ありがとうとさよなら
「イェルクの様子がおかしい?」
談話室での騒動がひと段落ついたあと。
私たちは応接室に場所を移して、お互いに知り得た情報を共有することにした。
まず、今回の騒動が、過去にアイルツ領で使われた──とされている──『魔女の香水』によって引き起こされた可能性があること。
そして、その香水を持ち込んだのが侍女のゾフィーであり、問い詰められた彼女が屋敷の二階から身を投げたこと。結果、ゾフィーは頭を打って記憶を失くしてしまい、詳しいことは分からないものの、直前の言動から香水の件は彼女が仕組んだものである可能性が高い……というところまでは、お父様も理解を示してくれた。
けれど話の風向きが変わったのは、私がゾフィーの行動の違和感を指摘したときだ。あんなに多弁なゾフィーは見たことがない、と私が呟けば「そういえば……」と思い出したように、話し合いに参加することを許されたゲイヴが、おずおずと口を開いたのだった。
「ああ。これは兄としての直感でしかないんだが……このところイェルクも、らしくない言動が増えていてな。劇場での一件があってからは、特に顕著で……俺との接触を避け始めたかと思えば、急に言い訳やご機嫌取りを始めたり、どうも言動が一貫していない印象があるというか……」
「確かに、それはイェルクらしくないな。あいつは言いたいことがあるなら遠慮なく、ズケズケ言ってくるタイプの男だろう。相手が身内ならなおさらだ」
「はい。ですので今夜、屋敷へ戻ったら話をしようとは言ってきたのですが……」
ゲイヴの意見を肯定したのは、同じくらいイェルクのことをよく知るお兄様だった。そのお兄様の手当てのおかげで、ゲイヴの怪我も少しはマシになったみたい。
額の傷や頬に貼られた貼り薬はまだ痛々しいけれど、腫れはずいぶん引いたような気がする。……本当に、どうして彼をこんな目に遭わせてしまったんだろう。
今はそんな慚愧の念で胸がいっぱいで、恐怖心はすっかり薄れていた。
話せば話すほど、彼はもういつものゲイヴで、さっきは明らかに様子がおかしかったのだと理解できたのも大きい。だから私は自らゲイヴの隣に腰かけて、そっと彼の手に自分の手を重ねた。それに気づいたゲイヴは最初、怯えたような、戸惑ったような顔をしていたけれど、すぐに淡く微笑んで、私の気持ちに応えてくれた。
「ううむ……そうだ、イェルクといえば、ゲイヴ。おまえにリゼが目覚めたと知らせたのは、やつだったのであろう? そのとき、やつは何と言っていた? わしからの伝言だ、とそう言ったのではないか?」
「はい。確かに団長からの伝言だと……陛下の公務のご予定が急遽変更となり、団長はすぐに帰邸できないので、先に屋敷へ行って様子を見てくるように、と伝えられました」
「何だと? イェルクめがそう言ったのか?」
「は、はい。ですので私も団長のご指示に従い、侯爵邸へ……」
「馬鹿な。わしが屋敷からの知らせを受けたのは、おまえが勝手に宮殿を飛び出していったあとだ。だいたい、陛下のご予定の変更などという事実はどこにもない」
「……! で、では、まさか……」
「……なるほど。此度の一件、どうやらイェルクも一枚噛んでいそうね。さてはゾフィーとつながっていたのかしら? そう考えれば、あなたをひとりで屋敷へ寄越した理由にも合点がいくものね」
と扇を手にしたお母様が冷静に推理するのを聞いて、私は図らずもぞっとした。
これにはゲイヴも顔色を失い、愕然と絶句している。
だって、イェルクが私たちを裏切るなんて──信じられない。
確かに彼はフェルディナントに忠誠を誓っているし、今までのループでも、私よりフェルディナントに味方するような言動を繰り返していたけれど……。
(だけど、お父様の指示を偽装して兄を騙すなんて……さすがのイェルクもそこまでするとは思えないわ。イェルクはああ見えてお兄ちゃん子だし……私とは敵対しても、ゲイヴとまで敵対したいとは思わないはず。ましてやお父様を敵に回すだなんて……)
イェルクは昔から要領がよくて、損得勘定はしっかりとするタイプだ。余計な揉めごとには決して首を突っ込まないし、社交界でも貴族同士の複雑な人間関係を理解した上で実に器用に立ち回るのを、私も感心しながら眺めてきた。そんなイェルクが、反逆スレスレの行為に手を出すなんてありえない。たとえば家族を人質に取られて……とかならいざ知らず、今回はその家族を危険に晒しているのだし。
「し、しかし母上、仮にこれがイェルクの案じた一計だったとして、やつは一体何のために? まさかホーエンベルクの分裂を狙ったフェルディナントの指示だったとでも?」
「まあ、だとしても驚きはしないわね。殿下はアウグシュタ人の陰謀を疑う我々にご立腹でいらっしゃったようだし──」
「──いや……恐らくだが、それはない」
「え? ど、どういうこと、お父様?」
ところがお母様の推理を否定したのは、誰よりもフェルディナントに憎悪を向けていたはずのお父様だった。
その口調に妙な確信が滲んでいるのが気になった私が聞き返せば、お父様は腰を屈めて膝の上で手を組んだまま、何やら複雑そうな顔をしている。
「……実はここへ来る直前、わしはリゼの無事を知らせるべく、殿下にお会いしてきたのだ。だがイザベラからの知らせを受けた直後で、わしも少々動転しておってな。気づけば殿下に〝娘が何か取り返しのつかない粗相をしたのであれば、それがしが代わりに償うゆえ許してやってほしい〟と懇願しておった。すると殿下は──皇子は、こう言ったのだ。〝アシュタリゼに罪などない。すべては自分の罪だ〟とな」
瞬間、お父様の言葉は冷たい氷の塊となって、ゴトン、と私の頭上へ落ちた。
その衝撃と、粉々に砕けた氷の冷たさとがバラバラと全身に降り注ぎ、体温が滴り落ちていくのを感じる。
(何……それ。フェルディの罪……? 私と婚約関係にありながら、アリマニカに気持ちが移ったことを言ってるの? それとも──)
真っ白に凍りついた思考の中で、刹那、私は何かがチカリと光るのを感じた。
ああ、そうだ。思い出した。
そういえば私は、五日間のまどろみの中でひとつ、気がついたことがある。
「……お父様。フェルディが、確かにそう言ったの? 私が未来の皇妃としてふさわしくないからでも、嫌いになったからでもなく、フェルディ自身の罪だって?」
「あ、ああ。それ以上の言葉は引き出せなんだが……」
「……」
「リゼ、大丈夫か? 顔色が……」
思わず言葉を失った私の顔を覗き込んで、ゲイヴが遠慮がちに、だけど心配そうに声をかけてくれた。おかげで呼吸を忘れていたことに気づき、震える喉で息を吸う──もし、この仮説が当たっていたら。
そう思うと、恐ろしくてたまらない。でも。でも……。
「……あのね。今回、私も頭を打って、思い出したことがあるの」
「え?」
「夢を……見たのよ。五日間、眠っている間に、これまでのループの夢を。そして気づいたの。私、この現象が起き始めてから、今回みたいな事故に巻き込まれることが多かった。鳥が窓を突き破ってきたせいで硝子が目に入って失明したりとか、ひとりだけ原因不明の病気に罹って高熱で死にかけたりとか、他にも色々……」
「な、なんと……!? 皇子から非道な扱いを受けるだけでなく、そんな目にまで遭っていたというのか!?」
「うん……最初は全部、偶然というか、運が悪かっただけって思ってたけど。でもあるときから、ぱったり事故に遭わなくなって……」
「……? じゃあ、ひょっとして、事故に遭ってたのも何か原因があったってことか?」
「たぶん……そう。思えば、私が事故に遭ったのって……いつもフェルディに会おうとしたときだったの。しかも、ただ会うわけじゃなくて、彼の気持ちを取り戻そうとか、どうしても話がしたいとか、そういう動機で会いに行ったとき。フェルディはそのたびに私を冷たくあしらって、こないだみたいに突き飛ばされたこともあったけど、それって……それって──」
──もしかしたら私の不運は、フェルディナントと会うことをきっかけに起きていたんじゃ? フェルディナントは、そうと知っていて私を遠ざけたんじゃ?
他でもない、私を守るために。
さっき、自ら罰されようとしたゲイヴと同じように……。
そんな推測がすぐ喉もとまで出かかっているのに、私は怖くて言葉にすることができなかった。だってこの仮説が当たっていたら、私は今の今まで何していたの?
裏切られたと思い込んで、みっともなく泣き喚いて、フェルディナントを責めて責めて責めて責めて──
「リゼ」
刹那、嫌悪感という名の吐き気が堪え切れなくなって口を押さえた私を落ち着かせるように、ゲイヴが手を伸ばしてきた。ほんの一瞬、彼は私に触れることに躊躇したようだったけれど、最後は優しく背中を摩ってくれる。
ああ、そうだ。彼はいつもこうだった。婚約者になる前からずっと私の顔色を気にかけて、つらいときは何も言わず傍にいてくれた。
話を聞いてくれた。一緒に背負ってくれた。そんなゲイヴの気持ちにも、フェルディナントの真意にも気づかないで、私は……!
「大丈夫だ。まだそうと決まったわけじゃない。だいたい、君が殿下と会おうとするたび不幸が起こるだなんて、そんなことが……」
「いいえ。ありえないとも言い切れないわ」
「ど、どういうことです、母上?」
「考えてもごらんなさい。そもそもリゼが殿下の死をきっかけに同じ時間を繰り返している、なんて時点で、おかしなことが起きているのよ。第一、今日だって、ゲイヴが普段ならありえない行動を取ったばかりでしょう?」
「……! そうか、『魔女の香水』……ということはまさか……!」
「ええ。まだ憶測の域は出ないけれど──恐らく、シャモワの魔女は実在する。そして此度の一件にはすべて、魔女が関わっているものと考えれば辻褄が合うわ。だとして一体何のために、リゼをこんな目に遭わせているのかは、依然として謎だけれど……」
「いや、あるいは……魔女だけではない。この一件、アウグシュタ王国が裏で糸を引いているとすれば、どうだ?」
「な……た、確かに魔女が棲むというシャモワ山脈は、我が国だけでなく王国にも跨がっていますから、同じ伝説が伝わっている可能性はありますが……父上はアウグシュタ人が魔女を恃んで、帝国の分断をもくろんでいるとお考えなのですか?」
「可能性はある。皇室と我々を対立させて得をするのは、ホーエンベルクを仇敵と憎むアウグシュタ人か、先の皇子による粛清で没落した貴族どもくらいだ。あるいは近年、外交で揉めているトゥルペン大公国という線もあるが、かの国はシャモワ山脈から遠すぎる」
「そうね……アウグシュタ王が、既に婚約者のいる殿下と王女の縁談を強引に推し進めていたことから考えても、ヘルマンの推測は正しいと思うわ。てっきり王は恭順派とばかり思っていたけれど、表向きはそう振る舞っているだけで、独立派の公爵たちに丸め込まれてしまったのかも」
「では、ひょっとすると、アリマニカ王女もそれを承知で殿下に接近している……のでしょうか? だからあの晩、お嬢様がいると分かっている劇場に殿下を連れ込んだとか……?」
と、ゲイヴが追加の推測を口にしたことで、場の空気が一変した。
お父様やお母様は血相を変えているし、当時現場にいなかったお兄様も、ことの深刻さをすぐに理解したようだ。
「だとすれば、これは計画的な反逆だな。〝シャモワの魔女〟なんて単なるお伽噺だと思っていたが、もし実在するのなら……」
「も、もしそうなら、ゾフィーやイェルクの様子がおかしいのも魔女に操られているせいかも。私、過去のループで魔女について調べたことがあるの。〝魔女は魔法の力で、望むことは何でも叶えられる〟って……!」
「その話が事実なら、可能性は充分ありそうね。ゾフィーが突然飛び降りたのも、記憶喪失を装って洗脳を解くためか、あるいは最悪、口封じのために彼女を殺してしまうつもりだったのかも……」
「ふむ……ということはだ。我々が次に取るべき行動はひとつだな」
と、ようやく上体を起こしたお父様が膝を叩き、次いでするりと髭を扱いた。
そうして虚空を睨んだお父様の眼差しは、さっきまでお母様に叱られてベソをかいていたのと同一人物とは思えない──戦場で数多の敵を屠ってきた『百勝公』のそれへと変わっている。
「ゲイヴ。次はおまえの弟に、少々痛い目を見てもらう番だ。構わんな?」
「……はい。もしイェルクが魔女に操られているのなら、多少手荒な真似をしてでも、正気に戻してやらねばなりません」
「よし。では決まりだ。マヌエル、おまえは屋敷に残って母と妹を守れ。今夜は誰が訪ねてきても中へ入れるな」
「かしこまりました。ゲイヴ……父上を頼んだぞ」
「お任せください。団長は、我が命に代えてもお守りいたします」
そう言ってお兄様に目礼したゲイヴを、私は不安な面持ちで見上げた。彼が今回のことで責任を感じているのは分かってる。だから償いのために、本当に命を投げ出してしまうんじゃないかと心配になったのだ。しかしそんな私の様子に気づいたゲイヴは、答える代わりに微笑んで、ただそっと手を握り返してくれた。
ひとまず私たちは、事態が収束するまでは引き続き婚約者として振る舞うことに決まっていたけれど、私はそのとき、ゲイヴに告げられた気がした。
「ありがとう」と、「さよなら」を。




