ツバメ、ツバメ、若いツバメよ①
『銀薔薇の騎士』は、ビュロンを代表する歌劇のひとつだ。
物語はとある貴婦人が、夫の居ぬ間に若い貴公子と密会するシーンから始まる。
彼らは長らく愛人関係にあり、夫の留守を狙って逢瀬を重ねてきた。
ところがある日突然、逢引の現場に貴婦人の従弟が押しかけてきて、
「不倫関係を暴露されたくなかったら、自分とある貴族令嬢の縁談を仲立ちしろ」
と彼らを脅迫するのだ。というのも百年ほど前のビュロンには、貴族同士が意中の相手にアプローチする際には仲人を立て、薔薇を送るという風習があった。
仲人は預かった薔薇を送り主に代わって相手へ届け、彼または彼女が伴侶としていかに優れているかを熱弁し、保証し、推薦する。
ゆえに彼らは当時『薔薇の騎士』と呼ばれ、騎士には見目麗しく、弁が立ち、世間の信頼が厚い人物が選ばれることが多かった。
貴婦人の愛人は、これらすべての条件を満たす好青年だったがために目をつけられ「必ずや縁談を成立させろ」と脅されるわけだ。
仲立ちに失敗すれば、待っているのは不倫関係の暴露と破滅。追い詰められた貴婦人は従弟の要求を飲み、世にも珍しい銀色の薔薇を用意した。この薔薇を貴公子に届けさせれば、令嬢はきっと従弟に興味を持ち、縁談を受け入れるに違いない。
そう画策した彼女は意を決して貴公子を送り出したが、予期せぬ結果が待っていた。なんと貴公子と令嬢が互いにひと目で恋に落ち、駆け落ちしてしまったのだ。
従弟に責められ、また愛人を失った貴婦人はどん底へ落ちた。
同時に、どんな愛も若さと美しさの前には無力なのだと悟った。
貴婦人は血筋も器量もよく、人望も厚かったが、貴公子より十歳以上も年上で、容姿も凡庸だったからだ。ゆえに貴公子は、より若く美しい娘と共に去ってしまった。貴婦人は自らの年齢と容姿を嘆いた。
だがさめざめと泣き暮らすうち、彼女の心模様は悲しみから怒りへと変わっていく。あんなにも深く愛し、慈しんだ愛人が、閨で誓った永遠の愛を呆気なく裏切り逃げたことが、次第に許せなくなっていったのだ。そして彼女は一念発起した。
ありとあらゆる財を叩いて若さと美を追求し、やがて未婚の貴族令嬢たちをも凌駕する美貌と若さとを手に入れた。そんな彼女と、数年後、ユングフラウへ戻ってきた貴公子が再会し……というのが『銀薔薇の騎士』のあらすじだ。
(駆け落ちしたはずの貴公子は、平民に落ちて徐々に美しさを失っていった令嬢と破局し、ユングフラウに戻る。そこで別人かと見まがうほど美しく生まれ変わった貴婦人と再会するや、再び恋に落ちて言い寄るが、貴婦人は貴公子を袖にする……というのが、本来の『銀薔薇の騎士』の展開だが)
女を若さと美しさでしか計れない男の愚かさと、そんな男の鼻を明かし、自らの尊厳を取り戻した貴婦人の気高さとしたたかさ。
『銀薔薇の騎士』が執筆された当時から、多くの女性に支持されてきた理由がそこにある。この物語は時代や身分に抑圧されてきた女性たちにとって、心の内に澱んだ溜飲を下げてくれる、痛快な復讐劇なのだ。ところが、
「ツバメ、ツバメ、若いツバメよ。遥か遠い南の国から、貴方はきっと帰ってくると知っていた。知っていたのよ、愛しいツバメ……」
帝立劇場の二階に設けられた、皇族専用の特等席。そこから見下ろした舞台の上では、女帝のように美しく着飾った主演女優が、フィナーレを飾る愛の歌を高らかに歌い上げていた。それに応える貴公子役の主演男優も、熱の籠もった歌声を響かせながら、二度目の愛を誓った貴婦人と抱擁する。
かくして舞台の幕は下り、ホールに観客の拍手喝采が轟いた。
今夜アリマニカに乞われて観劇したのは、有名劇団による『新訳・銀薔薇の騎士』。百年以上に渡って繰り返し演じられてきた人気演目の『銀薔薇の騎士』に、新しい解釈を加えた意欲作だ。
「はあ……本当に素晴らしい出来映えでしたわ……! 運命の悪戯に引き裂かれたふたりが、貴婦人の愛と努力によって再び出会い、愛し合うハッピーエンド……わたくし、原作よりも今回の脚本の方が好きになってしまいました。音楽や演出も、最後までとってもドラマチックでしたわね……!」
上演が終わると、瞬きも忘れて舞台に見入っていたアリマニカが、今回のループでも瞳を潤ませながら感嘆のため息をついた。
そう、『新訳・銀薔薇の騎士』では物語の結末が改変されている。
生まれ変わった貴婦人は、自らの愚かさを認めて謝罪した貴公子を許し、もう一度彼を受け入れるのだ。長年愛されてきた原作の結末を大胆に書き換えたこの脚本は、どのループでも賛否両論を巻き起こしていた。しかしアリマニカは、貴婦人と貴公子が元鞘に戻る結末が大層気に入ったようだ。
俺は過去のループでも何度か同じ劇を観ているから、今さら驚きはしないが、初めて観たときは内心「貴婦人はこれでいいのか?」と首を傾げたのを覚えている。
貴公子は結局最後まで、異性を容姿で選り好みする下郎のままだ。そんな男と再び結ばれることが彼女にとっての最善なのかどうか、俺には判断がつかなかった。
が、それについてもアリマニカは、
「もちろん、フェルディナント様のおっしゃることにも一理ありますわ。ですが重要なのは、ふたりの本当の結末が、劇中では描かれていないことです。ひょっとしたら自分の帰りを信じ、たゆまぬ努力を重ねた貴婦人の愛の深さを知って、貴公子が今度こそ心を入れ替える未来だってあるかもしれないでしょう? わたくしはむしろその説を推しますわ。愛する人のため、身も心も極限まで美しく在ろうとした貴婦人には、絶対に報われてほしいですから」
と言う。実に好意的な解釈だ。だがもしかするとアリマニカは、貴婦人の生きざまに自分を重ねているのかもしれない、と今は思う。
どのループでもアシュタリゼのことで頭がいっぱいだった俺を、それでも誠心誠意、傍で支えてくれた彼女を知っているからこそ。
「……今まで君には、本当につらい想いをさせてしまったな」
「え? フェルディナント様、何かおっしゃいまして?」
「ああ、いや……何でもない。では、俺たちもそろそろ出ようか。エントランスに馬車を呼んで……」
「あ、お待ちください、フェルディナント様。あの、もしよろしければ、少しだけ今夜の感想会に顔を出して、ぜひ皆様のご感想も伺いたいのですけれど……いけませんでしょうか?」
ところが階下で市民階級の観客たちが捌け始めた頃、アリマニカから予想外の申し出を受けた俺は少し面食らった。こういう観劇のあと、貴族たちが劇場内のサロンに集まって、社交を兼ねた感想交換会を開くのはよくあることだ。
しかし今までのループでは、アリマニカは劇を見ただけで満足し、サロンに顔を出したいなどと言い出したことは一度もなかった。
(いや……あるいは今までのループでは、俺に遠慮して言い出せずにいたのか。だとしたら今回は少しだけ、甘えてくれたということになる……)
実際、今もアリマニカは遠慮がちな様子で、叱られる寸前の子どものような上目遣いで俺を見ていた。そんな彼女のいじらしさが不意に愛しく思えて、俺もつい、ふっと笑みを零してしまう。
「ああ、もちろんいいとも。あなたも構わないかな、伯爵夫人」
と俺が尋ねたのは、アリマニカがビュロンに滞在している間の侍女長兼付添人を務めている伯爵夫人だ。
彼女の許可を得た俺はアリマニカをエスコートして、特等席を出た。帝立劇場のサロンは、貴族席のある二階から、エントランスホールへ下りた先にある。扉の前には劇場の案内人が立っていて、俺の姿を見るなり畏まった様子で一礼してきた。
彼らが開いてくれた扉をアリマニカ、伯爵夫人、そしてイェルクを始めとする数人の護衛と共に潜れば、先に集まっていた貴族たちから驚いたような声が上がる。
「おおっ、皇太子殿下! アリマニカ王女も、ようこそいらっしゃいました!」
小さな屋敷の舞踏室ほどの広さがあるサロンには、既に大勢の貴族が集まっていた。いずれも劇場に来るたび見かける、観劇好きの貴族ばかりだ。
ところが、今し方やってきたばかりと見える入り口付近の貴族たちと挨拶を交わしているさなかだった。俺は何やらサロン内の雰囲気がおかしいのを感じ、ふとあたりに視線を巡らせる。
(……なんだ? 皆の様子が……)
こういった場に、俺のような皇族が飛び入りで参加するというのは珍しい。
だからこそみな戸惑い、どよめいているのかと思った。だが、盗み見た貴族たちの反応は、思わぬ皇太子の登場に動揺しているという雰囲気ではない。
ある者は顔面蒼白、ある者は面白半分、ある者は右往左往といった風で──
「──パリン!」
と、そのとき、硝子の割れる音がした。皆が何ごとかと振り向いた先、そこには酒や軽食が並んだいくつかの談話席がある。
そうした談話席の一番奥に、俺はある人物の姿を認めて絶句した。
「な……」
落としたグラスが粉々に割れてしまったことにも気づかず、呆然としているひとりの女性。燭台の明かりをキラキラと照り返す金髪を美しく結い上げ、赤い瞳を揺らしている彼女は、まぎれもない、
「あ……アシュタリゼ──」
──どうして、彼女がここにいるんだ。
愕然と立ち竦み、瞬間、頭の中が真っ白になった俺は気づかなかった。俺と腕を絡めたままのアリマニカが静かに、されどはっきりと、細い笑みを刻んだことに。




