ツバメ、ツバメ、若いツバメよ③
「フェルディ!」
思えば私はここ一〇ループほど、悪役令嬢になりきるための勉強で屋敷に引きこもり、彼とはまともに顔も会わせていなかった。期間にして、約三年。
会いに行っても、手紙を書いても拒まれると分かっていたから、可能な限り接触を断って、ひたすらロマンス小説を読みあさって……。
(それも全部、全部、この日のために──)
フェルディ。私、あなたに生き延びてほしいの。その先の未来に、たぶん私はいないけど。でも、そうすればきっとループは終わる。
だからどうか、どうか、もう一度だけ──
「──触れるな!」
けれども、そう願って伸ばした手は。
フェルディナントの右手に触れる寸前、撥ね除けられた。
払われた指先に鋭い痛みが走る。と同時に勢い余ってバランスを崩し、よろめいた私は、持ちこたえられずに尻餅をついた。
「痛っ……」
何だか足を変な方向に拈った気がする。見れば、左足の靴のヒールが折れていた。それほどの力で、私は彼に拒絶されたのだ。
「フェルディ……」
劇場のエントランスホール。見上げたフェルディナントの表情は、果然、おぞましいものでも見たかのように歪んでいた。
(ああ……分かってたけど、やっぱり、きついな)
今回のループだけじゃない。
今までにも何度か彼と接触しようとして、そのたびに同じような扱いを受けた。
だからとっくに慣れたつもりでいたし、もう傷つくこともないと思ってたけど。
(一〇ループもブランクを空けたのは、さすがに失敗だったかも──)
「──リゼ!」
ズキズキと痛む左足を押さえ、うなだれた刹那、背後から私を呼ぶ声がした。
かと思えばぐいと肩を引かれ、たくましい腕に抱き留められる。
「リゼ、大丈夫か!? ヒールが……」
「ゲイヴ……」
私が床にへたり込んでいるのを見たゲイヴは、まるで自分が殴られたみたいに顔を顰めた。次いできっとフェルディナントを睨みつけるや、私を守るように両腕に力を込める。
「殿下、一体どういうおつもりです? いくら婚約者でなくなったからといって、団長のご息女にこのような仕打ちをなさるとは……!」
「ち、違う。今のは、事故で……」
「事故? だとしても、私の婚約者に二度も恥をかかせたのです。殿下も騎士道に殉じる誓いを立てた身でいらっしゃるからには、弱者を軽んじた事実と向き合われるべきでは?」
いつも冷静なゲイヴからは想像もできないくらい、明確な怒気を孕んだ声。
彼もこんなに怒ることがあるのか、と、半ば他人事のように見上げた先では、フェルディナントが忌々しいものでも見るような目で私たちを見下ろしていた。
(私……フェルディにそんなに憎まれること、したっけ。アリマニカは罪悪感があるからわざと突き放すんだと言ってたけど、だったら、なんで……)
「殿下。あなたは、騎士の誓いを──」
ところが、ぼんやりとなりゆきを傍観する私を助け起こしながら、ゲイヴがフェルディナントへ詰め寄ろうとしたときだった。
突然間に割り込み、ふたりをぐいと引き離した人物がいる。イェルクだ。
「イェルク……!? おまえ……!」
「離れて、兄さん。殿下はもうお帰りになるところです」
「何を言ってる? おまえも見ただろう、殿下がアシュタリゼお嬢様を……!」
「殿下が事故だとおっしゃるんだから、事故ですよ。さ、行きましょう、殿下。あまり騒ぎになると面倒です」
「イェルク!」
……やっぱりイェルクは、このループでもフェルディナントの味方だった。
彼は激昂するゲイヴを押し留めて、フェルディナントを帰路へと促す。
そこには遅れてやってきたアリマニカの姿もあって、彼女は困惑したように私とフェルディナントとを見比べたのち、立ち去る彼をぱたぱたと追っていった。
今夜、何故彼を連れてきたのかの説明もないまま。
「リゼ、リゼ! おお、なんということだ……! 怪我はないか!?」
ホールにはほどなくお父様とお母様も駆けつけ、転んだ拍子に少しだけ着衣が乱れた私の身を案じてくれた。だけど私はすぐに答えられない。群衆の眼差しが矢衾のごとく降り注ぐのを感じながら、それでも、震えが止まらなくて。
(……ほらね。やっぱり今夜の劇は最低よ。どんなに頑張ったって、フェルディは帰ってきたりしない。あんなご都合主義のハッピーエンド、現実では、ありえない──)
だから私は銀薔薇の貴婦人のように強く、気高く、彼のことなんて忘れてしまおうとしたのに。
なのにこんな醜態を晒して、結局、彼にも振り向いてもらえなくて……。
「リゼ」
そのとき、黙ってうつむくことしかできない私を、ゲイヴがもう一度、力いっぱい抱き締めてくれた。
そうしながら、周りに聞こえないような小さな声でそっと囁く。
「泣いてもいい。あとのことは、俺たちがうまくやっておくから」
そう言ってくれたゲイヴの声があんまり優しくて、私は、堪えていたものが一気に噴き出すのを感じた。
(ゲイヴ……そんなこと言われたら、ほんとに甘えちゃうよ──)
たとえ一瞬でも、もう一度だけ、なんて思った私が馬鹿だった。
今まで彼から受けた仕打ちを思い出すべきだった。
フェルディナントはもう、かけらだって私を愛していないんだ。
そんなのとっくに分かってたはずじゃない。
なのにどうして、どうして私は──
「……っあーッ、もう、最ッ低! せっかく私の方から歩み寄ってあげようとしたのに、何なのよあの態度!? 自分がフッた女が他の男に取られたのがそこまで気に食わないってわけ!? だったら最初から婚約破棄なんかするんじゃないわよ! ほんっと肝っ玉の小さくて甲斐性のない男!!」
あまりにもみじめったらしい自分に嫌気がさして。
次の瞬間、気づけば私は、ゲイヴの腕の中で腹立ちまぎれにそう叫んでいた。
これにはゲイヴも両親も、さらには周囲の野次馬たちまでぎょっとしていたけれど、こうなったらもうヤケよ。
ほんとのほんとに、骨の髄まで悪役令嬢になりきってやるんだから!
「お父様、見ました!? やっぱり、あんな男との婚約は破棄して正解だったでしょう!? あいつ、ゲイヴと一緒にいた私を見るなり逃げ出して、あげくの果てには突き飛ばしたのよ! 非力な女のこの私を!」
「お、おお……おお、まったくおまえの言うとおりだ、リゼ! 皇太子の座に胡座をかいて、かつて世話になった家の娘すらもののように扱うとは、騎士の風上にも置けん男よ! 見損なったぞ!」
「ああ、リゼ……なんて可哀想な子なのでしょう。長年殿下に尽くしてきた見返りが、まさかこんな仕打ちだなんて……皇妃陛下にはわたくしから、後日正式に抗議しておくわ。うちの娘を求めたのも捨てたのも殿下でいらっしゃるのに、逆恨みはおやめくださいとね」
そう言ってお母様までひしと抱き留めてくれるものだから、私はよよよと被害者ぶって、涙を拭う仕草をした。これには面白半分で見物していた野次馬たちも、困惑気味に顔を見合わせている。そうよ、そもそもの原因は一方的に婚約破棄して、しかも毎回勝手に死んじゃうフェルディナントの方なんだから、私だけ悪者扱いされるなんて冗談じゃないわ。こっちは彼のせいで家名まで汚されてるの。
だったら、私だってやり返してもいいわよね?
「うう、ゲイヴ……あなたもありがとう。騎士のあなたが皇太子に刃向かうなんて、絶対にやっちゃいけないことなのに、私のために怒ってくれて……」
「い、いや……このくらい当然だ。今は俺が君の婚約者なんだから」
「うん……本当はもっと早く、あなたに応えるべきだった。家のためにと思って我慢してたけど、殿下の様子がどこかおかしいことは、前々から分かってたもの。こうなるとなおさら、あんな男に引っかかってしまわれたアリマニカ王女が可哀想だわ。彼女もきっと昔の私みたいに、あの人に騙されているんじゃないかしら……」
「そうだな。今夜も王女と親睦を深めるはずが、結局殿下に邪魔されてしまった。とにかく、今夜はもう帰ろう。挫いた足のことも、医者に見せないと……」
「では、ゲイヴ。娘を馬車まで支えてくれる? 見たところ、左足が腫れているようだから……」
「もちろんです、奥様。お任せください」
と、言うが早いか、私の目線より六寸(十五~十六センチ)ほど高いところにあったゲイヴの頭がふっと沈んだ。かと思えば両足がにわかに浮き上がり、あっと驚いているうちに、ゲイヴは軽々と私を横抱きにしてみせる。
「なっ……! なな、ななな、ゲイヴ!? お、お母様は〝支えてほしい〟と言ったのであって……!」
「だが、この方が足を痛めずに済む。掴まってくれるか?」
「え、えぇぇ……! でっ、でも、こんな公衆の面前で……あなた、お父様に殺されちゃうわ!」
「ははっ、大丈夫。君のために死ねるなら、本望だ」
と、ゲイヴが笑って言う傍から、お父様がさっきの比にならないくらい殺意に満ち満ちた憤怒の形相をしているのだけど、本当に大丈夫かしら。そう青ざめている間にも、ゲイヴは私をしっかりと抱いたまま、出口へ向けて歩き出した。
(こ、これっていわゆる〝お姫様だっこ〟よね……こんなの、フェルディにもされたことない……!)
恥ずかしいやら恐ろしいやらで、今の自分が一体どんな顔色をしているのか想像できない。ひょっとしたら赤でも青でもない紫色になっているかもと思いながら、いたたまれなさのあまり、私はゲイヴの首筋にうずめた顔を上げられなかった。
かくして劇場の外へと出れば、既にホーエンベルクの馬車が待機している。
どうやら私がサロンを飛び出したときに、こうなることを予測したお母様が劇場の人に頼んで、馬車を呼び寄せてくれていたようだ。
(まったく、ほんとに……うちの家族には敵わないわ)
内心そう苦笑しながら、馬車の扉の前まで来た私は、一度ゲイヴに下ろしてもらう。そうしてから、先に馬車へ乗り込んだ彼の手に支えてもらって踏段を上がろうとした、そのときだった。
「きゃっ……風が……!」
いくつものガス灯に照らされたユングフラウの街に、突風が吹く。
背の高い建物が並ぶ劇場前通りに吹き込んだ夜風は、見えざる獣の咆吼を思わせる音を鳴らして、石畳の上を駆け抜けた。そしてその瞬間、ピシリ、と。
劇場のエントランス上部に飾られた天使の像から、音がする。
強風に晒され、経年劣化のために罅割れた翼の一部が剥がれ落ちて──
「……!! リゼ!!」
「え?」
刹那、馬車の中から手を伸ばしたゲイヴがどうして叫んだのか、私には分からなかった。何故ならそれを理解するよりも早く、遥か頭上から落ちてきた石像の破片が頭に直撃したから。一瞬の衝撃のあと、私の意識はそこで途絶えた。
魔ものが笑うような風音を聞きながら。




