『シャモワの魔女』
──そのあとの顛末を簡潔にまとめると、こうだ。
まず、あれからほどなく屋敷を包んでいた狂乱は収束し、私はお母様から、
「今すぐ沐浴しなさい」
と、何故か入浴を強制された。今はそんなことしてる場合じゃないでしょとか、なんでこの状況で真っ先にすることがお風呂に入ることなのとか、言いたいことはたくさんあったのだけど、お母様は聞く耳を持ってくれなくて。
で、仕方なく、メイドたちがお湯を注いでくれた湯船に入り……そこでゾフィーから聞いた話によれば、ひとまずゲイヴはお兄様に、三人の従僕は他の使用人に取り押さえられたらしい。
そして四人は私が沐浴している間、お母様の尋問を受けることになったという。
「というか、そもそもなんでお兄様が帝都にいるの?」
と尋ねたところ、どうやらお兄様は、私がフェルディナントに婚約破棄された話を聞いて駆けつけてくれたらしかった。
知らせを出したのは言わずもがな、お母様だ。というのも実のところ、お母様は大地の月の降臨祭に合わせて社交のためにユングフラウへ来ていただけで、普段はお兄様とふたり、お父様不在のホーエンベルク領を切り盛りしている。
それが婚約破棄事件のせいで領地へ帰るわけにいかなくなり「もうしばらく帝都に滞在する」と、お兄様に手紙を書いていたのだとか。
ついでに私とゲイヴが婚約することになった経緯も書き綴り、
「あなたも一度帝都へ来て、リゼやゲイヴと話をしてやってちょうだい。特にゲイヴは、あなたにしか本音を話せないでしょうから」
と、お兄様をユングフラウへ呼びつけていたというから、まったく頭が上がらない。私を従僕たちの凶行から救い出してくれたときの手並みといい、普段の気配りや洞察力といい……我が母ながら、お父様が惚れ込むのにも納得だわ。
ビュロン帝国広しと言えど、お母様ほどの器量と度胸を兼ね備えた貴婦人はそうそういないだろう。
「それで、お母様。さっきの件、ゲイヴはなんて……?」
ほどなく、沐浴を終え、寝室へ戻った私がゾフィーに髪を乾かしてもらっていると、お母様がひとりで訪ねてきた。お兄様は現在、屋敷の一階でゲイヴを監視しているようだ。三人の従僕たちも同様に、地下の倉庫へ放り込んであるとのこと。四人はお母様の許しがあるまで、決して外には出られないようにしてあるという。
「ふう……それなのだけどね、リゼ。どうやらゲイヴも従僕たちも、あなたを襲ったときの記憶が曖昧らしいの。確かに〝襲った〟という事実は認識しているようなのだけど、自分たちが何故そんな真似をしたのか説明ができないと言っているわ」
「えっ……せ、説明ができないって、どういうこと?」
「つまり、本人たちにもよく分かっていないということよ。ゲイヴ曰く〝気づいたら襲っていた〟ということらしいわ。寝台で眠っているあなたを見たら、突然自分を抑えられなくなって……とも言っていたわね」
「な、何、それ……でも、ゲイヴはそんなこと、今まで一度も……」
「……。ちなみにリゼ、あなた、さっきまで香水をつけていたわね」
「え? 香水? あ、うん、つけてたけど……」
「その香水は、今どこに?」
「えっと、確か、使ったあと枕もとに……片づける前に眠っちゃったから──」
と寝台を振り返ったところで、私は目を丸くした。何故なら香水の瓶が、ない。
さっきのゲイヴとお兄様の乱闘が原因で、どこかへ転がってしまったのかしらとあたりをぐるりと見回してみるも、それらしきものは見当たらない。
「あれ……? ねえ、ゾフィー、あなたは見てないかしら? もしかして代わりに片づけてくれてたりとか……」
と、そこで背後にいるゾフィーに尋ねたところで、ある異変に気がついた。
濡れた髪をタオルで叩いてくれていた彼女の手が、ぴたりと止まっている。
まるで気配を殺すみたいに。
「……いいえ、お嬢様。生憎、存じ上げませんわ」
「えぇ……? じゃあ、どこ行っちゃったんだろ。せっかくあなたが譲ってくれたのに……」
「……あら。普段屋敷では香水なんてつけないあなたが珍しいと思ったら、そういうこと。おまえがアレを娘に勧めたのね、ゾフィー?」
「はい、奥様。五日もお眠りになったあとで、お嬢様が混乱なさっているご様子でしたので、少しでも気分が落ち着けばと……」
「では、おまえはその香水をどこで手に入れたのかしら?」
「街の香水店でございます」
「店名は?」
「確か……『ブルーム』という名の店だったかと」
「では、おまえが買った香水の品名は?」
「……申し訳ございません、奥様。さすがに品名までは覚えておりませんわ。店舗へ行って、実物を見ればお答えできると思いますが」
「そう。ならば今すぐ店へ行きましょう。馬車を用意させるわ」
「ちょ、ちょっと待って、お母様! 今は香水なんてどうでもいいでしょ? それより、ゲイヴたちの話を──」
「いいえ。ちっともどうでもよくはないのよ、リゼ。何故ならゲイヴたちをあのような愚行へ走らせたのは、その香水である可能性が高いのだから」
「……え?」
「『魔女の香水』……いわゆる、惚れ薬というやつよ。香りを嗅いだ者はたちどころに理性を失い、分別もなく異性を襲うけだものとなる。特に香りをまとった者への好意が強ければ強いほど、自制が効かなくなると聞くわ」
「ほ……惚れ、薬……? で、でも、お兄様は」
「マヌエルはあなたの兄だもの。いくら惚れ薬が強力だといっても、肉親までけだものに変えてしまうほどの効力はないのでしょう。香水が効果を発揮するのは、恐らくあなたを異性として意識している相手だけ……」
「じ……じゃあ、ゲイヴも、使用人も、あの香水のにおいを嗅いだから……? だ、だけど、そんなものが」
「ありえるのよ。あなたも聞いたことくらいあるでしょう──〝シャモワの魔女〟の伝説を」
瞬間、広げた扇の向こうからお母様が告げた名に、心臓がドクンと跳ねた。
〝シャモワの魔女〟。もちろん、その伝説は私もよく知っている。
悪魔と契約し、永遠の命と魔法の力を得たという魔女。彼女は教会に追われてシャモワ山脈の奥地へ逃げ込み、今もそこでひっそりと暮らしているという……。
ビュロン帝国とアウグシュタ王国、そしてベルシュ王国の三国に跨がる広大な山岳地帯。それがシャモワ山脈だ。私が生まれ育ったホーエンベルク領もかの地にほど近く、幼い頃にはよく大人たちが、
「言うことを聞けない悪い子は、シャモワの魔女に攫われて、悪魔の贄にされるからね!」
と子どもたちを叱る様子を見聞きした。
もちろん、そんな魔女が実在するだなんて、誰も本当には信じていない。
大昔から山脈の周辺地域にのみ伝わる、ありふれた民間伝承。
少なくともループが始まるまでは、私もそう思っていた。だけど終わりの見えない時間の迷路をさまよううち、魔法の力で何でも願いを叶えられるというシャモワの魔女なら、この現象も止められるんじゃないかと考えるようになって……。
(確か、四〇ループか五〇ループ……そのあたりから一時期、魔女の伝説について徹底的に調べたのよね。実際に山にも入って、何ループもかけて魔女を探した。お兄様に頼んで、赫鷲騎士団を動員してもらったこともあったっけ……でも、結局魔女は見つからなかった。だから私も、魔女なんてやっぱりただの子ども騙しだと、捜索を諦めたのだけど──)
だのにお母様の言葉は確信に満ちていて、まるで魔女が実在すると知っているみたい。今の今まで、お母様の口から魔女の話題が出たことなんて、一度もなかったはずだけど……。
「お、お母様……お母様はどうしてそんなことを知ってるの?」
「……この間、劇場で話したでしょう。お父様が昔、お隣のアイルツ領の姫君に鼻の下を伸ばしていたことがあったと」
「え? あ、ああ、うん……そういえばそんな話、してたっけ」
「当時、アイルツ領の姫君に夢中になっていたのはお父様だけではなくてね。周囲の男たちはみんな姫君の虜になっていたのよ。こう言っては何だけれど──大して美しくも賢くもない、アイルツ伯爵のご令嬢にね」
「そ、それって、まさか……!」
「ええ。今ではたちの悪いデマということにされているけれど、件の伯爵令嬢は当時『魔女の香水』を使っていたという噂が広まったの。そして噂が伯爵家の耳にも届いた途端、騒ぎは不思議なほどぴたりと止んで……熱に浮かされたようになっていたお父様も、あとでわたくしに土下座しながら〝自分でも何故あの令嬢に夢中になっていたのか分からない〟とベソをかいていたわ」
「お、お父様……だ、だけどその状況って、まるでさっきの一件と同じ……」
「ええ。ですからすぐにピンと来たのよ。香水嫌いのあなたが、あんな甘い香りを身にまとっているなんておかしいと思ってね」
何でもないことみたいに言いながら、お母様は開いた扇でパタパタと自分を扇ぎ始めた。が、私はそのあまりの機転に、またしても唖然としてしまう。
昔からお母様だけは絶対に敵に回してはいけないと思ってたけど……これは改めて肝に銘じておくべきね。けれどもし『魔女の香水』なんてものが実在するなら、シャモワの魔女の伝承も、ただの言い伝えなんかじゃないってこと?
いいえ、そもそも──どうしてゾフィーは、そんな香水を私に勧めたの?
「……ねえ、ゾフィー。あなた、さっき、最近巷で流行りのものだと言って、あの香水を譲ってくれたわよね?」
「……」
「あれって本当なの? だとしたら、似たような騒ぎがユングフラウのあちこちで起こってそうだけど」
「さあ……そうとも限らないのではないでしょうか。わたくしが香水店で購入したものだけが、たまたま『魔女の香水』に掏り替えられていた可能性も……」
「掏り替えたって、誰が何のために? 魔女がハズレの香水を引いたお客の末路を楽しむために、お店に罠を張ってたとでも?」
「いえ、あるいは店主が仕組んだのかもしれません。わたくしが侯爵家に仕える者だと知っていて、ビュロンの政治的混乱をより深めるために……」
「けど、香水を買ったのはあなたよね? 仮に店主が犯人なら、目的はあなたを襲わせることだったということになるわ。だいたい、あなたも同じ香水を使っていたんでしょう? そのわりには、今日まで何もなかったみたいだけど……」
「いいえ、お嬢様。わたくしは最初から、あちらの香水をお嬢様にもお譲りするつもりで、ふたつ用意していたのです。わたくしが使っていたのは、別の小瓶に入ったものですわ」
「じゃあ、あなたの小瓶を今すぐ持ってきてくれる? あなたが私にくれたものと本当に別物なのかどうか、確認したいわ」
「かしこまりました。少々お待ちください」
ゾフィーは落ち着いた声色でそう言うや、そっと私の傍を離れた。
そうしてコツコツと靴を鳴らし、まっすぐ扉へ向かう彼女を、お母様が「待ちなさい」と呼び止める。
「わたくしも一緒に行くわ、ゾフィー。ついでに馬車を用意させるから、例の香水店の場所を詳しく教えてちょうだい」
「いいえ、奥様。でしたら馬車の手配もわたくしが……」
「いいのよ。わたくしも早く問題の香水を確認したいの。リゼ、あなたはここで待っていなさい。ひとりでは不安でしょうから、すぐにわたくしの侍女を──」
と椅子から立ち上がったお母様が振り向いて、私にそう声をかけたときだった。
私たちの目線が離れた一瞬の隙に、ゾフィーが脱兎のごとき身のこなしで、突然部屋から飛び出していく。
「えっ……!? ぞ、ゾフィー、待っ──」
と私が制止する暇もなかった。気づいたお母様が血相を変え、すぐさまゾフィーを追ったけれど、次の瞬間、廊下から大きな物音とメイドの悲鳴が聞こえてくる。
途端にぞっとした私もまた、足をもつれさせながら廊下へと飛び出した。
物音の聞こえた方角へ目をやれば、階段脇の手摺から身を乗り出したお母様が、苦々しい顔で吹き抜けを覗き込んでいる。
「お、お母様!? ゾフィーは……!?」
壁に手をついて体を支えつつ、私は焦ってそう尋ねた。
するとお母様はゆっくりこちらへ向き直り、首を振る。
「……飛び降りたわ。頭を打ったみたい」
「そ……そんな……!」
「すぐに医者を呼びます。あなたは部屋に戻っていなさい」
お母様は最後まで冷静にそう言うと、足早に階段を下りていった。
そういえば、私を診に来る予定だった医者が今も応接間で待機しているはず。
だったらゾフィーもきっと助かる──助かる、わよね?
(ほんとに、なんで、こんなことに……)
まったくわけが分からないまま、私はまたしても廊下へへたり込んだ。一〇〇回も同じ時間を繰り返してきて、これほどの惨事に直面したのは初めてだ。
だけど問い詰められて逃げたということは、やっぱりあの香水は、ゾフィーが意図的に用意したものだってこと……?
(そんなものを、どうして私に……? まさか最初から、ゲイヴに襲わせるつもりで……?)
信じられない。信じたくない。
ひたすらにそう念じながら、私は震え出した体を自らの手で抱き締めた。
ゲイヴもゾフィーも、今日まで家族同然に思ってきたのに。
なのに、どうして──
(ほんとに、もう嫌……助けて……フェルディ──)




