女神のみぞ知る
イェルクが帝都にあるイリッヒ家の邸宅に帰邸したのは、時計の針が間もなく星の下刻を回ろうかという頃だった。
「ただいま、執事」
「おかえりなさいませ、イェルク坊ちゃま」
「兄さんは帰ってきてる?」
「はい。何でも今宵は、イェルク坊ちゃまとお食事を共にされるお約束をされたとか……今も食堂で、坊ちゃまをお待ちでいらっしゃいますよ」
「……なんだ、生きて戻ったのか。面倒だな」
「はい? 何かおっしゃいましたか?」
「いや、それは悪いことをしたなと思って。すぐに着替えて食堂へ行くよ」
「では、若様と厨房にもそのようにお伝えします」
出迎えに現れた執事のヨハンは、そう言って恭しく一礼すると、従騎士を連れて二階へ向かうイェルクを見送った。一度寝室へ戻ったイェルクは、ため息をつきながら従騎士に手伝われ、帝国騎士団の団服を脱ぐ。次いで軽く体を拭いたあと、清潔な襞つきシャツを着て、金襴のベストを羽織ってから部屋を出た。
従騎士はここで自室へ帰し、代わりにやってきた従僕と共に食堂へ向かう。
従僕が扉を開ける前、イェルクはさりげなく自身の腰のあたりへ手を回し、ベストの下に隠した短剣の位置を確かめた。兄ならばひと目でその存在に気づくだろうが、背中さえ見せないよう気をつけておけばいい。
そう心を落ち着けてから、軋みを上げて開いてゆく扉の先を見据えた。とうに日は落ち、真っ暗なはずの食堂には、いくつもの明かりがともされている。
ゲイヴはひとりでそこにいた。いつもの席に座って、テーブルに立てた燭台の明かりで書見をしていたようだ。扉の開く音がすると、彼は顔を上げてイェルクを見た。瞳は落ち着き払っている。ホーエンベルク邸であんなことがあったばかりなのだから、もっと動揺しているか、疑念や憎悪といった類のものをぶつけられるだろうと思っていたのに、意外だった。
「……戻ったか、イェルク」
「ただいま、兄さん。遅くなってごめん……ていうかその顔、どうしたの? あのあと、アシュタリゼお嬢様に会いに行ったんじゃ?」
「ああ、会ってきたよ。お嬢様は、思ったよりお元気そうだった。あれならもう安心だろう」
「そう。……で、顔の説明は?」
「いいから、まずはおまえも座れ。〝逃げるな〟と言ったよな?」
「はいはい。そんな怖い顔しなくても、逃げも隠れもしませんよ」
肩を竦めてそう答えてから、イェルクは自身もいつもの席──ゲイヴの向かいへ腰を下ろした。今は領地にいる父母の分の席が空いた、四人がけの小さなテーブルだ。と言っても客人を招いたときのために、あと二人くらいはかけられるようゆったりとした造りになってはいるのだが、それでも小さい。おかげで向かい合って座っても兄との距離が近いのが、イェルクはひどく憂鬱だった。
「はあ、おなか空いた。で? 昼間の話の続きをするんだっけ?」
「……ああ。おまえを領地へ帰らせるという話だったな」
「兄さん。まさかあれ、本気だったなんて言わないよね?」
「冗談に聞こえたのか?」
「いや、兄さんが冗談なんか言わないのは分かってるけど……でも、今の兄さんにはそんな権限、ないんじゃない?」
「どういう意味だ?」
「兄さん、しばらく謹慎なんだろ? 夕方、殿下の執務室に団長が怒鳴り込んできてそう言ってたよ」
「ほう。なら、俺が何故謹慎を言いつけられたのかも分かっているんだろうな?」
「……ごめん。なんか、不幸な行き違いがあったみたいで」
「〝不幸な行き違い〟?」
「兄さんも団長から聞いたでしょ? どうも侯爵邸からの知らせが、団長のところには遅れて届いたみたいで。僕はてっきり、団長のところにも別口で知らせが行ってると思ってたんだけど……」
「だがおまえは昼間、確かに〝団長からの伝言だ〟と、俺にそう言ったろう」
「うん。だって実際、そうだと思ってたから」
「どういう意味だ?」
「ゴルドン子爵がそう言ったんだよ」
「……騎士連隊長のゴルドン子爵か? つまりおまえは、子爵から又聞きした情報を俺に寄越したということか」
「うん。僕は子爵から言われたとおりのことを、言われたとおり伝えただけだよ。団長には言いそびれちゃったけど」
「……」
「ちなみに団長も精神的にかなり参ってるみたいで、殿下が明日から三日間の休暇を許可してくださったんだ。陛下のことも、うまく説得できたみたいだよ」
「……ああ、聞いている。団長不在中の指揮は誰が取ることになったんだ?」
「それもゴルドン子爵だよ。団内では団長に次ぐ重鎮だし、順当じゃない?」
「そうか。では次は、子爵を操ることにしたんだな」
「……え?」
「──〝シャモワの魔女〟。この名を聞いて、何か思うところは?」
瞬間、向かいの席から刺すような視線が飛んできた。
ゲイヴは背後に控えた従僕に書物を預けながら、目線は少しも逸らさない。
そこへ厨房から、早速前菜のスープが運ばれてきた。それが従僕の手によって、兄と自分の前に配膳されるのを見届けつつ、イェルクはにこりと微笑する。
「どうしたの、兄さん。いきなり魔女のお伽噺を始めるなんて」
「お伽噺……か。俺もそう思っていた。つい三時間前まではな」
「へえ。何かあったの?」
「単刀直入に言う──弟の体を返してくれ」
「……何の話?」
「俺の、たったひとりの弟だ。イェルクの身に何かあっては困る。弟は、イリッヒ家の未来のために必要なんだ」
「兄さん、ほんとにどうしたんだよ。悪ふざけのつもりなら……」
「魔女の目的は何だ? アウグシュタ王国とどんな取引をした? 何のために、アシュタリゼお嬢様をあんな目に遭わせる?」
「おい、ヨハン。悪いが医者を呼んでくれ。団長だけでなく、兄さんまでおかしくなってしまった。皆で一度、兄さんを寝室に──」
「俺を監禁しても無駄だぞ、イェルク。もうじき、フェルディナント殿下もすべてを知ることになる。さっさと観念した方が賢明だと思うがな」
「……どういう意味」
「今、団長が宮殿へ向かっている。おまえが殿下から離れるのを待っていたんだ。アウグシュタ王国が魔女と組んだ可能性をご報告するためにな」
「馬鹿じゃないの。一体、何の証拠があって」
「ゾフィーが隠していた例の香水を見つけた。それが証拠だ」
「そんなわけない。あれはとっくに処分して──」
と思わず口走った直後だった。ゲイヴの瞳に宿っていた鋭さが、たちまち殺気へと姿を変える。しまった、と思ったときには遅かった。
次の瞬間、ゲイヴが素早く足を上げて蹴倒したテーブルが、乗せられた燭台やスープごとイェルクに襲いかかった。が、イェルクも騎士だ。
とっさの判断で椅子から飛び退き、ゲイヴの奇襲を躱した。
と同時に身を翻し、出口へ向かって駆け出そうとしたところで、
「行かせんぞ、イェルク!」
突然、背にした食器室の中から怒号がして、イェルクは避ける間もなく飛び出してきた影に組みつかれた。ぎょっとして目をやれば、鬼の形相で襲いかかってきたのは他でもない、団長だ。してやられた。
ということはさっきの話は、思考を掻き乱すためのブラフか。彼らにはやはり証拠などなかったのだ。だからこうして生き証人を確保しにきた。ならば、
「すみませんね──団長!」
言うが早いか、イェルクはテーブルが倒れた拍子に転がった燭台へ爪先を引っ掛け、思い切り蹴り上げた。
それがぽーんと宙へ浮かんだのを瞬時に掴み、背後から組みついたヘルマンの顔面目がけて振り下ろす。直前まで火のともっていた蝋燭が刺さったままの燭台だ。
その燭台が、熱した三叉槍と変わらぬ脅威となってヘルマンに襲いかかった。
が、右目を焼かれるすんでのところで、ヘルマンはイェルクから跳び離れる。
代わりにゲイヴが突っ込んできた。さすがは長年、帝国騎士団の団長と副団長を務めたふたりだ。忌々しいほどに息が合っている。
ならばとイェルクも覚悟を決めて、ゲイヴの掌底が胸に叩き込まれる寸前に──腰から引き抜いた短剣を、一切の躊躇なく振り抜いた。
「若様……!!」
イェルクの振るった短剣は、完全な意識の外からゲイヴを襲った、はずだった。
しかし、長年の鍛練と実戦で培われた騎士としての直感が、ゲイヴをとっさに動かした。視界の端で磨き抜かれた刃がチカリと閃くのを見たゲイヴは、首筋を狙った精確無比な斬撃を右腕で受けたのだ。おかげで致命傷は免れた。
が、肩から肘にかけて真一文字に走った傷からは血が噴き出し、老齢の執事が、今にも卒倒しそうな顔色で悲鳴を上げた。
「イェルク、貴様──!」
「──おっと、動かないでください、団長。そこまでです」
使用人が負傷したゲイヴへ慌てて駆け寄り、また燭台の火が移ったテーブルクロスの消火に追われる混乱の中で、イェルクは優雅に短剣を伝う血を払った。
かと思えばその刃を、寸分の迷いもなく自らの首へ押し当てる。
それを見たゲイヴはたちまち血相を変え、
「待て!!」
と叫んだ。彼の表情があまりに必死なものだから、イェルクは──魔女はつい可笑しくなって、プッと笑いを零してしまう。
「ああ、もちろん待つよ、兄さん。だって僕は、兄さんの〝たったひとりの弟〟だものね。ここで死なれちゃ困るだろう?」
「くっ……貴様の目的は何だ? 何のために、イェルクを……アシュタリゼお嬢様を……!」
「そんなの決まってるじゃないか。死んでほしかったんだよ、邪魔な兄さんとアシュタリゼお嬢様に。なのにふたりとも、ちゃっかり生き残っちゃうんだもの。団長もよく、お嬢様を手籠めにしようとしたろくでなしを許しましたね?」
「馬鹿を言うな。わしが娘を傷つけた者を許すわけがなかろう。だから今こうして償わせている。命を賭して、貴様らアウグシュタ人の陰謀を阻止させることでな」
「ふうん。まさかあの香水を一度使っただけで、そこまで特定されるとは想定外だったけど……でも、だったら残念でしたね。兄さんはもう罪を償えませんし」
「何?」
「こういうやり方は面白くないから、本当は禁じられてたんだけどなあ。でも一〇〇回も頑張ったんだし、やつらもさすがに許してくれますよね?」
「貴様……先程から、何を言って──」
と、ヘルマンが怒りで目を血走らせながら、いよいよ腰の剣に手をかけた、瞬間だった。傍らからドサリと音がして、使用人たちの悲鳴が上がる。
見ればヘルマンの足もとには、土気色の顔をしたゲイヴが倒れ込んでいた。
既に意識は朦朧として、起き上がろうにも起き上がれないらしい。
「わ、若様、しっかりなさってください! 若様……!」
「イェルク……貴様、ゲイヴに何を……!」
「何って、毒ですよ、毒。こんなこともあろうかと、ちゃんと得物に仕込んでおいたんです。本当は団長も一緒に仕留められればよかったんですけど、さすがに『百勝公』と正面から打ち合って勝てるとは思いませんから……」
「おのれ、魔女め……どこまで我々を愚弄すれば……!!」
「アハッ、でもよかったじゃないですか。これで兄さんを処刑する手間が省けたでしょう? 団長が事前に痛めつけてくれてたおかげで、思ったより毒の回りが早いみたいだし、ふたりがかりで粘られたら面倒だったんで助かりましたよ」
「ふざけるな! それ以上其奴の体で好き勝手するようなら……!」
「ええ? 何です? 僕ごと魔女を斬り殺しますか? 試してもいいですけど、無駄ですよ? どうせ死ぬのは僕だけなので、イリッヒ家の跡取りがふたりともいなくなっちゃいますね。団長も罪なお人だなあ。長年仕えてくれた忠臣に、褒美として没落をプレゼントだなんて……」
「左様な口車には乗らんぞ。ここで貴様を見逃しても、用済みになればイェルクの体も乗り捨てるつもりであろう。ゾフィーにそうしたように……!」
「へえ、意外に冷静ですね。団長って、もっと考えなしの猪だと思ってました。じゃあ、自害してくれたら兄さんの命は助けます、とか言っても聞いてはもらえないか」
「ああ、無駄だな。貴様の話は信じるに値せん。これ以上伯爵の息子に汚名を着せるくらいならば、わしは──」
「なら、こうしましょう。団長が武器を捨てて、僕を見逃してくれるなら兄さんを助けますよ。そうすれば少なくとも、イリッヒ伯爵の息子は片方、残ります。お嬢様を傷モノにしようとした残念な方ではありますが、ふたりとも見殺しにするよりはマシですよね?」
「何を」
「ほら、これが解毒剤です。本物か偽物かは、団長自身が確かめられますよ。それなら、少なくとも死に損ってことにはならないかと」
「……っなりません、団長……!」
刹那、イェルクが掲げた小瓶に目を奪われたヘルマンの足首を、すかさず掴んだ手があった。他でもない、ゲイヴだ。顔色は既に死人のようで、唇も紫に変色している。明らかな毒の症状だ。されどゲイヴは、途切れかけの意識をどうにか繋ぎ止めるように、ヘルマンの軍靴を掴む指先へ力を込めた。
「ここまで……話を、引き延ばす……ということは……魔女には、まだ……イェルクが……必要だと、いうことです……! そうでなければ……とっくに、自害しているはず……!」
「しかし、ゲイヴ」
「私の、ことは……構わず……お見捨てください……代わりに……どうか……どうか、弟を……」
それが、ゲイヴの最後の言葉だった。直後に彼は意識を失い、ヘルマンの足を掴んでいた左手は力なく床へ落ちる──ああ、そうだ。ゲイヴはどのみち、昼間の件の処断を保留されていたに過ぎない。あのような事件を起こした以上、イリッヒ家の跡取りとして残すべきはイェルクの方だ。ゲイヴの見立てが正しければ、やつは今、さも〝いつでも自害する準備はできている〟という顔をしているだけで、実際には生きてこの場から逃げ出す隙を窺っているに違いない。
とすれば制圧は可能だ。魔女がイェルクを殺すのをためらう一瞬の隙を狙って、今度こそ身柄を拘束する。
若かりし頃から戦場を渡り歩いてきたヘルマンになら、できる。
ゆえに改めて、腰の剣に手をかけて──
「──ヨハン、受け取れ」
そこからはずした得物を鞘ぐるみ、イリッヒ家の老執事へと差し出した。
捕食者のような眼光はイェルクへ向けたまま、だ。
ヨハンはこれに驚き、戸惑いながらも、両腕で抱き留めるようにヘルマンの剣を受け取った。するとイェルクは瞳を細めて笑い、
「下がれ、ヨハン。団長の手が届かないところまで」
と簡潔に命ずる。ヨハンは指示に従った。そうして彼が部屋の隅まで後退するのを見届けてから、イェルクも慎重かつゆっくりと、手にした小瓶を足もとへ置く。
「お優しいですね、団長。あなたならきっと、兄を見殺しにするだろうと思ってました」
「ああ、そうだな。わしもできることならそうしたい」
「では、遺される父を慮ってくださったのですか? 団長にとっての父は、家臣である前に無二の戦友ですもんね」
「無論、それもある。だが、一番の理由は──ここでゲイヴを死なせれば、リゼが泣くからだ。誰であろうとも、娘を泣かせる者は断じて許さん。たとえわし自身であってもな」
「……。理解に苦しみます」
にこりと微笑みながらそう言って、イェルクは食堂をあとにした。
刃は首もとにあてがったまま、如才なく外まであとずさってから、バタンと扉を閉めてヘルマンらの視線を遮断する。と同時に身を翻し、さっさと走り去っていく足音が聞こえた。直後にヘルマンもだっと駆け出して、イェルクが床に置いていった小瓶を拾う。中身は透明な液体だった。
傍目にはただの水のようにしか思われないが、きっと解毒剤だと信じる他ない。
「おい、今すぐこれをゲイヴへ飲ませろ。医者も呼べ、大至急だ」
「は、はいっ!」
「やつの容態が安定したら、わしの屋敷へ連れてゆけ。おまえたちも共に避難するように」
「で、ですが、侯爵閣下は?」
「わしはイェルクを追う。ダニエルの倅だ、死なせはせん。おまえたちも、主のために死力を尽くせ」
「か……かしこまりました。でしたら、若様の従騎士を代わりにお連れください。閣下の従騎士は、侯爵邸を守っておいででしょうから」
「おう、そうだな。恩に着る。……くれぐれも、ゲイヴを頼んだぞ」
「はい。閣下もご武運を……イェルク坊ちゃまを、どうか、よろしくお願い申し上げます」
抱えていた剣を震える両手で差し出しながら、ヨハンは深々と頭を下げた。
ヘルマンは頷いて手を伸ばし、その剣を腰に佩いてから踵を返す。
最後にちらと見やったゲイヴは従僕たちに囲まれて、解毒剤を飲まされ、傷にも止血帯を巻かれつつあった。あとは運を天に任せるのみだ。
彼の犯した罪が万死に値するならば、女神がそれを与えるだろう。
ゆえにヘルマンは、胸に女神十字を切って歩き出した。
魔女の手から、愛娘の未来を取り戻すために。




