ツバメ、ツバメ、若いツバメよ②
──その日、アリマニカに誘われた歌劇を観た感想は、
「……何これ」
だった。ビュロンが世界に誇る伝統歌劇『銀薔薇の騎士』。
さすがの私も、この演目の内容くらいは知っている。
女を地位や美醜で選り好みする最低野郎が、昔捨てた恋人が美しく生まれ変わったのを見てよりを戻そうとする胸糞話。だけど女主人公はそんな男の浅ましさに呆れ返って、最後に華麗なる復讐を遂げる。
未練がましく縋りつく男を一蹴し、盛大に振るという方法で。
「そのラストがスカッとして面白い作品なのに、結末を改悪するなんてどういうつもり? これじゃ貴婦人のかっこよさが台なしだわ」
「ああ。脚本家は、男の愚かさも過ちもすべて受け入れる女性の包容力を描きたかったのかもしれないが……正直なところ、貴婦人がただの〝都合のいい女〟に成り下がってしまった感は否めないな」
「そうよね!? こうなるならもっと序盤のうちに、ふたりがどれだけ深く愛し合ってたかみたいな描写を入れてくれなきゃ納得できないわ。それなら貴婦人が貴公子をもう一度信じる展開でも許せたのに……」
舞台の幕が下り、ひとしきりの喝采がホールに響き渡ったあと。
観衆が少しずつ退場を始めた空気の中で、劇場二階の貴族席に座った私は、一緒に観劇したゲイヴと感想を言い合っていた。『銀薔薇の騎士』は歌劇に興味のない私が唯一好きな演目なのに、まさかこんな最低の改変をされてたなんて。
できることなら知りたくなかった、と嘆きながら、私は思わずため息をついた。
「はあ……これからこの劇の感想会に参加しなくちゃいけないなんて気が重いわ。いくらアリマニカ王女に会うためとはいえ……」
「まあ、かなり大胆な改変の入った劇だったからな。他にも批判的な感想を持ち寄る観客はいるはずだ。お互いに正直な感想を言い合えばいいんじゃないか?」
「うーん、でも王女が今の劇を気に入ってたら気まずいじゃない? 王女に気を許してもらうためには、嘘でも意見を合わせた方が……」
「……。なら、自分の立場に置き換えて考えてみるのはどうだ?」
「え? どういうこと?」
「つまり……貴婦人が君で、貴公子がフェルディナント殿下だとしたら、どうするか」
会場を包む終幕後のざわめきの中でゲイヴがぽつりと零した言葉に、私は目を丸くした。彼は次第に観客が捌けていく一階席の様子をじっと見つめているけれど、燭台に照らされた横顔は、真剣だ。
「げ、ゲイヴ、それって……」
「……たとえばの話だ。殿下がこれまでの過ちを真摯に謝罪して、再び君とやり直したいとおっしゃったなら、リゼはどうしたい?」
「わ、私は……」
「そう考えれば、王女がたとえ好意的な意見を口にしたとしても、自然に賛同できるんじゃないか? 逆に王女も批判的な立場なら、自分を偽らなくても話が弾むだろうし……」
「……」
「……リゼ? すまない……気を悪くしたか?」
私の沈黙に気づいたゲイヴは、気遣わしげにこちらを覗き込んできた。
けれども私は、ふるふると首を横に振る。
──違うのよ、ゲイヴ。
私はただ、あなたにそんなことを言わせてしまった自分が情けないだけ。
(……ゲイヴもきっと、気づいてるんだわ。私がまだフェルディのこと、完全に吹っ切れたわけじゃないって)
もちろん自分では、吹っ切れたつもりでいたのだけれど。
いざフェルディナントのいない未来が現実味を帯びてくると、往生際の悪い自分が顔を出してしまう。かつて彼が向けてくれた笑顔も言葉も、全部嘘だったのだと認めるのが苦しくて──でも。
「ゲイヴ。私の婚約者は、もうフェルディじゃない。あなたよ」
「リゼ」
「私は自分の恋人を裏切ったりしないわ。……裏切りたくないの」
そうされる痛みを誰より知っているのは、私だから。
だからたとえ愛のない婚約でも、誠実でありたい。そう思った私が、ありのままの気持ちを伝えると、刹那、ゲイヴの瞳が揺れた、ような気がした。かと思えば彼はふっと淡く笑って、不意に私の手を取るや、そこに軽く口づける。
「ありがとう、リゼ」
次いで響いたゲイヴの声は、何だかひどく甘くって。
そんな反応が返ってくるとは夢にも思っていなかった私は、みるみる耳まで熱くなるのを感じながら慌てふためいてしまった。が、そのとき、
「──ゴホンッ、ゴホンゴホンッ!」
というわざとらしい咳払いが聞こえて、私たちははたと我に返る。
振り向いた先には言わずもがな、お父様とお母様の姿があった。
いくら婚約発表が済んでいるとはいえ、婚前の男女をふたりきりで外出させるわけにはいかないと、ふたりも一緒に観劇に来てくれたのだ。
……だとしても、お父様まで連れてきたのは失敗だった。
現に今も咳払いしながら、睨み殺しそうな形相でゲイヴを威圧しているし。
「あ、あー、今夜の劇はなかなかの意欲作だったわね、お父様、お母様! 賛否両論はありそうだけど、楽しめたんじゃない?」
「そうね。脚本はともかく、主演女優の歌唱は素晴らしかったわ。貴公子役の情けない演技も、何だか若い頃のお父様にそっくりで……ねえ、あなた?」
「ゴホッ、ゴ──ゴフゥッ! い、いきなり何を言い出すのだ、イザベラ……!」
「まあ、まさかお忘れになったんですか? 昔、お隣のアイルツ領の姫君に鼻の下を伸ばしていたときのあなたも、後日、あんな様子でわたくしのところへ謝罪にやってきて──」
「そ、そんなことよりだなッ! このあと、サロンで王女と待ち合わせておるのだろう、リゼ!? ならばわしらもそろそろ行こうじゃあないか!」
「お父様……お母様が銀薔薇の貴婦人のように寛大でよかったわね」
「うん……! だが当時の母様は、本当に怖かったぞッ!」
それは今も変わらないんじゃない? と喉もとまで出かかった疑問を何とか飲み込んで、私は笑いながら貴族席を出た。
今夜もアリマニカと会えば、また余計な感傷に邪魔されてしまうんじゃと身構えていた緊張が少しほどけて、改めて家族に──そしてゲイヴに感謝する。
「おお、騎士団長閣下! 貴殿もご家族とおいででしたか」
かくして向かった、帝立劇場一階の貴族専用サロン。
観劇後のこうした集まりに顔を出すのは初めての経験なのだけど、先に来ていた人たちは、そんな私のことも温かく迎えてくれた。でも、ざっと見渡してみたところ、アリマニカはまだ来ていないみたい。しかもサロンに集まった貴族たちの中には、あからさまな好奇の眼差しで私とゲイヴの様子を窺っている人もいる。
まあ、私たちの婚約発表からまだ一週間しか経っていないわけで、ふたりで出歩けば注目の的になるのは覚悟の上だったけど。だとしてもあんな風にちらちらと、下卑た視線を浴びせられるのは気持ちのいいものじゃない。
そこで私たちは、サロンに用意されたいくつかの談話席のうち、最も視線を浴びにくい最奥の席に座ってアリマニカを待つことにした。
(はあ。こんなこともあろうかと、今日も露出度高めの悪役令嬢コーデで来といてよかった……)
と、劇場が用意してくれた飲み物に舌鼓を打ちながら、新しく仕立てたばかりのドレスに入った際どいスリットを見せつけるように足を組む。フェルディナントとの婚約破棄をきっかけに「ホーエンベルクは皇家へ報復するつもりなのでは」なんて憶測が飛び交ってる以上、世間には私が噂どおりの悪役令嬢で、堅苦しい皇太子妃の座なんかには初めから興味がなかったと思っててもらわないとね。
(まったく……〝金遣いが荒くて傲慢で、男あさりにしか興味のないアバズレ女〟なんて便利な噂、ほんとに誰が流してくれたのかしら。おかげでアリマニカに接近するきっかけが作れたのは助かったけど)
学院時代の友人の中には、根も葉もない誹謗中傷だと憤慨してくれる者もいる。
でも、ユングフラウ宮殿に出入りする貴族の大半が、今やこの噂を信じ切っているというのが現状だ。それほどの信憑性をもって噂を広められる人物なんて、やっぱり皇家の人間以外、考えられないのではないだろうか。
アリマニカが私からフェルディナントを奪おうとして……という線も考えられなくはないけれど、いくら一国の王女といえど、つい最近まで敵国だった国の人間の言うことを帝国貴族が鵜呑みにするとも思えない。ましてや私とアリマニカはループが始まるまで、ほとんど接点らしい接点を持ったことがなかったのだし──
「おおっ、皇太子殿下! アリマニカ王女も、ようこそいらっしゃいました!」
ところがそんな物思いに耽っていると、突然、周囲にどよめきが広がった。
どうしたのかと目をやれば、何やらサロンの入り口付近が騒がしい。
直後、私は絶句した。何故ならそこに集まった貴族たちの間に、ひと際目立つ銀髪を──十日ぶりに目にする、フェルディナントの姿を見つけたから。
(うそ)
と、真っ白になった頭の中で呟いた刹那、握っていたグラスがするりと落ちて、足もとでパリンと音を立てた。
だけどそれにも気づかないくらい、私は動揺してしまって。
(なんで……なんでなんで、ここにフェルディがいるの? アリマニカ──)
困惑する私の視線の先には、当然のように彼女の姿もあった。
アリマニカ・アウグシュタ。今夜も私とは裏腹の、清楚なドレスに身を包んだ彼女はフェルディナントと腕を組み、何ごともないみたいに談笑している。
けれども私がグラスを落とした拍子に、その場にいた全員の視線が集まり──やがて、フェルディナントと目が合った。
「な……あ……アシュタリゼ──」
彼の薄い唇が愕然と、私の名前を呼んだのが聞こえる。十日ぶり。でも、もっとずっと長い間、彼に名前を呼ばれていなかったような気がする。なんでだろう。
(いや、違う──今はそんなこと、考えてる場合じゃない!)
そうだ。何がどうなってるのかは分からないけど、こちらから会いに行っても門前払いされるだけだった彼が今、そこにいる。
だったらこれって、絶好のチャンスじゃない?
今回のループでは、私はフェルディナントの婚約者じゃない。
「行かないで」とか「どうして」とか、問い質す理由もない。
だって今の私にはもう、ゲイヴがいるから。だから今度は、今度こそは、フェルディナントも私の話を聞いてくれるかも……!
「ふ……フェルディ! 驚いたわ、あなたも来てたなんて──」
なら、可能な限り自然な感じで、彼と接触を。
そう思った私が席を立った刹那、彼の顔色が一変したのを見た。
直前まで驚愕に彩られていたフェルディナントの表情はたちまち青ざめ、まるで怪物とでも出会したみたいに歪む。
かと思えば、彼は素早く踵を返し──逃げるようにサロンをあとにした。
「な……! ち、ちょっと待ってよ、フェルディ! 私、あなたに話が……!」
「よしなさい、リゼ!」
そのとき、お母様が上げた制止の声は、私の耳に届かなかった。
今を逃せばもう二度と、フェルディナントと話せる機会はないかもしれない。
そう思ったらいてもたってもいられず、私は彼を追いかけた。
ドレスの裾をたくし上げ、ヒールを鳴らしながら。




