音なき戦場にて①
何やら部屋の外が騒がしいことに気づいて、目が覚めた。
(ん……俺は……眠っていたのか……? いつの間に……)
久しぶりに、夢見ることなく眠っていたような気がする。
が、意識を失う前の記憶がひどく曖昧だ。
そもそもここはどこで、直前まで何をしていたのだったか。重い靄がかかった頭で思い出そうとするも、起き上がるなり襲ってきた頭痛と耳鳴りに思わずうめく。
(ぐ……頭が……割れるように痛む……体も重い……そういえば、俺は……トゥルペン使節団との晩餐会に出席して……)
近年、ビュロン帝国と外交上の緊張が高まりつつあるトゥルペン大公国。
かの国の大使をもてなすため、皇妃が主催した晩餐会で、俺は酒を過ごしたわけでもないのに変に酔いが回ってしまい、解散となる頃には歩くことさえままならなくなっていた。恐らくは連日の睡眠不足が祟ったのだろう、俺が眩暈と吐き気で動けなくなったのを見たイェルクによって、寝室よりも近い執務室の隣──休憩用の控室まで運ばれたところまでは覚えている。
そうしてアルコーブベッドに寝かされたあと、確か侍女を連れたアリマニカがやってきて……酔い醒ましにと彼女が淹れてくれた紅茶を口にして……それから……それから──?
「……っ、イェルク、いるのか? アリマニカ……?」
内側から鈍器で殴られているかのような額を押さえ、俺は真っ暗闇の中、手探りでベッドの帳を払った。分厚い羅紗のカーテンの向こうにはぽつぽつと、壁掛け燭台の明かりが見える。が、そこにイェルクやアリマニカの姿はない。
まったくの無人だ。ただやはり扉の外は騒がしく、バタバタと走り回る足音や、遠くで人の喚く声が聞こえていた。
……雰囲気からして、只事ではない。俺は壁に手をついてふらつく体を支えながら、どうにかベッドから立ち上がった。そこでふと、妙に衣服が乱れていることに気づき、覚束ない指先でシャツとベストの釦を留め直す。
そうしてから、まだ耳鳴りのする頭を振って、宮殿の廊下へ続く扉を開けた。
「おい……誰かいるか?」
而して、暗い廊下に向かって呼びかけてみる。せめて扉の外には警備の騎士くらい立っているだろうと思っていた俺は、部屋の前まで無人なのを見て少なからず驚いた。ということは人がいるのは執務室側か、とも思ったが、そちらからも呼びかけに対する反応がない。
(……一体何がどうなってるんだ? イェルクが俺を放っていなくなるなんてありえない。傍を離れるにしても、必ず別の騎士に警固を引き継いでいくはずだ。まさか、あいつの身に何かあったんじゃ──)
「──あ、殿下……! フェルディナント殿下! そちらにおられましたか!」
と、思考を覆っていた靄がみるみる違和感に塗り替えられ、扉の前で立ち尽くしていると、廊下の向こうから数人の人影が走り寄ってくるのが見えた。
手に手に明かりを携えた彼らは皆、帝国騎士団の団服に身を包んでいる。
恐らくは夜間の巡回を担当する騎士たちだろう。
「おまえたち……すまない。今、何時だ?」
「は、はっ! 現在の時刻は、鱗の下刻を回ったところです。殿下はこちらに、おひとりで……?」
「ああ。晩餐会のあと、少し体調を崩して、こちらで休んでいた。眠る前まではイェルクが傍にいたはずなんだが……誰か、やつを見てないか?」
「イェルクであれば、とうに退勤しております。殿下はご気分が優れず早々にお休みになったと報告して、二時間前には宮殿を出ました」
「……何だって?」
混乱している騎士たちからの返答に、俺は耳を疑った。
イェルクが俺を置いて帰った? 騎士団に虚偽の報告をして? いや、俺が少しだけ休むつもりで寄った控室で眠り込んでしまったのは事実だから、まったくの虚偽ではないものの、だとしたら引き継ぎを受けた者がいないのは何故だ?
一緒にいたはずのアリマニカまで消えているし、一体何が……と、俺が懸命に記憶を遡ろうとしていると、先頭の騎士が言葉を続けた。
「しかしイェルクの退勤後、少々込み入った事態となりまして……ひとまず状況を殿下のお耳にも入れようと寝室へ参ったところ、お姿が見えなかったので、こうして皆でお探ししておりました。まずはご無事で本当によかった……」
「……待て。私は、晩餐会のあとはずっと控室にいた。イェルクもそう報告していったんじゃないのか?」
「い、いえ。やつは殿下は寝室にてお休みだと……ですから我々も、殿下が団長に誘拐でもされたのではと、肝を潰してお探ししておった次第です」
「団長……というのは、ホーエンベルク侯爵のことか? 侯爵が何故誘拐などするというんだ?」
「反逆です。先程、皇室への謀叛を企てた嫌疑により、陛下が侯爵家に出頭をお命じになりました。ですので皆、団長が殿下を人質として連れ去ったのではと……」
「は……? 何……を、言っている──?」
瞬間、俺は正常さを取り戻しつつあった意識が、またもぐにゃりと歪むのを感じた。まさか俺は、まだ夢でも見てるのか?
反逆? 謀叛? 団長が……ホーエンベルクが? 何故?
晩餐会の席ではそのような話や素振りなど、父上は少しも見せていなかった。
だのに、どうして突然──
「父上は……父上が確かにそう言ったのか? 侯爵家が謀叛などと、一体誰がそんな話を……!」
「わ、我々にも詳しいことは分かりません。ただ、団長代理に就任されたゴルドン子爵からの命令で、侯爵家の者は発見次第、宮殿へ連行するようにと仰せつかっております。騎士団の者が出頭要請に向かった先で、ホーエンベルク家の嫡男──マヌエル・フォン・ホーエンベルクが制止を振り切り、逃亡を図ったそうですので」
「馬鹿な……ならばリゼは──アシュタリゼ侯爵令嬢はどうした!?」
「も、目撃者によれば、マヌエル殿は令嬢も連れて逃げたようです。団長は、騎士団が出向いたときには既に行方が分からず……現在、別の隊の者が副団長の屋敷を捜索してはいますが」
「まさか……イリッヒ家にも共謀の疑いがかかっているというのか? 副団長に謹慎を命じたのは、他でもない侯爵だぞ!?」
「は、はい。ですがゴルドン子爵曰く、それも団長と事前に示し合わせてのことだったのではと……つまり、イリッヒ家を隠れ蓑として使うために、あえて仲違いしてみせたのではということで」
「冗談ではない……そんな話があってたまるか! ゴルドン子爵に会わせろ、今すぐにだ!」
自らの発した怒号が頭痛となって脳天を突き刺すのを感じながら、しかし俺は止まらなかった。確かに現在のホーエンベルクは、謀叛の噂を立てられても仕方のない立場ではある。俺がアシュタリゼとの婚約解消を申し出たのをきっかけに、皇室とホーエンベルクの関係は決裂し、かと思えばあちらは即座にゲイヴという新たな婚約者を立てたのだ。
アシュタリゼが性に奔放だという噂を信じる者たちにとっては単なる愉快な醜聞でも、政治の上では〝侯爵家は一族の結束を高め、皇室に対抗する用意を始めた〟と見るのが筋……。
だが侯爵家を偵察に行ったアリマニカからは、アシュタリゼに報復の意思はないように見えたと報告を受けているし、過去のループでもここまで深刻な事態に発展したことはなかった。娘を襲った悲劇に憤慨したホーエンベルク侯爵が、個人的な復讐にやってきたことは何度かあったものの、一族総出での謀叛というのは前例がない。とすれば本当にホーエンベルクが蜂起した、と断定するのは早計だ。
(むしろこの状況は、ホーエンベルクの隙を窺っていた何者かが、彼らを追い落とすために仕組んだものである可能性が高い……少なくとも、今回のループの団長が謀叛を起こすとは考えにくい。あの人に、生粋の宮廷貴族のような腹芸は無理だ。直情的で、武断派で、曲がったことを何よりも嫌うあの人には……)
俺は、俺の第二の父となってくれたヘルマン・フォン・ホーエンベルクという人をよく知っている。彼の考えていることは手に取るように分かりやすく、言動に一切の誤魔化しがない。だから、確信している。今日の夕方、大勢の騎士や貴族たちが見ている前で額を床に擦りつけ、恥も外聞もかなぐり捨てて「娘を許してやってほしい」と懇願していた彼の背中に、嘘などあるはずがないことを。
「状況を説明してくれ、ゴルドン子爵。このとおり私は無事で、侯爵から何らの危害も加えられてはいない。ならば、何を根拠に彼らを召喚しようと言うんだ? だいたい出頭要請にしたって、粛々と詔書を届ければいいだけのものを、騎士団を動員してけしかけるなど……これではまるで、彼らを罪人と決めつけてかかっているようなものだ。それもすべて父上の──皇帝陛下のお指図だと言うのか?」
ほどなく騎士たちを連れて赴いた騎士団本部で、俺は執務席を背に佇立するひとりの男へ噛みつくように訊問した。ドラグヴィン・ビーネンエヴィッツ・フォン・ゴルドン子爵。帝国騎士団の花形である第一騎士連隊の騎士連隊長だ。
団長のホーエンベルク侯爵よりも数段大柄で、身の丈は六尺(一九〇センチ)に迫っている。生まれも育ちも宮廷貴族の彼が以前から、辺境出身のホーエンベルク侯爵を「田舎武者風情が」と陰で蔑んでいることは知っていた。
ゆえに俺はまず、今回の一件は父上の命令を拡大解釈したこの男の暴挙ではないかと疑ったのだ。今の宮廷で、侯爵家が潰れて真っ先に得をするのは彼だろう。
されどそんな俺の疑念を見透かしたのかどうか、ゴルドンは豪快に生やした頬髭を掻くと、さも「心外だ」と言いたげなため息をついた。
「フェルディナント殿下。あなたも団長のご気性はよくご存知でしょう? 一族に謀叛の嫌疑がかかっているなどと聞いたなら、あの御仁は怒り狂って勅使を投げ飛ばすに決まっております。ですから、何の罪もない文官に怪我をさせるくらいならと、団長をよく知る屈強な騎士たちを迎えに行かせたまでのことです。まあ、まずは殿下のご無事が確認できて、我々も安堵いたしましたよ」
「では、侯爵家の謀叛を疑う根拠は?」
「それについては、小官の知るところではありません。我々はただ、陛下のお下知に従っているまで……しかしまあ、迎えの騎士を見るなり嫡男が逃げ出したということは、やはり何かしらやましいところがあるのでしょうな。無実ならば堂々と出頭し、潔白を証明すればよいだけのことなのですから」
「突然武装した騎士が押しかけたら、身の危険を感じて召喚を拒むのも当然の反応だろう。とにかく、今すぐ騎士団による捜索を止めさせろ。侯爵邸へ送り込んだ騎士も撤収させて、改めて出頭を要請するんだ。こちらの手違いを詫び、今度は正規の手順でな」
「ふむ……これは意外なお言葉。ホーエンベルクが失脚すれば、殿下もさぞや肩の荷が下りられるのではと愚考しておりましたが、よもや夕方の一件で、彼奴らに絆されてしまわれたのですかな?」
「は? 何を……」
「まあ、無理もないことです。殿下は稀少な騎士修行時代を、かの一家の下で過ごされたのですからな。たとえ見え透いた泣き落としと分かっていても、かつての恩師のあのような姿を見せられたなら、お若い殿下はお心を惑わされてしまいましょう。ゆえに、それこそが団長の狙いであったと、我々は見ているわけです」
「……ゴルドン子爵、貴公は」
「団長はこうなるのを見越して先手を打ち、殿下がいざというとき我々を足止めしてくださることに期待したのに違いありません。部下が屋敷を訪ねるよりも早く、団長が行方を晦ませているのが何よりの証拠です。これでもなお、ホーエンベルクに肩入れなされますか?」
「……分かった。もういい。ならば陛下と直接話をしてこよう。その上で、陛下も同じ判断を下されるのなら──」
「残念ですが、それはできません、殿下。殿下が恩師の凶報に接して乱心なされた際は、許可あるまでお部屋に留め置くよう、陛下より仰せつかっております」
「何だと……? 父上が、そんなことをおっしゃるわけが……!」
「おい、聞いたな、おまえたち。心苦しいが、誰か殿下をお部屋までお連れしろ。陛下のお許しのない限り、何人も殿下と接触させてはならん」
「ゴルドン子爵……!」
あまりにも滅茶苦茶な暴論だった。
具体的な根拠は何ひとつ示すことなく、状況証拠だけを恣意的に積み重ねて、さも決定した事実であるかのような言い草をする。この男は間違いなく、黒だ。
されど団長代理という権限を皇帝から附与されている以上、騎士たちはゴルドンに逆らえない。彼らは明らかに戸惑い、互いに視線を交わし合っていたものの、最後には俺を促すように詰め寄ってきた。
仮想敵国との会食の直後でさえなければ、俺は彼らを押しのけてでもゴルドンの奸知に抗っただろう。だが、まったく間の悪いことに、晩餐会の装いのまま来てしまった俺は丸腰で、武装した彼らに対抗する術がない。
(これでは、宮殿は巨大な監獄だ。何とか隙を見て逃げ出さなければ──)
──騎士の剣を奪って戦うか?
いや、ダメだ。大勢の騎士が詰めている本部では分が悪い。
チャンスがあるとすれば、自室へ向かう道中だ。
俺を連行する数人の騎士を撒くか、打ち倒すかさえできれば活路はある。
そのためにはまず大人しく従うふりをして、彼らの油断を誘う他ないだろう。
とにかく今は一刻も早く父上と会い、ゴルドンの言葉のどこまでが真実なのかを確かめるのが先決だった。
こうしている間も帝都では、アシュタリゼたちが帝国騎士団に追われている。
そしてあの様子では捕まったが最後、間違いなく罪人に仕立て上げられて、一家諸共滅びるだろう。それだけは何としても防がなければならない。こんなことになったのは他でもない──俺がリゼとの婚約を解消したのが原因なのだから。
(リゼを守るための婚約破棄が、ここまで彼女を追い詰めることになるとは……今までどのループでも、これほどの騒動にはならなかったからと油断していた。このままでは本末転倒だ。とにかくまずは、騎士たちを──)
「──あら……? フェルディナント。あなたも来ていたのね」
ところが、数人の騎士に囲まれた俺が本部をあとにし、一番近い階段から、自室のある二階へ差し掛かったときだった。
不意に暗闇の向こうから呼ぶ声がして我に返る。と同時に周囲の騎士たちが足を止め、はっとしたように敬礼の姿勢を取った。何故なら彼らの視線の先には、ビュロン皇家の象徴である、星を編んだような銀髪を三つ編みにしたひとりの女性。
純白のシュミーズドレスに金襴のガウンを羽織り、複数人の侍女を従えた彼女は他でもない──皇妃、ヘレーネ・フォン・ビュロンライヒだ。
「母上? どうしてこのようなところに……」
「どうして、ということはないでしょう。侯爵夫人は、わたくしの大切なお友達ですもの。こんな状況では、夫人もさぞ心細いだろうと思って、少しお顔を見に来たのよ」
「侯爵夫人……? とは、まさか──」
「ええ。そちらの『茜穹の間』にご滞在中の、ホーエンベルク侯爵夫人よ」
いつもと変わらないゆったりとした口調で答えた母上は、悪意などというものとはまるで無縁の、やわらかな微笑を湛えていた。ああ、この人はいつもそうだ。
宮廷という名の音なき戦場で、のびやかな風に吹かれる一輪の花。三人の子を持つ国母でありながら、何ものにも染まらず、今も少女に似たあどけなさを残す人。
そんな母上が見つめた先に、客室である『茜穹の間』はある。そして今、どうやらそこに、ホーエンベルク侯爵夫人──アシュタリゼの母君がいるようだ。




