我がまどろみは眠りにあらず(My slumbers are not sleep)
公務の合間のわずかな時間に休息を勧められた俺は、執務室と隣接する控室でソファ代わりのアルコーブベッドに腰かけ、ふーっと嘆息しながら天井を仰いだ。視界は相変わらずぼんやりしていて、頭痛がする。耐え難いほどの痛みというわけではないものの、公務に集中できない程度には不快で、日に日に気分が鬱いでいく。
「フェルディナント様……大丈夫ですか? やはりお顔の色が優れませんわ。今夜の晩餐会は欠席なされた方が……」
「いや……平気だ、アリマニカ。君こそ、わざわざ学院を早退してくるなんて、大丈夫なのか?」
「ご心配には及びませんわ。多少授業を欠席したところで、試験には影響ありませんから……それに、学院にいてもフェルディナント様のことが心配で、勉強がちっとも手につかないのですもの」
「ふ……そうか。すまないな。君には情けない姿ばかり見せて……」
「わたくしはどんなフェルディナント様でもお慕いしておりますと申し上げましたでしょ? さ、紅茶が入りましたわ。こちらで少しでもお疲れがやわらぐとよいのですけれど……」
「ああ、もらうよ。ありがとう」
人払いした控室には、学生服のアリマニカの他、彼女の侍女とイェルクがいるだけ。どうやら俺は今、相当ひどい顔色をしているらしく、次の会議までしばし休んだ方がいいと、秘書官たちに押し切られてしまった。
というのも、アシュタリゼが意識不明の重体だと聞かされたあの晩から五日──彼女が無事に意識を取り戻したという知らせはまだ届かない。
あれ以来、俺は夜毎悪夢に魘されるようになり、まともに眠れていなかった。
悪夢と言っても、以前から繰り返し見ている死の記憶ではない。
それよりもっと最悪な、アシュタリゼの死ぬ夢だ。
(ここしばらく、リゼと接触したループがなかったから、油断していた……彼女があんな目に遭ったのは俺のせいだ。今度という今度こそ彼女は助からないかもしれない……なのに俺は、リゼの心配よりも、自分のことばかり哀れんで──)
彼女と再会した、あの夜。
俺がもっと慎重に行動していれば、事故は防げたのではないか?
そんな思考が今もぐるぐると頭の中を掻き回していて、吐き気がする。
実際、降臨祭の舞踏会のときのように、過度な接触さえしなければアシュタリゼが不幸に見舞われないことは経験から分かっていた。
だのに俺は、アシュタリゼがゲイヴとふたりでいる姿を目撃し、動揺して──考え得る限り、最も無様で愚かな選択をした。あそこでもっと堂々と振る舞い、アシュタリゼの接近を拒めていたなら、未来は違っていたはずだ。
そもそも、これまで何年も本心を殺して俺に尽くしてくれたアシュタリゼを、一瞬でも「裏切り者」と恨んでしまった自分が許せない……許したくない。婚約破棄という形で最初に彼女を裏切ったのは、他でもない俺の方なのに。
(俺さえ……俺さえいなければ、リゼがこんな目に遭うことも、苦しむこともなかったんだ。俺さえいなければ……)
窓から差し込む西日がまぶしすぎて、掌で顔を覆いながら自己嫌悪に沈む。
けれど目を閉じれば、瞼の裏には夢で見たアシュタリゼの死に顔が──まるで俺が経験してきた死をなぞるように、何度も命を落とす彼女の姿が──甦って、もはや俺には安らぐ資格さえないのだという現実を、否が応にも突きつけられた。
「う……うぅ……すまない、リゼ……」
そうしていると俺はまた感情の制御を失い、無意識にうめきを漏らしている。アリマニカの淹れてくれた、甘い紅茶の香りがそうさせるのだろうか。彼女が故国から取り寄せたという稀少な茶葉は、精神の緊張や肉体の疲れをほどよくほぐしてくれる。だがおかげで気が緩むと、途端に抑えていた感情が溢れ出してしまう……。
「大丈夫ですわ、フェルディナント様。今度という今度こそ、きっとうまくいきますから、あまりご自分をお責めにならないで……」
「アリマニカ……」
「何があっても、フェルディナント様にはわたくしがついています。決して見放したりいたしませんわ。ですから、今はどうか気持ちを楽にして……少しだけお休みください」
言いながら隣に腰かけたアリマニカは、聖母のような優しさで俺を包み込んでくれた。そうして彼女に抱き締められていると、何故だかひどく安心する。
今や俺のすべてを理解し、受け入れてくれるのはアリマニカだけだ。
彼女まで失ってしまったら、俺はたぶん、もう二度と立ち上がれない……。
「アリマニカ……君は……君だけは、どこにも行かないでくれ。どうか俺の傍にいてくれ……」
「もちろんですわ。わたくしはこれからもフェルディナント様のお傍におります。あなた様を置いていったりいたしません」
「う、うぅ……アリマニカ……」
「愛しておりますわ、フェルディナント様。愛しております……」
まるで幼子をあやすようにそう言って、アリマニカは縋りつく俺の頭を何度も、何度も優しく撫でてくれた。その指先のぬくもりも、耳もとで響く彼女の声も、すべてが心地いい。このままずっと彼女の腕に抱かれていたい。
ああ……アリマニカ。俺も君を──
「──殿下。ご休憩中、失礼いたします」
ところが刹那、無粋なノックの音が響いて、俺の意識は現実に引き戻された。
どうしたのかと体をもたげれば、恐らく秘書官のものであろう声が、執務室側の扉の向こうから遠慮がちに聞こえてくる。
「お疲れのところ申し訳ございません。只今、騎士団長閣下がお見えに……お会いになられますか?」
「……団長が?」
「はい。殿下に至急、お伝えしたいことがあると……」
──ヘルマン・フォン・ホーエンベルク。
彼とは二日前の会談が物別れに終わって以来、顔を会わせていなかった。
ホーエンベルクは先のアシュタリゼの負傷事件について、帝国の分裂を狙うアウグシュタ人の陰謀ではないかと疑っている。
そして疑惑の矛先は当然、アシュタリゼから皇太子妃の座を奪い取る形となったアリマニカへ向けられた。しかし彼女がそんな悪意に満ちた女性でないことは、一〇〇ループものあいだ連れ添ってきた俺がよく知っている。ゆえに俺は彼女を擁護する立場を取り、あの一件で侯爵との対立は決定的になってしまった──のだが、その侯爵が先触れもなく、突然執務室を訪ねてきたということは……。
「分かった、今出る。少し待ってくれ」
と、俺は早口にそう答えると、残りの紅茶をひと息に飲み干し、立ち上がった。
次いで壁にかかった鏡の前に立てば、イェルクがすっと寄ってきて、頼まれてもいないのに衣服の乱れを整えてくれる。
「殿下、くれぐれも気をつけてください。団長はとにかく気が立ってますから、正直、何をしでかしてもおかしくありません」
「分かってる。俺が出たら、すぐにアリマニカを退避させてくれ。今は団長を彼女と会わせたくない」
「分かりました」
委細承知で頷くイェルクに感謝しながら、簡単な身繕いを終えた俺は、踵を返した。而して執務室へ戻り、席に着いて「通せ」と命じる。
現れた侯爵もまた、ずいぶんひどい顔だった。
もともと彫りの深い顔立ちをしているのに、両目はさらに落ちくぼみ、肌も血色を失っている。彼も愛娘の危篤に際し、ほとんど眠れていないのだろう。しかし一方で、眼窩の奥でこちらを睨む双眸だけが、ギラギラと獰猛さを増していた。
「団長……いや、ホーエンベルク侯爵。先日は」
「娘が目を覚ましました」
そこでまず、先の会談で開いた溝を埋めようと口を開いた俺の言葉を、侯爵が吼えるように遮った。本来皇族の発言を臣下が遮るなどあってはならないことだが、今はいい。というより、寸暇を惜しむように発された侯爵の報告が、俺の頭から慣習だとか無礼だとかいう思考の一切を追い出した。
おかげで気づいたときには限界まで目を見張り、俺は席から立ち上がっている。
「それは本当か、侯爵」
「ええ、無論です。殿下に向かってかような嘘を申し上げる理由がございません。つい先程、屋敷の者から知らせがあり──容態は思いのほか良好だそうです」
「そ……そうか……よかった……」
「ところで、イェルクはどちらに?」
ところが安堵を噛み締める暇もなく、突然イェルクを探して室内を見回し始めた侯爵に、俺は何ごとかと眉をひそめた。が、こちらが答えるよりも早く、
「私ならここにいますよ、団長」
と、先刻侯爵が入ってきたのと同じ正面扉からイェルクが入室してくる。
その瞬間、振り向いた侯爵の眉がみるみる吊り上がるのを俺は見た。かと思えば侯爵は大股でイェルクへ詰め寄り、にわかに彼の胸ぐらを掴んで怒鳴り出す。
「イェルク! 貴様、どういうつもりだ? 三時間も前にリゼが目を覚ました報告を受けておきながら、わしに知らせを寄越さんとは!」
「えっ? 何のことです?」
「とぼけるな! 貴様はとっくに知っておったのだろうが! おまけにそれを聞いたゲイヴが、職務を放り出して帰ったことも報告を怠りおって……!」
と、侯爵が口角泡を飛ばして喚き始めたのを見た周囲は色めき立ち、室外の見張りについていた騎士も飛び込んできた。彼らは慌てて侯爵を引き離そうと割って入り、宥めにかかったが、激昂した侯爵は聞く耳を持たない。
「やつの従騎士から聞いたぞ! 貴様がわしからの伝言と偽って、ゲイヴにリゼのことを知らせに来たと! 大方、やつを屋敷へけしかけたのも貴様だろう、え!?」
「落ち着いてください、団長。確かに兄さんには、団長の家から知らせがあったと伝えに行きましたが、てっきり団長のところにも別口で知らせが行っているものだと……違うんですか?」
「わしが知らせを受けたのは今さっきだ! だいたい、それならゲイヴのことは何故黙ってた!?」
「団長も知らせを聞いてお帰りになると思ったからですよ。となれば兄さんとは侯爵邸で鉢合わせるだろうし、無断欠勤の言い訳は本人にしてもらおうと思って」
「──待て、イェルク。おまえはリゼが目を覚ましたと知っていたのか……? なら団長はともかく、どうして俺にまで黙ってた?」
ふたりのやりとりから、侯爵が激怒している理由を理解した俺は、困惑の眼差しをイェルクへ向けた。
今にも食い殺しそうな形相の侯爵に掴みかかられているにもかかわらず、振り向いたイェルクは気味が悪いほど落ち着いていて、あくまで平常運転だ。
「申し訳ありません、殿下。団長の許可なく勝手にお伝えしていいものかどうか判断がつかなくて、兄に確認を取ってもらっていたんです。ただ、なかなか返事が来ないので言い出すに言い出せず……」
「ではゲイヴは? やつは何故知らせを寄越さなかったんだ? 団長が帰邸しない時点で、妙だと思うはずだろう?」
「さあ、分かりません。兄は私の馬を奪うほど大慌てで帰ってしまったので、話をちゃんと聞いてなかったのかも──」
「──ゲイヴめは現在、マヌエルが拘束しております。やつは当面、職務には復帰いたしません」
「……何? マヌエルだと? どういうことだ、侯爵」
どうしてここで遥か西の領地にいるはずのマヌエルの名が出てくるのかと、俺はますます混乱した。すると侯爵は激しい嘆息と共にイェルクを突き飛ばし、今にも暴れ出さんとする内なる獣を宥めるように首もとの襟巻を正しながら言う。
「……諸事情により、妻が息子を呼び寄せました。その息子がたまたま屋敷にいたので、職務放棄したゲイヴめを代わりに捕らえたとのことです。やつにはしばらくの間、謹慎を命じる予定でおります」
「そ、そうか……確かに、帝国騎士団の副団長ともあろう者が、私情のために職務を投げ出したのは問題だが……しかし、ゲイヴも婚約者を案じてのことだろう。今回は大目に見てやれ」
「……」
「……侯爵?」
「……殿下。ひとつだけお答えください。殿下は何故……娘にかような苦しみを強いられるのですか」
「……何?」
「あの子が殿下に何をしたのですか。娘が何か取り返しのつかぬ無礼を働いたのであれば、我が首をもっていくらでも償いましょう。ですからどうか、娘をこれ以上痛めつけないでいただきたい」
「こ……侯爵、何を言って──」
「娘は今も殿下を、心からお慕いしております。認めたくはありませんが、事実です。それがしも父親なら、それくらいのことは分かります。あなた様にどれほど傷つけられようと、リゼは……あの子は……っそれがしどもに心配をかけまいと、どんなに苦しくとも笑顔を絶やさずにいるあの子を、どうか許してやってください。後生です。このとおりです。どうか、どうか……」
言うが早いか、侯爵は突然がばりと膝をつき、額を床へ擦りつけた。
これには居合わせた全員がどよめき、俺も愕然と言葉を失う──彼は本当に、何を言っているんだ? アシュタリゼが今も俺を慕っている、だって?
だったらどうして、彼女はゲイヴと婚約を──
「ほ……ホーエンベルク侯爵、どうか頭を上げてくれ。あなたはひとつ、思い違いをしている。私は、アシュタリゼを──」
「──殿下。どうやら団長もひどくお疲れのご様子……この際ですから、しばらく休暇を取っていただいてはいかがでしょうか。兄も謹慎となると、団長・副団長共に不在となってしまいますが……」
刹那、侯爵の傍らに膝をつき、肩を支えながらそう言ったのはイェルクだった。
叩頭したままうずくまっている侯爵は、ぶるぶると震えたまま顔を上げない。
……確かに、この様子は尋常ではない。それは俺の選択がアシュタリゼだけでなく、恩師である侯爵をも苦しめている何よりの証左で──
「……分かった。ホーエンベルク侯爵、あなたに三日間の休暇を与えよう」
「殿下」
「陛下には私から話を通しておく。マヌエルも来ているのだろう。今は家族で、アシュタリゼの傍にいてやれ」
「殿下、それは……娘の罪をお許しくださるということでしょうか」
「アシュタリゼに罪などない。最初から……すべては、私の罪だ」
その言葉を絞り出すのは、痛みを吐き出すのに似ていた。
けれども、事実だ。
俺の弱さと愚かさがすべてを壊した。結論は変わらない。
たとえアシュタリゼが本当に、今も俺を想ってくれているのだとしても。
(俺の存在は、間違いなく君を不幸にする。だから、どうか俺のことは忘れて……幸せになってくれ、リゼ──)




