしてしまっていたでしょう? ならまずは夫人と仲直りするいい機会だわ」
「ですが、母上。侯爵家には目下、謀叛の疑いがかかっているのですよ」
「だからこそよ。リゼちゃんとの婚約の件は残念だけれど、あれは陛下がお決めになられたことですもの。侯爵も仕方がないと分かっていらっしゃるはず。なのにどうして謀叛なんて起こすというの? みんなも、ちゃんと話せば分かると思うわ」
「つまり……私も夫人と話をしてみろ、と?」
「うふふ……そういうこと。あなただって、夫人には我が子のように可愛がっていただいたこと、覚えてるでしょう? だったら、失礼な態度を取ってはダメよ」
「……分かりました。では、私も侯爵夫人に会っていきます」
「……! 殿下、なりません! 団長代理からは、何人とも接触してはならないと──」
「母上がこうおっしゃっているのに、か? おまえたちは、このお方をどなたと心得る」
すかさず止めに入ろうとした騎士たちを睨み据え、俺は冷徹に言い放った。
本当に勅命なのかどうかもあやふやな団長代理の命令と、今し方、彼らも耳にしたはずの皇妃の意向。真の帝国騎士ならば、どちらを優先すべきかは火を見るよりも明らかだ。案の定、彼らは困り果てた様子で互いに顔を見合わせたのち──観念して黙り込み、俺の背後に控えた。……団長の教育の賜物だな。
「……? フェルディナント……何かあったの?」
「いいえ、何も問題ありません。さ、行きましょう、母上」
俺は微笑を作って母を促し、問題の『茜穹の間』の前に立った。
母上の侍女が扉を叩き、皇妃の来臨を告げれば、中から「どうぞ」と答えが返る──間違いない。俺の耳にも馴染み深い、アシュタリゼの母君の声だ。
ほどなく侍女たちによって開かれた扉の向こうに、彼女はいた。
イザベラ・フォン・ホーエンベルク。
今も昔も『社交界の女帝』の名を恣にする、『百勝公』の泣きどころ。
侯爵邸へ押しかけた騎士に連行されてきたと思しい彼女は、中年の侍女ひとりだけを伴って母上を出迎えた。傍目には客人としてごく普通に過ごしているように見えるものの、これは嫌疑が晴れるまでの、事実上の拘禁だ。
「ビュロンの夜を照らす月、皇妃陛下にご挨拶申し上げます。既にお休みの時刻にもかかわらず、謀叛の疑いで呼ばれたわたくしをわざわざお訪ねくださるとは……相変わらず無用心でいらっしゃいますね、陛下」
「まあ。うふふっ……こんばんは、侯爵夫人。思ったよりもお元気そうで、安心したわ。今夜の件は、ごめんなさい。うちの騎士たちが、手荒な真似をしなかったかしら?」
「陛下より謝意を頂戴するなど、とんでもないことでございます。此度の一件はすべて、当家の不徳の致すところで……」
と母上の前で鄭重な臣下の礼をした侯爵夫人は、次に顔を上げた途端、驚いた様子で言葉を呑んだ。どうやら母上の背後に控えた俺の存在に、ようやく気がついたらしい。ついてきていた騎士たちは二人が外の警備につき、残りの三人は室内で、扉の前を塞ぐように佇んだ。状況的に、夫人を連れて逃げ出すのは難しいが……彼女から情報を引き出すことはできる。
「フェルディナント殿下。あなたまでいらっしゃるとは……」
「驚かせて申し訳ありません、侯爵夫人。先日、劇場でお会いしたときにはろくにご挨拶もせず、ご無礼を……」
「いえ、それは構いませんが……」
と明らかに困惑しながらも、歩み寄る俺にさりげなく右手を差し出したのは、長年に渡る侯爵夫人としての生活で染みついた、癖のようなものだったのだろう。
彼女もすぐに気がついて手を下げようとしたようだったが、俺はすんでのところでその手を掴み、挨拶をする。
この上ない敬意と親愛、そして、これまでの謝罪を込めて。
「……殿下。何やらお顔の色が優れませんわ。しばらくお会いしない間に、すっかりお窶れになってしまわれて……」
「お気遣い恐れ入ります。近頃、眠れない夜が続いていまして……昔もよく、ホーエンベルク城で〝眠れない〟と夜泣きしては、夫人にご心配をおかけしました」
「……そうね。確かにそんなこともありましたわ。けれど今は、本当のお母上がお傍にいらっしゃいますのに」
「ふ……成人して騎士となった私に、母の膝で甘えろと? もうあの頃とは、何もかもが違っているのですよ」
「まあ、フェルディナントったら。別に大人になったって、あなたはわたくしの子どもなのだから、甘えたければいつでも甘えていいのよ? ほら、よーしよーし」
「母上……」
と、こちらが何とも言えない反応を返すしかないのも気にせず、母上は上機嫌で俺の頭を撫で回した。そんな俺たちの様子を見た夫人の唇から、ふ、と小さな笑いが漏れる。……どうやら俺に対する警戒心は、いくらかやわらげてくれたようだ。
この人に疑われたままではとても話などできないから、助かった。
「ところで、夫人。此度の一件、何かお心当たりはおありですか?」
ほどなく、室内に設けられた応接席へ落ち着いた俺たちは、母上の侍女が淹れてくれた紅茶を囲みながら本題に入った。
途端に夫人の表情がわずか強張ったのを、俺は視界の端に捉える。
が、どうやら夫人は皇太子というより、部屋の入り口付近で聞き耳を立てている騎士たちを警戒しているようだ。彼女の視線の動きで、そうと分かった。
「いえ、それがお恥ずかしながら、皆目見当がつきませんで。わたくしたちとしてもまったくの寝耳に水だったものですから、一体どこから左様なお話が降って湧いたのやら、判断がつきかねております」
「ではやはり、侯爵家に皇室への叛意などないということですね?」
「当然でございましょう。先日の婚約解消に対するわだかまりこそあれ、一度誓った皇家への忠誠を翻すほど、わたくしどもは落ちぶれてはおりません」
「……そのお言葉が聞けて、安心しました。しかし騎士団が侯爵邸を訪ねた際、ホーエンベルク侯爵はご不在だったそうですね?」
「ええ、夫は所用で外出しておりましたので」
「行き先は?」
「イリッヒ家の屋敷です。あそこの兄弟が本日、色々と問題を起こしましたので、主君として今一度躾をしてくる、と」
「確かにゲイヴは職務放棄、イェルクも情報の伝達と確認を怠って、現場に混乱を招いていましたね。では、マヌエルがアシュタリゼを連れて逃げたというのは?」
「そちらについては申し開きのしようもございません。わたくしがそうするよう、あの子たちに命じたのです」
「侯爵夫人が?」
「ええ。何せ武装した騎士団の方々が、険しい剣幕で夫を謀叛人呼ばわりなさるものですから、このまま屋敷に踏み込まれては息子たちに危害が及ぶと思い……」
「まあ……それは怖い思いをされましたね、夫人。わたくしも同じ状況になったなら、きっと逃げ出していたと思います。ですから夫人は悪くありませんわ」
「……母上、夫人の名誉のために申し上げますが、彼女は逃げ出しておりません。マヌエルとアシュタリゼを出奔させた責任を取って、こうして召喚に応じてくださったのですよ」
「え? あら、そう……? わたくしはてっきり、夫人だけ逃げ遅れたのかと……でも、だったらやっぱり、夫人は悪くないわよね?」
「そうですね。皇室としても、召喚の手順に重大な過失があったのは事実です。ですから、夫人の判断は責められないかと」
「ほら! ね、侯爵夫人。息子もこう言っておりますわ。ですので、どうかご安心くださいまし。今回の件はたぶん、誰かが何か、勘違いしてしまったのだと思います。わたくしも息子も、侯爵家を疑ってはおりませんし……それなら、わたくしたち、これからもお友達でいられますわよね? フェルディナントとも、仲直りしていただけますか?」
ぱっと両手を組み合わせ、哀願するように夫人を見つめた母上の言動は、知らない者が見れば眉をひそめるかもしれないが、本人は大真面目だった。
これが、ヘレーネ・フォン・ビュロンライヒという人なのだ。
ゆえに普段、母上は政治の場にはまったく顔を出さない。
父上がそうすることを許さず、本人もそんなものには興味がない。
ただいつも笑顔で、美しく、自由気ままに宮廷を舞う一羽の蝶。
それが、父が母に与えた唯一の役割だ。何年経っても変わらない母上のそういう無邪気さを、父上は深く愛しておられるようだし、俺も母上にはいつまでもこのままでいてほしいと願っている。しかし侯爵夫人は、俺と〝仲直り〟しろと言われるや不意に眉を曇らせて、推しはかるような眼差しを注いできた。
「……ええ、もちろんですわ、皇妃陛下。ですがフェルディナント殿下にはひとつだけ、お尋ねしておきたいことがあるのです」
「あら? 何でしょう?」
「……殿下。殿下は、夫にこうおっしゃったそうですね。娘との関係について……〝アシュタリゼに罪はない〟と」
「ええ。確かに言いました」
「そのお言葉は、殿下の本心でいらっしゃいますか?」
「はい。婚約解消の件は……心から申し訳なく思っています。しかし我々の未来のためには、こうする他なかったのです」
「では、先日の劇場では、何故あのようなお振る舞いをなさったのです?」
「あれは……申し訳ありません。すべては私の未熟さゆえです。婚約を解消したばかりのアシュタリゼが突然目の前に現れたので、図らずも動揺してしまい……」
「本当にそれだけですか?」
「……というと?」
「つまり、あなたは──あの瞬間、娘を守ろうとしてくださったのではありませんか?」
刹那、向かいの席から放たれた侯爵夫人の言葉が、縋るような眼差しが、見えざる矢となって俺の胸に突き立った。おかげで一瞬、呼吸が止まる。夫人が何を、どう思ってそのように解釈したのかは分からない。ただ、俺から言えることは、
「……はい。私は、アシュタリゼにはもう二度と、触れることはできません」
という、心を千切って絞り出した真実だけだった。
途端、最愛の人と同じ紅玉の瞳が揺れる。
夫人はわなわなと震わせた手で口もとを押さえ、愕然と言葉を失っている。
「……夫人?」
「ああ、なんということ……やはりそうだったのね。フェルディ、あなたは──」
なつかしい愛称で俺を呼んだ夫人はうめくようにそう言うなり、にわかに顔を覆ってしまった。これには俺も面食らい、母上に至っては「まあ」と、国家の一大事のごとく立ち上がる。かと思えばすぐさま夫人の隣へ移動し、横から彼女の肩を抱いた。そうしながら至極心配そうに、夫人を覗き込んでいる。
「侯爵夫人、どうされましたの? フェルディナントが何か失礼を……」
「いいえ……いいえ、皇妃陛下。お詫びしなければならないのは、わたくしの方です」
「え?」
「殿下──いいえ、フェルディ。これまでのこと、本当にごめんなさい……だけどどうかお願いよ。娘を助けて……」
声を震わせて俺の前に頭を垂れた侯爵夫人は、泣いていた。
俺は、この人が涙を流すところを初めて見た。七歳で騎士修行へ出向いてから成人するまでの十一年間、ほとんど家族のように共に過ごしておきながら、だ。
ゆえに動揺のあまり、すぐに声が出てこなかった。
だが「娘を助けて」という夫人の言葉は、聞き捨てならない。
「どういうことです、夫人。アシュタリゼに──リゼに、一体何が」
「娘も、あなたを救おうとしていたのよ。それだけが、この状況を終わらせる唯一の方法だと……」
「終わらせる……? というのは、何を」
「話せば……とても長くなるわ。だから今は娘を探して……どうか話を聞いてあげて。リゼと言葉を交わせないなら、マヌエルでもいい。リゼは今、先日の怪我が因で……自力で立って歩くこともできないのよ。このままじゃわたくしたちは、あなただけでなく、あの子さえも失ってしまう──」
そう言って夫人は泣いた。口もとを押さえ、透明の真珠のような、大粒の涙を零して泣いた。俺は、耳を疑った。何故なら夫人は今、確かにこう言ったのだ。
謀叛の嫌疑をかけられているアシュタリゼだけでなく、俺まで失うと。
順当に考えるなら、それは皇室と侯爵家の関係が決裂し、二度と交われなくなってしまうという意味だろう。しかし夫人はこうも言った。
アシュタリゼも俺を救おうとしていた、と。
その言葉の意味するところは、つまり、
「──フェルディナント殿下、失礼いたします。どうしても殿下にお目通りしたいという者が……」
そこへ突然、部屋の外から声がかかって、俺ははっと我に返った。
こんなときに何だと振り向けば、外の見張りについていた騎士が開けた扉の向こうから、見覚えのある女がひとり、音もなく部屋へ入ってくる。
アリマニカの侍女だ。口数も表情も乏しい娘で、俺は彼女がアリマニカに名前を呼ばれるところを、一度も聞いたことがなかった。
「君は……」
「お取り込み中、申し訳ございません、皇太子殿下。大至急殿下にお渡ししてほしいと、アリマニカ様よりお預かりしたものをお届けに上がりました」
「アリマニカから? そうだ、彼女は無事なのか? 俺を介抱してくれたあと、君たちはどこへ──」
と、俺が立ち上がって迎えるなり、アリマニカからの届け物だというそれが、侍女の手によって差し出された。何の変哲もない、宝飾品を保管するのによく使われるような、天鵞絨張りの小箱だ。
これが何だと怪訝な眼差しを下ろせば、侍女がおもむろに蓋を開く。
その直後──箱の中から噴き出した煙が、にわかに俺たちの視界を奪った。
「なっ……!?」
蒸気に似た真っ白な煙が瞬く間に広がってゆく。無臭。吸い込んだところで害のあるものではなさそうだが、何も見えない。一体何が起きているんだ、と、俺はとっさに腕で鼻を覆いながら、煙の向こうへ目を凝らした。瞬間、何かが、煙幕の向こうからわずか差し込む燭台の明かりを受けて、チカリと閃いたのが見えて──
「──侯爵夫人……!!」
その刹那、俺の脳は一瞬で答えを弾き出していた。何故ならこの場でそれに狙われる人間は、彼女しかいない。俺が命を落とすのは六八日後だと決まっているし、皇妃である母上には政治上、暗殺される理由がない。ゆえに、俺は、
「きゃあああああっ!?」
聞こえた悲鳴は母上のものか、他の侍女たちのものか。
分からないまま、俺はぐっと息を詰めた。アリマニカの侍女が侯爵夫人目がけて放った短剣が、飛び込んだ俺の脇腹に突き立つのを感じながら。




