1/100のイレギュラー②
つう、と、何かが頬を伝う感覚で目が覚めた。
うっすらと開いた瞼の向こうから、午後の光が差し込んでくる──まぶしい。
そう思ってぎゅっと目を瞑り直した直後、すぐ傍でちょろちょろと水の滴る音がした。何だろうと思い、ゆるりと首を傾ければ、侍女のゾフィーがサイドテーブルに置かれた盥の上で布巾を絞っているのが見える。
「……ゾフィー……?」
と、それを見た私が掠れた声を上げれば、はっとしたゾフィーがたちまち布巾を取り落とした。
彼女は薄目を開けた私を見るなり、動転した様子で寝台へと駆け寄ってくる。
「ああ、お嬢様、ようやくお目覚めに……! 本当に心配いたしました……お加減はいかがですか?」
いつも冷静沈着なゾフィーがこんなに慌てるなんて珍しい、と思いながら、私は額に手を当てて考えた。
……そういえば私って、いつ部屋へ帰ってきたんだっけ?
(確か、アリマニカと会うために劇場へ出かけて……サロンで彼女を待ってたら、フェルディが現れて……それから……それから──)
と、思考を覆う靄の中からどうにか記憶を手繰り寄せた直後、私はようやく真の意味で覚醒した。と同時にがばりと飛び起きれば、頭に刺すような痛みが走る。
あまりの激痛に思わず「痛っ……!」と叫んでうずくまれば、狼狽したゾフィーが横から肩を支えてくれた。
「いけません、お嬢様! 今はまだ安静になさいませんと……!」
「う、痛ぅっ……ゾフィー……ゴホッ……私、どうして……」
「覚えていらっしゃらないのも無理はございません。お嬢様は帝立劇場へお出かけになられた帰り、落下した石像の破片の直撃を受けられたのでございます」
「石像……?」
「はい。劇場エントランスの上部に飾られている、天使の像です。幸い、結われていたお髪がクッションとなったのか、出血こそなかったものの……もう五日もお眠りになっていらしたんですよ」
「い……五日……!?」
「ええ……とにかく、まずは横になられてくださいまし。只今、お水をご用意させていただきます」
言うが早いか、ゾフィーは私の体をゆっくり寝台へ横たえると、すぐに飲み水を用意してくれた。それをスプーンで少しずつ、慎重に口へ運んでくれる。
おかげでほとんど声が出ないほど乾き切っていた口の中が徐々に潤い、意識も次第にはっきりしてきた。だけどまさか、あれから五日も眠っていたなんて……どうりで体中が痛いと思った。
「もう間もなく、お医者様が往診にいらっしゃる時間です。それまでどうか安静にお過ごしください」
「ええ、ありがとう、ゾフィー……にしても、とんだ災難ね。まさかたまたま落ちてきた破片の直撃を受けるなんて……」
「まったくです。当日は旦那様も奥様も大層取り乱されて……旦那様などは、お嬢様がお目覚めになるまで宮殿へは出仕しないなどと駄々をこねられて、即刻奥様に叩き出されておりました」
「あっはは、さすがはお母様。じゃあ、お父様やゲイヴは、今は宮殿に?」
「はい。騎士団のお勤めに出ておられます。ですがこのあとすぐ、知らせを出しますので……」
「なら、お母様は?」
「奥様は、お嬢様のご無事のお目覚めを祈願されるため、教会へお出かけになられました。お医者様の往診までには戻るとのお話でしたので、そろそろお帰りになられるかと」
「そう……みんなには心配かけちゃったわね。ちなみに私が事故に遭った話って、やっぱり宮殿にも知らせが行った感じ?」
「ええ、もちろんですわ。当初は事故ではない可能性も取り沙汰されておりましたから……」
「え? 事故じゃない……可能性?」
「はい。その……大変申し上げにくいのですが、昨今、巷で騒がれている皇太子殿下とお嬢様の婚約解消について……〝ホーエンベルクの報復を恐れた皇家が牽制のため、事故に見せかけて警告しようとしたのではないか〟と言う者がありましたので……」
「な……何ですって?」
と、思わず大声を上げてしまってから、私はまたゴホゴホと咳き込んだ。
それを見たゾフィーが慌てて背中を擦ってくれたけど、今はこんなことで息切れなんかしてる場合じゃない。そんな噂まで噴出するなんて、私が眠っている間に、一体何が起きたっていうの?
「ゾフィー、その噂……当然、皇家は否定したのよね?」
「え、ええ。石像の落下が人為的なものだった、という証拠も見つからなかったそうですし……」
「それに対して、お父様はなんて?」
「旦那様も、当初は慎重に対応を見定めておいででした。お嬢様の件があるとはいえ、明確な証拠もなしに皇家を批難するわけには参りませんでしたから……ただ、必要以上に噂が大きくなることを恐れて、一度皇太子殿下と話し合いの席を設けられたそうなのですが……」
「お父様とフェルディが……? で、どうなったの?」
「いえ、それが……わたくしも詳しくは存じ上げないのですが、その席で〝事件も噂も、すべては帝国の分裂と弱体化を狙う第三者の手によるものではないか〟という可能性が示唆されたそうです。そこからお話がこじれたとかで……というのも、昨今の状況から考えて、その〝第三者〟とはアウグシュタ王国ではないか、と考えるのが自然ですから」
「……! じ、じゃあ、まさか……!」
「ええ……そのお話が、皇太子殿下のご不興を買ったようでして。話し合いの席にはアリマニカ王女も同席されていたものですから、殿下は〝王女の名誉を著しく傷つける暴論だ〟とお怒りになられて……」
「……っ」
「そこで王女への謝罪を求められた旦那様が、拒んで退席されてしまい、物別れになった……ということの次第のようです。以来旦那様からは、いつでも領地へ発てるよう、支度をしておくようにとのお達しが……」
「そ、そんな……たった五日でそこまで状況が悪化したなんて……」
「……皇太子殿下は、お嬢様とゲイヴ様の婚約についてもご不満なようだったと伺っております。ですので余計に語気が荒くなってしまわれたのかと……」
「ゲイヴとの婚約が……? じゃあ、こうなったのって──もしかしなくても、私のせい……?」
「あ……い、いえ、お嬢様、今のは断じて、そのようなつもりで申し上げたわけでは……!」
と、ゾフィーはうろたえていたけれど、彼女の言葉はもう、私の耳に届かなかった。
(私が、フェルディを挑発してやろうなんて考えたから……事故になんて遭ったから……? 全部、全部、私のせい……? このままじゃ、たとえ今回でループが終わったって──)
修復不可能なまでに悪化したホーエンベルクと皇家の関係。
これを放置したままループを終わらせたりしたら、どうなってしまうんだろう。
考えたくはないけれど、最悪の場合、皇家が本気でホーエンベルクを潰しにかかってくる可能性だってゼロじゃない。
そうなったら、事態は内乱にまで発展してしまうんじゃ?
ホーエンベルクは反逆者の汚名を着せられて、名誉のために戦おうにも、ビュロン帝国とアウグシュタ王国の挟み撃ちに遭って……。
(ダメ、ダメよ……そんな未来、私は望んでない! 私はただ、一日も早くこのループから抜け出したいだけ……だからフェルディを説得するために計画を進めてたのに、これじゃアリマニカを味方につけたところで──)
『──触れるな!』
刹那、私の思考を切り裂いたのは、五日前、劇場で聞いたフェルディナントの怒声。まるで汚らわしいものでも見るような眼差し。
……そう。そうよね。フェルディナントが愛してるのは、私じゃなくてアリマニカ。だからお父様との話し合いの席でも、死にかけている私への心配や配慮より、彼女をかばうことを優先したのよね?
なら、まだチャンスはある? 私がアリマニカを通じて「和解したい」と申し出たなら、ちゃんと話を聞いてくれる?
気に食わないなら、ゲイヴとも別れるから。
私はこの先一生、ひとりで生きていくから。もう二度と、あなたとアリマニカの仲を邪魔したりしないから。だから、だから──
「お嬢様」
──ダメよ。気をしっかり持たなくちゃ。
そう叱る理性とは裏腹に、ぐちゃぐちゃに絡まり合った感情は大粒の涙となって、次から次へ溢れ出した。
そんな自分が情けなくて、誰にも見られたくなくて、必死に両腕で顔を覆う。
けれども涙は易々と腕の間を擦り抜けて、枕を濡らした──もういやだ。
(私……疲れた。もう疲れたよ、フェルディ……)
せめて最後に、あなたを救う役目くらいは果たしたかった。
あなたが『氷血皇子』の仮面を被って、何度も守ってくれたみたいに、私もあなたを守りたかった。でも、もうダメかも。一〇〇回も試して無理だったのよ。
ならこれ以上、私にできることなんて──
「お嬢様、どうかお気を確かに。大丈夫です。皇太子殿下もきっと、突然のことにうろたえていらっしゃるだけで……ときが経てば、必ずや祝福してくださいます。お嬢様とゲイヴ様の門出を」
ところが半分顔を隠したまま、私が嗚咽を零していると、ゾフィーが気遣わしげにそう言った。どうも彼女は、先程の失言が原因で私を泣かせてしまったと思ったらしい。途端にほんのり濡れた布巾が頬に触れて、ゾフィーが懸命に涙を拭ってくれているのだと分かった。
……そうだわ。いつまでもめそめそなんてしていられない。しっかりしなきゃ。
「ごめんなさい、ゾフィー……でもあなたのせいじゃないの。ただ、ホーエンベルクはこれからどうなっちゃうんだろうって、ちょっと不安になっただけよ」
「そう、ですか。ですが、そちらもご心配には及びませんよ。お嬢様とゲイヴ様がご成婚なされれば、ホーエンベルクが誇る赫鷲騎士団の結束はますます強固なものとなりましょう。さすれば皇家も簡単に手出しはできないはずです」
「ええ……そうね。私とゲイヴが結婚したら、ね……」
「あら……お嬢様、失礼ですが、ひょっとして……ゲイヴ様とのご結婚には、あまり乗り気でいらっしゃらないのですか?」
「う、ううん、そういうわけじゃないんだけど……もしもフェルディが私たちの結婚を望んでないんだとしたら、今すぐどうこうはできないかもなって。そのせいで皇家の不興を買っちゃったら、ホーエンベルクを守るどころか、かえって危険に晒すことになるかも……」
「そうでしょうか。仮にそうなったとしても、旦那様もゲイヴ様も、必ずやホーエンベルクを守り抜いてくださるはずだと、わたくしはそう信じております。何せおふたりとも、お嬢様にかける愛情は本物ですから」
「え……お、お父様は分かるけど、ゲイヴはどうかしら。今回の婚約だって、私とお父様が無理矢理……」
「いいえ、お嬢様。長年、おふたりの関係を見守ってきたわたくしには分かりますわ。ゲイヴ様は本心からお嬢様を愛しておいでです。それこそ、皇太子殿下にも負けないくらい……」
「な……何言ってるのよ、ゾフィー。婚約してからのゲイヴの様子を見て言ってるなら、あれは彼が私に合わせてくれてるだけで──」
「まあ、お嬢様ったら、本気でそのようにお考えなのですか? でしたら五日前、お嬢様のお命が危ういかもしれないと聞かされたゲイヴ様が、涙を流しておられたのも演技だと?」
「えっ……!? げ、ゲイヴが……!?」
「ええ、そうです。あの日、ゲイヴ様はご自分のお屋敷へお帰りになるのも拒まれて、ひと晩中、お嬢様のお傍についていてくださったのですよ。ただの演技のために、そこまでなさる殿方がいるものですか」
「い、いや……でも……ゲイヴが、そんなわけ……」
「ふふ……では、のちほどゲイヴ様がいらしたら、直接お訊きになってみてください。そうすればきっとわたくしの言葉が嘘ではないと、お分かりいただけるはずですよ」
ゾフィーがそう言って自信満々に微笑みかけてくるものだから、私はますます混乱した。普段余計なことはほとんど言わないゾフィーがここまで言うってことは、まさか、ほんとのほんとに……?
(い、いや、でもゲイヴはそんなこと、今まで一度も……帝都に来てからずっと、お兄様の代わりに色々相談に乗ってもらったりしてたけど、そういう素振りはまったくなかったじゃない……!? それとも私がにぶちんだったっていうの……!?)
一〇〇回も繰り返したループの中で、今、初めて突きつけられた事実に、私は頭を抱えてうめいた。そんな私の様子を見たゾフィーは可笑しそうにくすくす笑い、最後にもう一度だけ、冷たい布巾で私の頬を拭ってくれる。
「お嬢様、お顔が真っ赤でいらっしゃいますよ」
「う、うぅ、ゾフィー……!」
「あらあら、そのような目で見つめないでくださいまし。わたくしはわたくしの見たままを申し上げただけですから……ですが、今はまだお目覚めになられたばかりでいらっしゃいますし、混乱するお気持ちも分かります。よろしければお医者様を待つ間、こちらでお気をまぎらわせてみては?」
言いながら、ゾフィーが枕もとにことりと差し出したのは、見慣れない小さな小瓶だった。硝子の表面に精緻な彫刻が施された綺麗な瓶で、中には薄桃色の液体が満たされている。
「……これは?」
「近頃巷で評判の香水でございます。何でも気分を落ち着ける効能のある薬草を、何種類も調合して作られたものだとか……わたくしも何度か使ってみたのですが、本当に気持ちがやわらいで驚きました。香りがお嫌いでなければ、ぜひお使いになってみてください」
「へえ、香水か……ありがとう、ゾフィー」
私は香水なんて外出するときくらいしかつけないから、そんなものが流行っているなんて知らなかった。そもそも人工的な甘ったるい香りというのが昔から好きではなくて、ずっと毛嫌いしてきたくらい。だけど五日も眠ったあとで体は汚れているだろうし、ゾフィーがそう言うならと試しに小瓶を開けてみれば、途端にふわっとやさしい香りが鼻先をくすぐる。……いいにおい。
薬草を調合した香水だというから、もっと青臭くてシャープなにおいを想像したのだけれど、実際に広がったのは咲いたばかりの花のような、ちょっと甘くて自然な香りだ。これなら香水嫌いの私でも使えそう。
さすがはゾフィー、相変わらず気がきくわね。
「では、わたくしは旦那様のところへ使いを出して参ります。お嬢様は今しばらくお休みください」
ほどなく私の体を軽く拭き終えたゾフィーは、水を張った盥を携えて退室した。
彼女の足音が遠ざかり、寝室でひとりきりとなった私は、やわらかな花の香りに包まれながら目を閉じる。
(……不思議ね。本当に気分が落ち着く……考えなきゃいけないことは山積みだけど、パニックになってもしょうがないわ。とにかくひとつずつ、冷静に考えなくちゃ……)
皇室とホーエンベルクの対立。フェルディナントとアリマニカ。
そして──ゲイヴの気持ち。
もしゾフィーの言っていたことが事実なら、私は、うぬぼれてもいいのだろうか。最初にフェルディナントを失った日から、胸にぽっかり開いたままのこの穴を、ゲイヴが埋めてくれるんじゃないかって。




