在りし日のおてんば令嬢と泣き虫皇子
わたくしの唇には、特別な魔力が宿っている。
老若男女を問わず、口づけた相手を一時的に洗脳できる『魅了』の魔法。
これはずいぶん前に悪魔と交渉し、生け贄を捧げて手に入れた能力だ。
効果は九九日間しか持続しないものの、かなり強力に相手を洗脳し、思いのままに操ることができる。さらに〝手駒〟にした相手とは、任意のタイミングで五感を共有できるという優れものだ。わたくしはこの力を駆使して、帝国騎士団の副団長ゲイヴ・フォン・イリッヒを傀儡にした。
ほとんど毎日、皇族や宮殿の警固のために宮廷へ出仕する彼と接触し、不意を衝いて唇を奪うのは、そう難しいことではなかった。何せ相手はわたくしのことを、立場の弱いアウグシュタ王国の王女だと思っていたしね。
「ねえ、ゲイヴ。わたくし、知っているのよ。あなた、アシュタリゼに横恋慕しているでしょう? 叶わぬ恋に身を焦がしながら、今後も一生、黙って彼女を見守ることしかできないなんて、なんて可哀想なのかしら……わたくし、そんなあなたの力になってあげたいわ」
跪いたゲイヴの唇を親指でなぞりながら、わたくしはそうほくそ笑んだ。一〇〇年もの間、何十、何百という男のもとを渡り歩いてきたわたくしには、彼が内に秘めた恋情がひと目で分かった。だって、時折宮殿を訪ねてくるアシュタリゼを見つめるときの彼の眼差しといったら、どう見ても〝男〟のそれだったんだもの。
だからわたくしは、彼の願いを叶えてあげることにした。
愛するアシュタリゼを誰にも渡したくないという、隠れた独占欲を。
「んーっ、風が気持ちいいわね~! 遠駆けなんて久しぶり。だけどあなたの方から誘ってくるなんて珍しいじゃない、ゲイヴ? 〝どうしてもふたりきりで話がしたい〟だなんて……何かあったの?」
その日は確か、玉輪の月の二十日だった。ゲイヴの肉体を乗っ取ったわたくしはアシュタリゼを遠駆けに誘い、帝都郊外にある湖の畔まで連れ出した。
もちろん、このときのゲイヴとアシュタリゼは婚約者同士でも何でもない。
ただの侯爵家の娘と家臣だ。けれどもふたりは幼馴染みで、アシュタリゼは兄の親友でもあるゲイヴのことを完全に信頼し切っていた。おかげで至極簡単だった。
適当な嘘で彼女を騙し、油断を誘うのは。
「……急に呼びつけてしまって申し訳ございません、アシュタリゼお嬢様。殿下の婚約者であるあなたを内密に連れ出したなどということがバレたら、間違いなく団長に首を刎ねられますね」
「ふふふっ、大丈夫よ。あなたのことは信用してるし、お父様にも絶対秘密にしておくから。第一、そうと分かってて呼び出すなんて……何かあったんでしょ?」
「……」
「最近イェルクが、あなたの様子がおかしいって心配してたの。何か悩みごと? あなたにはこれまで何度も助けてもらったし……私にできることがあるなら、協力するわ」
──ああ、なんてお優しいお嬢様。
わたくしは内心そうせせら笑いながら、次の瞬間にはアシュタリゼを押し倒していた。呆気に取られている彼女を鍛え上げられた騎士の体で組み敷き、衣服を引き裂く。その段になってようやく状況を理解したらしいアシュタリゼは泣き叫び、必死に拒絶しようとしていたけれど構わなかった。ここで傷モノにしてしまえば、彼女とフェルディナントの婚約は白紙になる。夫となる男以外と姦通した女など、厳格なビュロン皇家が迎え入れるわけがないからだ。
信頼していた騎士に婚約者を寝取られたフェルディナントは、まず間違いなく絶望に暮れるだろう。わたくしはそうして開いた心の隙間に入り込み、ひたすらに彼を慰めてあげるだけでいい。男という生き物は昔から、傷心中、優しく寄り添ってくれた女に落ちると相場が決まっているからだ。暴れるアシュタリゼを押さえつけながら、わたくしがそう勝利を確信した、直後だった。
「──ゼ──リゼ、どこだ!?」
刹那、わたくしは信じられないものを耳にした。
アシュタリゼを呼ぶフェルディナントの声だ。
直前の彼女の悲鳴を聞きつけられたのだろうか。だとしても何故、彼が湖畔に?
ユングフラウから馬を飛ばしても小一時間はかかる、郊外の森の中だ。
人の往来がほとんどないことは、事前の調査で確認済み。
なのにどうして、と、動揺した一瞬の隙を衝かれた。
アシュタリゼは唖然としたゲイヴの頬を一発引っ叩くと、衝撃で揺らいだ体の下から素早く這い出し、逃走した。ああ、さすがは騎士の娘だ。ここぞというときの瞬発力と肝の据わり方は父親譲りか。だけど逃がすわけにはいかない。
アシュタリゼには、確実に消えてもらわなければ──
「リゼ……!!」
わたくしが彼女を追って剣を振り上げたのと、森にフェルディナントの絶叫が響き渡ったのが同時だった。
一拍ののち、寸分の躊躇もなく振り下ろした刃の先で血飛沫が上がる。
ゲイヴの剣が斬り裂いたのは、アシュタリゼをかばうように飛び込んできたフェルディナントだった。
わたくしの視界は、ゲイヴの目を通して真っ赤に染まった。
心臓ごと上半身を斬り下ろされたフェルディナントは、即死だったそうだ。
ゲイヴの肉体から意識を切り離す寸前、彼の耳が最後に捉えたのは、婚約者の亡骸を前にしたアシュタリゼの絶叫だった。
「ち……違う……違う……わたくしは、そんなつもりじゃ……っ」
そこから現実に起きたことを理解し、受け入れられるまで、長い長い月日がかかった。その間にフェルディナントは国葬され、皇太子暗殺の実行犯であるゲイヴは処刑され、アシュタリゼはユングフラウを去っていた。わたくしは、一〇〇年ものあいだ望んでやまなかった運命の相手を、自らの手で殺めてしまった。
こんなはずじゃなかった。こんなはずじゃ、なかったのに──
《ふう……哀れよな、魔女よ。あと一歩の処で、叶った筈の願いを取り零してしまうとは》
ユングフラウ宮殿に与えられた寝室で、ほとんど廃人のようになっていたわたくしに、釜の中の悪魔はそう語りかけた。
《我は只、少しばかり場を盛り上げようと、所謂〝虫の知らせ〟と云う奴を皇子に呉れてやっただけだったのだが》
──ああ、そうか。またこいつらか。
悪魔がわたくしからフェルディナントを奪った。あと少し。
あと少しで、一〇〇年の恋が成就するはずだったのに……!
「悪魔……おまえ、よくも……!!」
《まあ、待て。我等も此の結果には些か落胆している。折角もっと面白い物が見られると期待していたのに、此では余りに興醒めだ》
「なら、フェルディナントを甦らせてくれるとでも言うの……? こんな結末になったのは、おまえたちのせいでしょう!?」
《うむ……半分は、な。だがもう半分は汝の責であろう、魔女よ。彼処でさっさと令嬢の息の根を止めてさえいれば、皇子に邪魔される事もなかった。だのに何故、態々時間を掛けて甚振ろう等と?》
「それはっ……あの女に、思い知らせてやりたかったのよ。あんな野生児じみたがさつな女が、ほんの一瞬でもフェルディナントに愛されていたことが許せなかったの! だから、ただ殺すだけじゃ足りないと思って……っ」
《成程、妬心か。人間の考える事と云うのは分からんな。とはいえ、我の手出しが拙かった事も認めねばならん。故に詫びとして、一つ、予言を呉れてやろう──シャモワの山へ帰れ、魔女よ。然すれば汝にとって、願ってもいない客人が訪ねてくるであろう》
……確かにフェルディナントがいなくなった宮殿には、もう何も用はなかった。
よってわたくしは悪魔の予言に従い、シャモワ山脈の奥深く、そこへ構えた山小屋へ戻った。次の男を探しに行くような気分ではなかったし、当分は気ままな晴耕雨読の暮らしでもして、最愛の人を失った心の傷を癒やそうと思ったのだ。
ところが山に籠もってほどなく、彼女はやってきた。
アシュタリゼ・フォン・ホーエンベルク。
フェルディナントを甦らせる方法を探し、シャモワの魔女へ辿り着いた彼女が。




