騎士の血に誓って
ゾフィーが目を覚ましたのは、彼女が飛び降りてから一時間ほどあとのことだった。
「ん……ここは……?」
「ゾフィー! 目が覚めたのね!」
「……アシュタリゼ……お嬢様……? それに、奥様まで……」
応急処置をしてくれたお医者様の話によれば、ゾフィーの症状は軽い脳震盪。
他にも肋骨など、何本か骨が折れてしまっているようだけど、幸い命に別状はないとのことだった──ところが。
「屋敷の二階から、飛び降りた……? わたくしが、ですか?」
「ええ、そうよ。あなたが昼間、私に譲ってくれた香水について話していたら、突然部屋を飛び出して……」
「香水……? わたくしが、お嬢様に……?」
「……ゾフィー。あなたまさか、覚えていないの?」
「はい……申し訳ございません、奥様。香水というのも、何のことだか……」
屋根裏にある使用人の寝室で、寝台の上に体を起こしたゾフィーは額に手を当てながら、ひどく混乱した様子でそう答えた。そこで顔を見合わせた私たちが色々と質問してみたところ、ある事実が明るみに出る。というのもゾフィーは落下前後の記憶だけでなく、ここひと月ほどの記憶がすっぽり抜け落ちているらしい、ということだ。彼女は香水を私に譲ったことどころか、そもそも購入したときのことも、私とゲイヴが婚約した事実や経緯も、何ひとつ覚えていなかった。
「ふむ、妙ですな……昏睡から覚醒までの早さを見るに、頭を打った影響はさほど重くない。これくらいの症状ならば、記憶が飛んだとしてもせいぜい数時間程度のことが多いのですが、ひと月分の記憶を失くすというのは……」
と、改めて診察してくれたお医者様も首を拈るほどで、私は再度お母様と顔を見合わせた。ひょっとしたら、ゾフィーは頭を打ったのをいいことに、記憶喪失のふりをしている可能性もある。
だけど私にはどうしても、困惑しているゾフィーの様子が演技とは思えない。
「お母様……」
「ふむ……困ったわね。こうなった以上は、しばらく経過を見る他ないでしょう。数日安静にしていれば、記憶が戻るかもしれないし」
「ご迷惑をおかけして申し訳ございません、奥様、お嬢様……何か思い出せましたら、すぐにお知らせいたしますので」
「……分かったわ。まずはしっかり療養してちょうだい、ゾフィー。必要なものがあれば、遠慮なく言ってくれていいから」
「はい。なるべく早く職務に復帰できるよう努めます」
そう答えながら目礼したゾフィーは、やはり私のよく知るいつもの彼女だった。
真面目で、物静かで、余計なおべっかや言い訳は一切口にしない人。
そんな彼女が私とゲイヴの関係を囃し立て、怪しげな香水まで差し出すだなんて──それがそもそも、おかしかった。
(香水を渡してきたときのゾフィーはいつになく饒舌だった。彼女が自分からあんなに話しかけてくるなんて、滅多にないことなのに……私を騙すために必死だったから、ってこと? だとしてもゾフィーならもっと静かに、スマートにやりそうなものだけど──)
「──奥様、お嬢様、旦那様がお戻りになられました」
ところが私が考え込んでいると、不意にメイドが駆け込んできて、お父様の帰邸を知らせてくれた。
そういえば私が目を覚ましたと聞いてゲイヴは早々にやってきたのに、お父様からは何の音沙汰もないからと、お母様が改めて人をやってくれたのだっけ。
とにかくまずはお父様にも無事を知らせて、状況を説明しないと。そう思いながら、まだふらつく両足で椅子から立ち上がろうとしたところで、ふと気づいた。知らせに来たメイドがそわそわと落ち着きなく、青ざめた顔色をしていることに。
「……? ねえ、どうかした? 何だか顔色がよくないわ」
「そっ、それが……旦那様がお帰りになるなり、ものすごい形相で談話室へ乗り込んでいってしまわれて……っ」
「談話室?」
「まあ、いけない。リゼ、すぐにお父様を連れていくから、あなたは寝室に戻っていなさい」
「えっ? ま、待って、お母様! 談話室がどうかしたの?」
「今、あそこにはゲイヴがいるのよ。早く行って止めないと、彼がお父様に殺されてしまうわ」
「な……!」
──ゲイヴがお父様に殺される。
それが比喩でも冗談でもないことは、私にもすぐに分かった。私がゲイヴに襲われたことは、お父様も既に知るところなのだ。けれど彼が『魔女の香水』の影響を受けた可能性があるのは、お母様が知らせを出したあとに発覚したこと。つまりお父様はまだ知らない。そんな状態でお父様とゲイヴを会わせたりしたら……!
「ま、待ってお母様、私も行くわ!」
「だけどリゼ、あなたはゲイヴと……」
「いいから、お願い!」
あんなことがあったあとで、私とゲイヴを会わせたくないというお母様の気持ちは分かる。私だって正直、彼と顔を会わせるのは怖い。
さっきの寝室での、人が変わったような表情や手つきを思い出すと全身に震えが走る。できることなら、会いたくない。でも。
(でも、もしあれが香水のせいだったとしたら……ゲイヴは、利用されただけよ。私が彼を巻き込んだから──)
だから、逃げるわけにはいかない。私も騎士の娘として、きちんと責任を取らなきゃいけない。だって私、誓ったもの。
こんな私の共犯者になってくれたゲイヴを、裏切らないって……!
「──父上、落ち着いてください! 今はとにかく話を……!」
「邪魔をするな、マヌエル! 此奴はリゼだけでなく、ホーエンベルクそのものを裏切ったのだぞ!」
「分かっています! 分かっていますが……!」
ほどなく私たちが一階へ急ぐと、談話室の扉がある玄関ホールには雷のようなお父様の怒声と、それを宥めようとするお兄様の声が響いていた。
慌てて部屋へ駆け込めば、そこはまるで嵐が通過したあとのよう。大理石のローテーブルは真っ二つに割れ、投げ飛ばされたと思しいひとりがけ用のソファも逆さまに転がり、巻き込まれた壁の絵画や花瓶も無惨な残骸と化している。
そして部屋の中心では、頬に血を滲ませたお兄様が暴れるお父様を懸命に押さえ込んでいて──そんなお兄様の背後に、私は見た。後ろ手に縄を打たれたゲイヴが床に転がり、絨毯を吐瀉物で汚しながら、苦しげに咳き込んでいるのを。
「ヘルマン、およしなさい!」
刹那、お母様の鋭い一喝が響き渡った。あまりの光景に身が竦み、立ち尽くしていた私は、鼓膜を貫くようなその声にびくりと肩を震わせる。
「イザベラ……! 話は聞いたぞ。この男めが、リゼを──」
「あなたのお怒りはもっともですが、だからと言ってこれ以上、屋敷を滅茶苦茶にされては困ります。おまけに、よくもマヌエルにまで手を上げましたね」
「こ、これは、此奴がわしの言うことを聞かんから……!」
「あなたのかわいい娘を暴漢から守り抜いたのは、他でもないマヌエルですよ。それをねぎらうどころか殴って怒鳴りつけるなど、あなたはそれでもホーエンベルクの主ですか!」
入り口からつかつかと歩み寄ったお母様は、お父様からお兄様を引き離すや否や眦を決して、またも一喝した。あまりの形相に居合わせた使用人たちはみな竦み上がり、お母様の背にかばわれたお兄様も、呆気に取られた顔をしている。
他方、叱られた当人はと言えば、怒らせていた肩がみるみる萎れ、わがままを咎められた子どものようにしゅんとしてしまった。
かと思えば大きな体を縮めてさめざめと、お母様に許しを乞い始める。
「う、うぅ……すまん、イザベラ……わしはまた、頭に血が上ってしまって……」
「謝罪するならわたくしではなく、勇敢に妹を守り抜いた、あなたの息子にすべきではなくて?」
「お、おぉん……おっしゃるとおりです……すまなかった、マヌエルよ……愚かな父を、どうか許しておくれ……」
「い、いえ、私は大丈夫ですが……って、そうだ、ゲイヴ! おい、大丈夫か!?」
と、そこでようやく我に返ったらしいお兄様は素早く身を翻し、床に倒れたまま起き上がれずにいるゲイヴを助け起こした。ゲイヴは、お父様にひどく殴られたのだろう。頬は腫れ、額や唇からは血を流し、呼吸も苦しそうにしている。
けれども彼は、自力で身をよじれるようになると、すぐにお兄様から離れようとした。すかさず手を伸ばしたお兄様が、そうはさせなかったけど。
「お手を……お離しください、マヌエル様。私は……ゴホッ……かようなお慈悲を受けるに、値しません……」
「何を言ってるんだ、ゲイヴ! おまえは……!」
「団長の……おっしゃるとおりです。私は、ホーエンベルクに仕える身でありながら……騎士の誓いを違え……主家より賜った信頼を、裏切りました。よって、如何ような罰も受ける所存です」
まだあちこち痛むのだろう、聞いたこともないほど弱々しい声でそう言ってうなだれたまま、ゲイヴは顔を上げなかった。そうして体勢を変えずにお父様へと向き直り、深々と頭を垂れて、額を床に擦りつける。
「団長……此度の一件、申し開きのしようもございません。どうか団長のお気の済むように、私に罰をお与えください。お望みとあらば、首を刎ねていただいても構いません」
「ゲイヴ!」
「私は、ホーエンベルクの臣としてあるまじき行いを……イリッヒ家の名にも泥を塗ってしまいました。ですのでどうかその汚泥を、私の血でもって雪いでいただきたく……」
「……。ゲイヴ・フォン・イリッヒよ。それがおまえの偽りなき本心か?」
「はい。このたび、私が犯した罪は……他に、償いようがございません。本当に、申し訳ございませんでした」
そう謝罪したゲイヴの声は、震えていた。たぶん、お父様への恐怖から、ではない。自分に対する激しい怒りと後悔からだ。
お父様はそんなゲイヴを、しばし無言で見下ろしていた。
そしてほどなく、すらりと剣が滑る音がする。腰にさげていた剣を抜き放ったお父様は、頭を垂れたままのゲイヴの首もとへ、びたりと切っ先を突きつけた。それを見たメイドたちが息を飲んで口もとを押さえ、お兄様もまた顔色を一変させる。
「お待ちください、父上! ゲイヴは確かに過ちを犯しましたが、こうなったのには理由が……!」
「いいや。おまえは黙っていろ、マヌエル。いかなる理由があろうとも、騎士が誓いを違えた以上、相応の罰を受けねばならぬ。本人もこう望んでいるのだ。第一、長年ホーエンベルクに重用されてきたイリッヒ家の者であろうとも、過ちを犯せば必ず罰せられるのだと知らしめねば、他の者たちに示しがつかん」
「ですが……!」
「マヌエル」
なおも食い下がろうとするお兄様を窘めたのは、お母様だった。
助けを求める視線を送ったお兄様に対し、お母様は黙って首を振る。
今回ゲイヴが犯した罪は、それほど重いということだ。騎士が主君に捧げた忠誠を裏切っただけでなく、婚前の姦通という所業でその名誉をも汚損しようとした。
この貴族社会で、そんな行為が許されるわけがないのは分かっている。だけど。
だけど……!
「待って、お父様!」
次の瞬間、剣を構えようとしたお父様の背中に向かって、私はそう叫んでいた。と同時に、五日間の昏睡で萎えた両足を奮い立たせ、うずくまったままのゲイヴへ駆け寄る。そうして彼の傍らに膝をつき、背にかばい、きっとお父様を見上げた。
これにはお父様も、お母様もお兄様も──そしてゲイヴまでもが驚愕しているのが分かる。
「り、リゼ? おまえ、何を……」
「お父様の立場上、ゲイヴを許すわけにいかないのは分かるわ。だけど、話を聞いて。お兄様の言うとおり、今回の件にはわけがあるの。ゲイヴは何も悪くない」
「……お嬢様、」
「私がゲイヴを巻き込んだのよ。だったらこれは私の罪。罰を受けるのも私であるべきだわ」
「お嬢様、おやめください」
「いいえ、やめない。私はあなたの婚約者だもの。あなただって、今日まで私のために怒って、私のために身を挺してくれた。なら、今度は私があなたを守る番」
「リゼ」
「そりゃ、さっきはものすごく怖かったし、今も正直、怖いけど……あれはあなたの意思じゃなかったって、知ってるから。だから、私、あなたを裏切れないわ。裏切りたくないの」
そう告げた声は、自分でも情けなくなるくらい震えていたけれど。
でも嘘じゃないと伝えるために振り向いたとき、私は言葉を失った。
何故なら、ゲイヴが泣いていたから。
苦しそうに眉を寄せて、唇を震わせて、ゲイヴは泣いた。
その顔を見ていたら、分かる。
この場で彼を一番許せないのは、彼自身なのだと。
「ゲイヴ……あなたの気持ちも知らずに巻き込んでしまって、ごめんなさい。ありがとう……」
だから、どうかこれ以上自分を責めないでほしくて、私も泣いた。
泣きながら彼を抱き締めた。だって、お母様が言ってたもの。『魔女の香水』は相手への想いが強ければ強いほど、抗い難い効果を発揮する代物だって。
つまり、ゾフィーの話は本当だった。
ゲイヴは私を〝愛して〟くれていたんだ。
こんな形で知りたくはなかったけど。だけど、小さな頃からこの手を引いてくれた彼の優しさを、ぬくもりを、私は知ってる。そんな彼を、私は今日まで、どれほど傷つけてきたんだろう。主家の令嬢という立場に甘えに甘えて、気持ちを踏み躙って、それでもなお私のために、今も泣いてくれるゲイヴを。
「……あなた」
そのとき、私の後ろで、剣を握ったお父様の手に、お母様がそっと触れたのが分かった。数瞬の沈黙のあと、お父様はふーっと長い、長いため息をついて、剣を腰の鞘へと戻す。
「執事」
「はい、旦那様」
「今日、邸内であったことは決して他言するな。家の者全員にそう通達しろ。この命に背いた者は、命がないものと思え」
「かしこまりました」
老執事のゼバスティアンは胸に手を当てて一礼すると、早速居合わせた使用人全員に、地下の控室で待機するよう指示を出した。ホーエンベルクに仕える使用人たちもまた、優秀で忠直だ。主君の命令に進んで背くような者はいない。
今回のゲイヴのように、誰かに嵌められたのでもなければ。
「はあ……リゼ。とにかくまずは、其奴から離れなさい。おまえの気持ちは分かったが、このままだと父様は、もう一度剣を抜いてしまいそうだ」
「でもお父様、ゲイヴったら、ひどい怪我だわ。早く手当てしてあげないと……」
「そんなものはマヌエルにでもやらせておけばいい。まずは父様におまえを抱き締めさせておくれ。それが済んだら、聞かせてもらおう。ゲイヴが過ちを犯した理由とやらをな」




