カーテンコール
宮殿へ無事帰り着いたあとも、手の震えが止まらなかった。
アシュタリゼを振り払ったときの感触が、今もまだ指先に残っている。
彼女に触れたのは果たしていつぶりだろうか。
もうずっと、婚約破棄を言い渡す瞬間以外は顔を会わせないようにしてきたから、下手をすれば三年……いや、あるいは八年ぶりかもしれない。
(もう二度と、触れるつもりなどなかったのに……リゼは何故、俺を追ってきたんだ? ゲイヴと婚約した今、俺と関わる理由などないはずだろう? おまけに今さら、あんな傷ついたような顔をして──)
劇場のエントランスにへたり込み、茫然と俺を見上げていたアシュタリゼの表情が瞼の裏にちらつく。俺はそれを消し去りたい一心で、新たに注いだワインをひと息に呷った。燭台に明かりこそともしてはいるが、寝室は暗く、傍にはイェルクがひとり控えているだけ。アリマニカのことは、宮殿へ着くなり部屋へ帰した。
「申し訳ございません、フェルディナント様。わたくしが歌劇にお誘いしたばかりに……」
と気に病んでいた彼女を、充分に気遣ってやれるだけの余裕が、今の俺にはなかったから。
(アリマニカは悪くない……悪いのは、俺だ。俺がもっと早くに気づいていればよかったんだ。リゼは、俺を愛してなどいないと……)
今まで彼女が俺に向けた笑顔も言葉も、すべてがまやかしだった。
今夜、そう確信した。アシュタリゼの肩を抱いたゲイヴの、怒りのこもった眼差しを目の当たりにした瞬間に。
(ふたりはずっと愛し合っていたんだ。それを俺が引き裂いた。恨まれて当然だ。だのに、俺は──)
──肩を寄せ会うアシュタリゼとゲイヴを前にした、あの瞬間。
俺の心の底から沸き上がった一瞬の感情を、人は「憎悪」と呼ぶのだろう。
八つ当たりだ。分かっている。だが、そんなに想い合っていたのなら、もっと早くに知らせてくれればよかったじゃないか。おまえなんか必要ない、と。
ふたりでコソコソ、俺を騙すような真似などしないで……。
「信じていたんだ。ふたりのことを……」
やがて酔いが回ってくると、俺は力なく椅子にもたれ、そううめいた。
意識がゆっくり攪拌されるような感覚がして、視界が揺れる。
吐きそうだ。あまりにみじめで滑稽な自分自身の醜態に。
「イェルク……おまえは、気づいていたんだろう。ゲイヴがリゼに惚れていることを。マヌエルだってそうだ。なら、どうして黙ってた? もっと早くに知らせてくれていれば、こんなことには……」
「……」
「おい。何とか言ったらどうなんだ?」
「……申し訳ございません、殿下。ですが我がイリッヒ家は、あくまでホーエンベルクに仕える身。主家の言いつけに背くわけにはいかなかったのです」
「ハ……〝侯爵家のために皆で口裏を合わせて、皇太子の機嫌を取っておけ〟とでも言われていたのか? ならさぞ愉快だっただろうな。何も知らずひとりで踊る道化を眺めるのは」
「……」
「なあ、イェルク。俺は……僕は、どうすればよかったんだ? 今まで僕は、何のために戦ってきたんだ……? すべてはリゼのため……彼女のためなら、何だってできると思ってたんだ。なのに、リゼは……僕の信じたリゼは、最初からどこにもいなかったっていうのか? 僕には、リゼしかいなかったのに──」
自分の前では〝皇子〟でなくてもいい、と。
そんな言葉をかけてくれたのは、この世で彼女だけだった。
だから今日まで耐えられたんだ。アシュタリゼのためなら、繰り返される死の痛みや恐怖にだって。なのに、なのに──
「大丈夫です、殿下」
そのとき、深くうなだれ、酔いに任せて嗚咽する俺の耳もとで、イェルクがそっと囁いた。
「たとえアシュタリゼお嬢様を失ったとしても、殿下にはアリマニカ様がいらっしゃるじゃありませんか。これからはあの方のために生きてゆかれればよいのです。殿下を裏切り、笑いものにした者たちのことなど忘れて」
「……何……?」
「今、最も深く殿下を理解し、愛しているのはアリマニカ様です。あの方以上に、殿下の伴侶としてふさわしい女性などおりません」
「だがおまえは……アリマニカのことを、あまり好いてはいなかったじゃないか。この前だって〝アシュタリゼを応援したい〟と……」
「あれは団長の言いつけを守っていただけであって、本心ではありませんよ。ですが殿下も真実を知った今、これ以上嘘を重ねる必要はありませんから」
「そう、なのか……? でも、それじゃあ、おまえはどうするんだ? アリマニカを支持すれば、おまえは主家や兄と対立することになるんじゃ……」
「構いません。私はむしろ、家のためとはいえ、長年殿下を騙してきたことを心苦しく思っていたのです。そのお詫びになるかどうかは分かりませんが……今後団長や兄とことを構えることになったとしても、私は殿下とアリマニカ様を、命に代えてお守りします」
そう言って微笑んだイェルクを見たとき、俺は胸を衝かれるような思いがした。
そうか。そうだったのか。今までのループでも、イェルクだけは何があっても、俺への忠誠を曲げずにいてくれたのは。
「イェルク……う、うぅ……すまなかった……僕は、一番傍にいてくれたおまえの苦しみにさえ、気づいてやれなくて……」
「はは、殿下、飲みすぎですよ。私のことはお気になさらず、今夜はもうお休みください。ほら、立てますか?」
幼い頃から変わらない世話焼きな口調でそう言って、イェルクは酩酊した俺が椅子から立ち上がるのを助けてくれた。
相変わらず視界は回っているし、足もとも覚束ない。すぐそこにあるはずの寝台がひどく遠い。ああ、いっそこのまま床に突っ伏して眠ってしまえればどんなに楽かと思いながら、イェルクに支えられて一歩を踏み出した、そのときだった。
「──フェルディナント殿下、夜分に失礼いたします。至急お知らせしたいことが……!」
突然、寝室の扉がけたたましくノックされ、俺とイェルクは顔を見合わせる。
どうやら夜間、宮殿の警備に就いている騎士が、何ごとか知らせに来たようだ。
「入れ」
そこで仕方なくもとの席へ戻った俺は、いつもの『氷血皇子』の仮面を急拵えでつけ直し、可能な限り厳かな声色で言った。
するとすぐさま扉が開き、滑り込んできた騎士が片膝をつく。息が上がっているところを見る限り、よほど急いで来たようだ──この様子は、只事ではない。
「何があった。変事か?」
「い、いえ、それが……先程殿下がご滞在されていた帝立劇場にて、不測の事態が起きたようで……!」
「不測の事態?」
「はい。報告によれば、殿下が劇場を離れられてから間もなく、強風に煽られた落下物がアシュタリゼ侯爵令嬢に直撃し──令嬢は現在、意識不明の重体とのことです」




