マイ・リトル・ルビー
「──そこまで!」
と、審判役が叫ぶのと、ゲイヴの振るった訓練用の模擬剣に打ち飛ばされた騎士が、背中から地面に倒れ込むのが同時だった。
受け身が間に合わず、頭から地面に叩きつけられたためだろう。
騎士は仰向けに転がったきり目を回し、起き上がる気配もない。
「……次。他に指南を希望する者は?」
気絶した騎士がひとり、仲間に引きずられて場外へ運び出されていくのを横目に見ながら、ゲイヴは顎を伝う汗を拭って他の騎士たちを見回した。が、初めのうちは副団長直々の稽古だと沸いていた騎士たちも、十人もの同輩が容赦なくのされたあとともなると、すっかり火の消えたようになって互いに顔色を窺っている。
「……どうした。これで終わりか?」
「え、えっと……副団長。既に結構な数の騎士を相手にしていただきましたし、そろそろ一度お休みになられては?」
「いや、まだ余力はある。俺に遠慮する必要は──」
「い、いえ、ですがこのところ、団長がいつ暴れ出してもおかしくない空気が続いてますし……! あの方を止められるのは副団長だけですから、いざというときに備えて、体力は温存しておいていただかないと……」
「……そうか。では、本日の稽古はここまでとする。各々、引き続き鍛練に励むように」
「は、はっ! ご指導、ありがとうございました!」
樹木の月の十四日、午後。ユングフラウ宮殿のはずれにある帝国騎士団の練兵場で、どこまでも冷徹な上官の剣捌きを目の当たりにした騎士たちは、震え上がりながら敬礼した。そうして直立する彼らの間を、ゲイヴは黙然と通りすぎる。慌てて駆け寄ってきた従騎士を引き連れ、瞳には未だ炯々と鬼気を燃やしたまま。
「お、おっかね~……めちゃくちゃ荒れてんなあ、副団長……」
「しょうがないだろ。最近宮廷内は例の噂で持ちきりだし、その上、婚約したてのお嬢様がもう五日も意識不明だっていうんだから……」
「だけどちょっと意外だよな。あの副団長が、婚約者の危篤であそこまで豹変するなんて……」
「ああ。女っ気の〝お〟の字もなかった副団長が、何年も前から殿下の婚約者に手を出してたなんてありえないだろと思ってたが、案外、もしかするともしかするのかも……?」
などという流言飛語がひそひそと飛び交う練兵場をあとにしたゲイヴは、併設された厩へと足を運ぶ。そこで一度団服を脱ぎ、井戸の傍で体を清めていると、不意に背後から「兄さん」と声がかかった。イェルクだ。
「……イェルク? おまえ、こんなところで何をしてる?」
「兄さんを探してたんだよ。団長から伝言を頼まれて……」
「団長から?」
「ああ。何でもさっき、侯爵邸から知らせがあったらしいんだ──アシュタリゼお嬢様が、無事に目を覚ましたってさ」
言いながら馬を下りた弟の言葉を聞いた途端、ゲイヴは手にしていた水桶を思わず取り落とした。当然、足もとには水がぶちまけられ、慌てた従騎士が桶を拾い上げていたが、その間にもゲイヴは、涼しい顔で佇むイェルクへ詰め寄っていく。
「本当か? それで、リゼの──お嬢様の容態は?」
「詳しいことはまだ分からないけど、意識ははっきりしてるし、会話にも支障ないらしいよ。ただまあ、石で頭を殴られたようなものだから、当面は絶対安静だろうね」
「そう、か……そうか……よかった……」
「……。兄さん、劇場での一件以来、ほんとに隠さなくなったよね」
「……? 隠すって、何をだ?」
「アシュタリゼお嬢様への気持ちだよ。ずっと好きだったんでしょ? お嬢様のこと」
と、まるで夕飯の献立でも確認するようにさらりと弟が言うものだから、ゲイヴは数瞬、固まった。それは話を立ち聞きする形となった従騎士たちも同じで、全員が全員、雷に打たれたかのごとく目を見張って硬直している。
「い……イェルク、誤解を招くような発言は──」
「いや、誤解っていうか事実でしょ。まさか本気で僕の目を欺けるとでも?」
「あ、欺くも何も、お嬢様のことは、今も昔もマヌエル様のご令妹として……」
「はいはい、そういう御託はいいから。お嬢様とは晴れて婚約関係を結んだわけだし、今さら隠す必要もないでしょ。ていうか逆に隠す方が怪しいよね。そんなんじゃ浮いた話がなさすぎて〝実は男好きなんじゃ?〟なんて囁かれてた噂が、ますます真実味を帯びちゃうよ?」
と、さも「やれやれ」と言いたげに肩を竦められ、ゲイヴはぐっと言葉に詰まった。この口達者な弟には、幼い頃から一度だって口論で勝てた試しがない。
(くっ……イェルクには薄々勘づかれていそうだとは思っていたが、他の者がいる前で言及されるとは……)
イェルクには昔から才気走ったところがある。とはいえ公私の分別は弁えているし、細かいことによく気がつく分、臨機応変な気遣いができる自慢の弟だと思っていた。だのにこんな辱しめを受けようとはと内心歯噛みしつつ、ゲイヴは従騎士たちに向かって右手を振る。しばらくはずしてくれ、の合図だ。
彼らはこくこく頷くと、雷に打たれた顔のまま、そろそろと退散していった。
(……しかし妙だな。それこそ劇場の一件以来、イェルクは、俺とはまともに口をきこうともしなかったのに)
ホーエンベルク一家と共に、歌劇を鑑賞した星の日の夜。帝立劇場でフェルディナントと思わぬ邂逅をしたアシュタリゼは取り乱し、彼を追いかけて突き飛ばされるという憂き目に遭った。あのとき、フェルディナントに謝罪を求めたゲイヴの邪魔をしたのがこの弟だ。あれ以来、イェルクはフェルディナントの言動を批難するゲイヴを煙たがり、屋敷では食事も共に取らなくなった。
ということは今の発言も、ひょっとすると、仲違いした兄への当てこすりだったのだろうか。イェルクが子どもの頃から苦楽を共にしたフェルディナントと、ひとかたならぬ友情で結ばれていることは知っている。
されどイリッヒ家の真の主は、赫鷲のホーエンベルクだ。
そのことを弟にはもう一度、よくよく言い含めておかなければ──
「……イェルク。この間、頭ごなしに怒鳴りつけた件は悪かった。だが、気づいていたなら分かるだろう。俺が何故、殿下のお振る舞いを黙認できないのか」
「……」
「おまえは、殿下のお心は今もお嬢様のもとにあると言ってたが……劇場でのご様子や、先の会合での言動を見る限り、俺にはそうは思えない。だから団長の許しが出たら、俺はお嬢様を連れて領地へ帰るつもりだ。副団長の地位は他の者に譲ることになるだろう。そうなったとき、おまえはどうする?」
「どうって……どうもしないよ。兄さんが一緒に来いと言うなら従うし、帝都に留まれと言うならそうする」
「本当に?」
「ひどいな。僕を疑うの?」
「少なくとも今のおまえは、殿下よりもホーエンベルクを取るとは思えないな」
「そりゃ、僕は殿下の専属護衛官だもの。帝都にいる間は、殿下第一になるのは仕方ないだろ?」
「なら俺が、ただちに役職を辞して先に領地へ戻れと言ったなら、大人しく従うのか?」
「それは……殿下の許可次第かな。殿下が許してくださるなら、従うよ」
「じゃあ、俺が今から殿下に掛け合ってこよう。イリッヒ家の分断を防ぐために、弟を職務から解放してやってくれとな」
「兄さん」
「何だ?」
「そんな話はあとにしようよ。それより、団長からの伝言には続きがあって……」
(──そんな話、だと?)
刹那、半分脱いでいた団服を着直し、踵を返そうとしたゲイヴは、イェルクの口から発せられたひと言に足を止めた──やはり、おかしい。
ゲイヴのよく知るイェルク・フォン・イリッヒという弟は、こんな曖昧でちぐはぐな態度をよしとする男ではない。彼は確かに人当たりもよく柔軟だが、納得のいかないことに対しては徹底的に抗議し、自らの信念を曲げるようなことはしない。
何故なら、父やゲイヴがそう育てたからだ。
そのイェルクが、昨夜までの険悪な態度を翻し、さらには「兄に従う」とまで言いながら、肝心なところで話を誤魔化した。いつものイェルクならフェルディナントを擁護しつつ、ゲイヴの極端な意見を諫めようとするはずのところを、だ。
これはもはや、自分の知る弟ではない。
ここ数日、どうも様子が変だとは思っていたが──
「イェルク、おまえ」
「ストップ。悪いけど、僕も暇じゃないんだ。話があるなら夜に聞くよ。あまり長く離席してると、殿下に勘繰られそうだし」
「……分かった。なら、今夜の食事の席には顔を出せ。これ以上逃げ回るな」
「はいはい、兄さんがそう言うなら従いますよ。で、伝言の続きだけど、兄さん、今日はもう上がっていいってさ」
「何?」
「陛下の午後のご予定が急遽変更になった影響で、団長はしばらく手が離せないらしいんだ。だから代わりに兄さんに、お嬢様の様子を見に帰ってほしいって」
「な……それを早く言え!」
「言おうとしてたよ。なのに兄さんが──って、うわ!? ちょっと兄さん、それ、僕の馬!」
と、イェルクが呼び止める声も聞かず、ゲイヴは彼が乗ってきた青鹿毛の背に飛び乗ると、すぐさま腹にひと蹴り入れて駆け出した。
アシュタリゼ。もう五日も声を聞いていない。
本当は彼女が目を覚ますまで、片時だって傍を離れたくなかった。
幼い頃からずっと、ずっと見守り続けてきた小さな宝石。
不器用で愛想がない、と、昔から周りに謗られてきた自分に、アシュタリゼはいつだって無邪気な笑顔を振り撒いてくれた。怖がらず頼ってくれた。伯爵家の長男として──ホーエンベルクの懐刀として、父を超える男にならねばと常に気を張っていたゲイヴにとって、アシュタリゼの笑顔は何よりもまぶしい癒やしだった。
あの輝きを守るためなら、何だってする。彼女が望む幸せを、彼女の傍で守り続ける。それだけがゲイヴの望みだったのだ。
だが、今、アシュタリゼは想像を絶する孤独の中にいる。
信じていたフェルディナントには裏切られ、ループという名の地獄につながれて、誇りも、希望も、未来さえも踏み躙られている……。
その事実を知っているのはホーエンベルク夫妻と自分だけだ。
これ以上、彼女をひとりで泣かせたくない。
許される限り傍にいたい。それで彼女が笑ってくれるのなら。
「──まあ、ゲイヴ様。お早いご到着ですわね」
ユングフラウ宮殿からイェルクの馬を走らせ、ほどなくホーエンベルク邸へ辿り着くと、真っ先に迎えてくれたのはアシュタリゼの侍女のゾフィーだった。
ここまで一心不乱に馳せてきたせいで髪は乱れ、息も弾んでいたが、ゲイヴは構わず、急き込んで言う。
「ゾフィー。リゼ──いや、アシュタリゼお嬢様は」
「今はお部屋で安静にしていただいております。往診にいらっしゃる予定のお医者様も、教会へ行かれた奥様も、ご到着までもうしばらくかかるようで……」
「ではふたりが来るまで、俺がお嬢様に付き添っても?」
「ええ、もちろんですわ。お嬢様もゲイヴ様にお会いしたがっていましたから、早くお顔を見せて差し上げてください」
──会いたがっていた? リゼが? 自分に?
そう聞かされた途端、ゲイヴは体の芯がカッと熱を持ったような気がして、たおやかに微笑むゾフィーから目を逸らした。……分かっている。社交辞令だ。ゾフィーだって子爵家の令嬢なのだから、その程度の気はきかせるに決まっている。
だが、分かっていても期待してしまう。二階へ続く階段を一歩上がるたび、アシュタリゼがたとえ一點でも、自分を恋しがってくれていたのではないかと……。
「──リゼ、俺だ」
やがて彼女の寝室の前へ辿り着くと、ゲイヴは逸る気持ちを抑えるために咳払いし、ひと呼吸置いてから扉をノックした。
……が、返事がない。先程のゾフィーの口振りでは意識が戻って、医者やホーエンベルク夫人の到着を待っている風だったのだが。
「……リゼ? すまない、入るぞ」
そこで一抹の不安を覚えたゲイヴは、アシュタリゼの様子を確かめるべくドアノブを掴んだ。次いでそろりと扉を開けたのち、奥の寝台に彼女の姿があるのを認める。……眠っているのだろうか。アシュタリゼは寝台の上に身を横たえたまま、ゲイヴの呼びかけにも、扉が開く音にも反応する気配がなかった。
(まさか、また容態が急変したなんてことは……)
と、それを見てさらに不安を募らせたゲイヴは、急いで寝台へと歩み寄る。
何しろここ数日、アシュタリゼはひどい高熱に魘され、いつ命を落としてもおかしくない状況だった。ゆえに、すう、すう、と寝息を立てる彼女の姿を確認しても安心できず、額に手を伸ばそうとしたところで、
「……っ!?」
瞬間、ぐらり、と意識が揺れるほどの芳香が嗅覚を刺激した。
思わず鼻を覆ってしまうくらい強烈な、甘いにおい。まるで煮詰めた砂糖に蜂蜜を混ぜ、さらに濃縮した花の蜜でも垂らしたかのような……。
(なん、だ、このにおい、は──)
呼吸するたび、鼻腔から脳を蝕まれる感覚。
たちまちにして視界は歪み、両の足からも床を踏み締めている感触が消失した。
そうしてゲイヴを支配した奇妙な浮遊感は、やがて彼の自我をも冒し──




