『赫鷲』を継ぐ者
お父様とゲイヴが屋敷を発ってから、私は落ち着かない時間を過ごしていた。
時刻はもう、星の下刻を回っている。
そろそろ何か動きがあってもいい頃なのに、イリッヒ邸からは何の連絡もない。
「はあ……お父様たち、大丈夫かしら……やっぱり様子を見に行った方がいいんじゃ……」
「落ち着け、リゼ。まだすべてが魔女の仕業だと確定したわけじゃないし、仮にそうだったとしても、あのふたりがそう簡単にやられるわけないだろう」
「でも、ゲイヴはお父様に散々殴られたあとなのよ。いくら彼が赫鷲騎士団の有望株といったって……」
「あのなあ、ゲイヴがあれくらいでどうにかなるわけないだろ。あいつの強さは俺が保証するよ。何たって剣の立ち合いじゃ未だに俺も敵わないし、いわんやイェルクをや、ってやつだ」
「マヌエルの言うとおりよ、リゼ。あまり心配しすぎるのも体に毒だわ。特にあなたは病み上がりなのだから」
「そうかもしれないけど……」
と、夕食後の応接室──お父様が滅茶苦茶にしてしまった談話室は当面使えないので──で、執事が淹れてくれた食後茶をじぃっと睨みながら、私は唇を尖らせた。こんな状況だというのに、お母様とお兄様は、ふたりとも至って落ち着いている。本当に少しも不安になんか思っていないみたい。
対する私は、気を抜くとあっという間に最悪の想像に呑まれてしまいそうだ。
イェルクの身柄の確保に行ったお父様やゲイヴのことはもちろん、今はフェルディナントのことも気がかりで仕方ない。
だってもし私たちの立てた仮説が正しかったら、皇太子であるフェルディナントは、私なんかよりもっと危険な目に遭っているかもしれない。ひとりで苦しんでいるかもしれない。これまで彼の後ろ楯だったホーエンベルクと引き離されただけでなく、側近のイェルクまで魔女に取り込まれていたとしたら、なおさらだ。
(他にも宮殿は今頃、フェルディの敵だらけになってるかも……今度は私が彼を守る番だって、三年前、そう誓ったのに……私はまたフェルディに守られて──)
もちろん、この推測が当たっているとは限らない。今までのことは本当に全部偶然で、魔女の関与なんてなかったのかもしれない。だけどどうしても不安で、一刻も早く確かめたくて、同じ思考がぐるぐると脳内を巡っている。
今日まで繰り返してきた一〇〇回ものループの間も、フェルディナントはずっとひとりで戦っていたのかもしれないと思うと──
「──マヌエル様!」
ところが、私が自らの体をぎゅうと抱き、必死に震えをこらえていると、突然、部屋の外からお兄様の従騎士が飛び込んできた。
途端にお兄様とお母様の顔色が変わったのを、私は見る。
特にお兄様は、傍らに置いていた剣を手に取るや否や、素早く立ち上がって従騎士へ向き直った。これから戦場にでも行くみたいな剣幕で。
「どうした。父上からの知らせか?」
「い、いえ、そうではなく……たった今、帝国騎士団を名乗る者たちが玄関へ詰めかけてきて……!」
「何? 帝国騎士団がうちに何の用だ? 団長なら、フェルディナントから三日間の暇を言い渡されたはず──」
「そ、それが皇帝陛下から侯爵家に、宮殿への出頭命令が出たというのです。今、執事のゼバスティアン殿が〝旦那様ご不在のため、すぐには対応できない〟と説得してくださっているのですが……」
「何ですって?」
これにはお母様も血相を変えて立ち上がり、私は衝撃のあまり、愕然と言葉を失った。皇帝陛下直々の出頭命令?
こんな時間に──まるで、お父様の留守を見越したみたいに。
「い、一体どういうことだ? 何故、そんな勅命が……」
「く、詳しいことは分かりません。ただ、代表の騎士の言うところによれば、侯爵家に謀叛の疑いがかかっている、と……」
「はあ? 謀叛って──」
「──やられた。どうやら先手を打たれたようね」
刹那、険しい顔をしたお母様が独白のように呟いたひと言が、私の全身から体温を奪った。〝先手を打たれた〟──それはつまり魔女、あるいはアウグシュタ王国の暗躍を察知した私たちの動きが、相手に読まれていたということだ。
「お、お母様……これじゃイェルクを押さえられたとしても……!」
「ええ。すべては謀叛人の戯れ言として聞き流されるでしょうね。だけどまさか、皇帝陛下を動かせるほど深くまでアウグシュタ人が入り込んでいたなんて……いいえ、あるいは勅命が偽装である可能性もあるけれど」
「その場合、我々が連れていかれる先はユングフラウ宮殿、ではないでしょうね」
「そうね。秘密裏にどこか別の場所へ拉致されて、一家丸ごと失踪したことにされるでしょう」
「そ、そんな……! じゃあ、お父様は?」
「わたくしたちを人質に取られれば、お父様も敵に降る他ないわ。そうなれば恐らく、イリッヒ家も道連れね」
「くそっ、まずいことになったな……母上、とにかくここは私が時間を稼ぎます。母上はリゼを連れて、屋敷を脱出してください」
「お、お兄様!? 何言ってるの!?」
「おまえたちはイリッヒ家へ行って、父上と合流するんだ、リゼ。父上の従騎士もみな連れていけ。ゲイヴやイェルク……イリッヒ家の者たちの力も借りれば、今ならまだ帝都を出られるかもしれない」
「でも、それじゃお兄様は……!?」
「俺のことなら心配するな。隙を見て逃げ出せそうなら、すぐにあとを追いかけるから……」
「ダメよ、相手は宮廷騎士なのよ!? 下手をしたら、謀叛人としてその場で殺されてしまうかも……!」
「だとしても俺は父上から、母上とおまえを守るよう言われたんだ。今、このときに俺が居合わせたのもきっと、女神マータのお導きだろう」
「そんな……!」
「さあ、母上、急いでください。リゼはまだひとりでは動けませんから、従騎士に運ばせますが構いませんか?」
「いいえ、構います。リゼは昼間、あんな目に遭ったばかりなのよ。いくら緊急事態とはいえ、赤の他人の若い男に体を触らせるだなんて言語道断だわ」
「え? で、では、担架のようなものを作って……」
「左様な時間がどこにあるというの? あなたもホーエンベルクの当主代理なら、もう少し冷静かつ合理的に物事を考えなさい」
「え、えぇ……? まさか母上、このまま屋敷に残るなんて言い出すつもりじゃないでしょうね?」
「ふう……まあ、及第点ね。半分正解よ」
「半分、って──」
「リゼのことは、兄であるあなたが責任を持って連れ出しなさい、マヌエル。時間稼ぎならわたくしが請け負います」
「お、お母様が……!?」
「ええ、そうよ。いかな帝国騎士団といえども、騎士道の名の下、無抵抗の婦女に手を上げるわけにはいかないでしょう。ですから、ここはわたくしが出ていくのが最適解です。何より、わたくしはヘルマンの妻ではあっても、ホーエンベルクの一族ではないもの。今、最も大切なのは、あの人の血を継ぐあなたたちを守り抜くこと……」
お母様がそう言って微笑んだのを見た瞬間、私もお兄様も、揃って言葉を失った──嫌だ。お母様をひとりで残していくなんて、絶対に嫌だ。心はそう叫んでいるのに、想いはちっとも言葉にならなくて、私はただ首を振る。どうにか声を上げようと、陸に上がった魚みたいに口をぱくぱくさせるたび、視界は涙で滲んでいく。
「母上、なりません」
「いいえ。これでいいのよ、マヌエル。無事にお父様と会えたら、伝えてちょうだい。どうかわたくしのことは気にせず、侯爵家を守ることだけ考えてと」
「母上……!」
「母としてあなたたちに教えられることは、もうすべて教えました。そのあなたたちならきっと、この窮地も乗り切れるはず。胸を張りなさい。あなたたちは、誇り高きホーエンベルクの後継者よ。かの『赫鷲』のごとく天だけを見つめて──翼を失うことなく、飛び続けなさい」
そう告げたお母様の声色は静かで、穏やかで、そして、どこまでも力強かった。
幼い頃からずっと傍で聞いてきた、いつものお母様の声色だ。だけど今の私にはそれがつらくて、あまりにもつらくて、とめどなく涙が溢れた。
そんな私を、お母様は最後にぎゅっと抱き締めて、額にキスを落としてくれる。
次いでお母様は、お兄様にも同じように手を伸ばしたのだけど、
「母上」
と言うなり、お兄様はその手を取って片膝をついた。
かと思えばするりと腰の剣を抜き、切っ先を床に突き立てる。
そうして胸に女神十字を切り、頭を垂れた。
──騎士の、誓いの儀式だ。
「私、マヌエル・フォン・ホーエンベルクはこの剣と、女神マータの名に懸けて誓います。必ずやアシュタリゼを──ホーエンベルクを守り抜き、生涯、母、イザベラ・フォン・ホーエンベルクの名に恥じぬ騎士として生きることを……」
右手を胸に当ててそう宣誓したのち、お兄様は恭しく、お母様の手の甲にキスをした。その一部始終を黙って見つめていたお母様の横顔は、見たこともないくらい誇らしげで、嬉しそうだった。
「マヌエル。リゼを頼みましたよ」
「お任せください。『ホーエンベルクの紅玉』には、何人たりとも触れさせはしません」
「……あなたたちの母となることができて、わたくしは幸せでした。さあ──いきなさい」
お兄様は最後にもう一度、深く、深く頭を垂れたあと、立ち上がって剣を引き抜いた。それを素早く鞘へ戻すなり、ソファから腰を上げられずにいる私を抱き上げて、従騎士と共に走り出す。
「お、お母様……お母様ぁっ……!」
一方の私はといえば、遠ざかるお母様に手を伸ばして、子どもみたいに泣きじゃくることしかできなかった。
どうして──どうしてこんなことになってしまったの?
もしもこのままループが終わったら、お母様はどうなるの?
お父様は? お兄様は? ゲイヴやイェルクは?
フェルディナントは──?
「──よし、馬さえ手に入ればこちらのものだ。騒ぎに気づかれる前に正門を突っ切るぞ」
「はっ!」
それからお父様が残していった三人の従騎士とも合流し、使用人用の勝手口から屋敷を出たお兄様は、皆で力を合わせ、厩舎に先回りしていた宮廷騎士を急襲、昏倒させた。従騎士と言っても、彼らは子どもの頃からお父様に付き従って、実戦を経験してきた者たちだ。片や、戦争からは程遠いユングフラウで胡座をかいていた宮廷騎士は、相手は若輩ばかりと油断して、呆気なくのされてくれたらしい。
お兄様は一度木陰に隠した私を再び抱き上げると、鞍を乗せた愛馬に跨がった。
本当なら、私も自分で馬を操ることができるのだけど、今は五日に及ぶ昏睡のあとで、体を起こしているのもつらい。ゆえに馬上でもお兄様に横抱きにされ、相乗りすることになった。体調さえ万全なら、私だって戦えるのに──こうして皆に守られるしかない自分があまりにみじめで、憤ろしくて、恨めしい。
「リゼ、かなり揺れるぞ。しっかり掴まっていろ」
「うん……」
「大丈夫だ。必ず父上と合流して母上を助け出す。だから今は何も考えるな。……兄様を信じてくれ」
「うん……っ」
耳もとで聞こえるお兄様の声は優しくて、私はまた、泣き出してしまいそうだった。そのままお兄様の首もとに抱きつき、顔をうずめる。
お兄様はそんな私の背中を二、三度軽く叩いたあと、
「出発!」
と鋭く号令を張り上げた。ホーエンベルクの野山で鍛えられた馬たちが、ひと塊となって庭園を突っ切り、正門前に陣取っていた宮廷騎士をも撥ね飛ばして、ガス灯の明かりに照らされたユングフラウへと飛び出してゆく。
「く、くそっ……! ホーエンベルクの嫡男が逃げたぞ! 追え、追えーっ!」
背後で上がったそんな怒声があっという間に遠くなっていくのを聞きながら、私は固く目を瞑り、祈り続けた。
──ああ、運命を授けし者、女神マータよ。
どうか私の大切な人たちをお護りください、と。




