蜘蛛の糸
「戻ったか、アリマニカ」
一〇〇回目のループ、二二日目。安息日で帝立学院が休みなのを利用して、イェルクと共にホーエンベルク邸の偵察へ向かってくれた彼女を、俺は宮殿の執務室で迎えた。人払いは既に済んでいる。
室内には今、俺とアリマニカだけ。俺はすぐに席を立って、応接椅子の方へ彼女を導こうとしたが、アリマニカはふるふると首を振り、
「お忙しいと思いますので、手短に」
と口を開いた。
「結論から申し上げます。アシュタリゼ侯爵令嬢からは──彼女もまたループを繰り返している、と思われる発言は引き出せませんでしたわ」
「……! そう、か……」
「色々と鎌をかけてはみたものの、令嬢は終始〝既に新しい婚約者のいる自分には関係のない話だ〟というご様子で……話し合いの席にはゲイヴ様もいらっしゃったのですけれど、おふたりとも、本当に仲睦まじいご様子でした。今回の急な婚約についても、報復のような意図はなく、ただ早くゲイヴ様と結ばれたかっただけだとおっしゃっていましたわ。そちらについては、今後も慎重に見極める必要があるかと存じますが……」
「……」
「とはいえ、侯爵令嬢のお言葉がすべて事実なら、今回、ホーエンベルク侯爵がフェルディナント様への抗議を控えたのも不思議はないと思います。侯爵令嬢は、フェルディナント様との婚約が見直されていることを事前に知っていて、それなら好都合だからと、お父様を説得なされたとおっしゃっていました」
「……」
「あの、フェルディナント様。大変申し上げにくいのですけれど──アシュタリゼ侯爵令嬢のお心はこれまでも、ずっとゲイヴ様のもとにあった、ということはないのでしょうか?」
俺の座る執務席の前に立ち、アリマニカがおずおずとそう尋ねてきたとき、心臓がズキリと痛んだ。
──アシュタリゼはずっと、ゲイヴのことが好きだった?
あのふたりは幼い頃から相思相愛で、ただ皇子に気を遣って想いを隠していただけだったのか?
(もし、そうだとしたら……最初の人生で、ゲイヴがリゼを殺そうとしたのは……自分の想い人を、他の男に取られるのが我慢ならない、と思い詰めた結果だったのか? そうとも知らずに、俺がふたりを引き離そうとしたから……次のループではリゼもあんなに抵抗して、ゲイヴをかばったのか……?)
すべては俺の勘違いだった?
アシュタリゼがこれまでかけてくれた言葉はどれも、皇子である俺の機嫌を取るため──家門やゲイヴを守るためだったのか?
だとしたら。
(だとしたら、俺が今まで、してきたことは……リゼを苦しめるだけの、ひとりよがりだった……?)
婚約という形で本当の想い人から引き離した上、ループが始まった途端、手酷く彼女を突き放し、傷つけ続けた。ホーエンベルクを守るため、懸命に自らを偽ってきたアシュタリゼの痛みなど一顧だにせず、彼女の努力と苦労を否定した。
口ではもっともらしく「リゼを守る」などと嘯きながら。
(俺は、ただ……〝リゼを守っている自分〟に、酔っていただけだったのか──)
自分はもう、彼女に守られるだけの人間ではないと。彼女に見合う男になれたはずだと、俺はそう証明したかっただけなのかもしれない。
他の誰でもない、俺自身に。
(そんな身勝手な理由で、俺は、)
「──フェルディナント様」
足もとの地面が崩れ、腰かけた椅子ごと真っ暗闇へ落ちていくような感覚。
それに呑まれかけた俺を引き留めてくれたのは、アリマニカの呼び声だった。
見れば彼女はいつの間にか傍らに立ち、すっかり血の気の失せた俺の手をぎゅっと握っている。何故君がそんな顔をするのかと尋ねたくなるような苦しげな顔で、大切な大切な宝物でも抱くように。
「申し訳ございません。軽率なことを申し上げましたわ。フェルディナント様が今日までどんな想いで、何度も降りかかる死を乗り越えてこられたのか知っていながら……」
「アリマニカ……」
「どうか気を落とされないでください。わたくしが申し上げたのはあくまでひとつの可能性ですから、結論を出すには早計ですわ。フェルディナント様が死を迎えるまでは、まだ多少の時間がありますでしょう?」
「ああ……」
「ではもう少しの間、侯爵令嬢の様子を探ってみても罰は当たりませんわ。わたくしも協力いたしますから……ですからどうか、そんなお顔をなさらないで」
「だが、もし、君の言うとおりだとしたら、俺は……俺はリゼに、取り返しのつかないことを……」
「大丈夫ですわ。確かにループが始まる前の数年間は、侯爵令嬢におつらい想いをさせてしまったかもしれませんけれど……それはこれから、いくらでも償えます。だって、今回のループでは、侯爵令嬢はフェルディナント様との婚約が解消になったことを、むしろ喜んでいらっしゃるのですもの。今までいたずらに彼女を傷つけてきたループに比べれば、一番よい未来を引き当てたと思いませんか?」
「そう……か……そう、だろうか……」
「ええ。これもきっと女神マータのお導きですわ。ですからどうか、お気を確かにお持ちくださいませ。たとえどんな結末が待ち受けていようとも……わたくしはあなた様の味方です、フェルディナント様」
そう告げたアリマニカの表情は、それこそ女神の微笑みのようで。
俺の無知も、罪も、愚かさも、すべてを抱き締め、許す、と、彼女の瞳はそう言ってくれていた。こんなにも弱くて、みじめで、救いようのない俺を、それでも彼女は──彼女だけは見捨てない、と。
(アリマニカ)
そう呼びかけようとした声は胸に閊えて、結局音をなさなかった。
だから代わりに立ち上がり、目の前にいる彼女を抱き寄せる。
「フェルディナント様──」
驚いたように発せられたその声ごと、俺はアリマニカを腕の中へ閉じ込めた。
そうして彼女の、アシュタリゼよりも華奢な肩へ顔をうずめれば、アリマニカもまた、そっと抱き返してくれる。
「大丈夫ですわ、フェルディナント様。わたくしがお傍におります。ずっと、ずっと、お傍におります……」
まるで幼子をあやすように耳もとで囁かれる声が、心地よかった。
と同時に、これほど深く俺を想い、すべてのループで支えてくれた彼女を蔑ろにしてきた自分を引き裂いてやりたくなる。
俺の本当の理解者は、こんなにも近くにいたというのに。
「すまない、アリマニカ……ありがとう……」
そう言葉を絞り出しながら、確信した。
ああ、やはり俺の運命は、アリマニカと共にあったのだと。
今日までのすべてはきっと、その運命に逆らい続けてきた罰だ。
ならば、今度は。今度こそは、彼女を心から愛せるように……。
「では、わたくしは一旦失礼いたしますわ。あまり長居をして、フェルディナント様の公務をお邪魔してはいけませんから」
ほどなく、俺の感情の波が鎮まるのを待ってからアリマニカはそう言って、何ごともなかったかのように腕を放した。彼女の体温が離れていくのを、名残惜しい、と心の片隅で感じながらも、俺は頷く。何しろ俺たちはまだ、公式な婚約関係を結んではいないのだ。中の様子が窺える硝子張りの温室とは違い、こんな密室で若い男女がいつまでもふたりきりでいたなどと知れたなら、口さがない貴族たちから、次はどんな陰口を叩かれるか分からない。
「助かったよ、アリマニカ。……みっともないところを見せてしまって、すまなかった」
「あら、何のことでしょう? わたくしはどんなフェルディナント様も素敵だと思っていましてよ?」
「ふ……まったく君には敵わないな。何か礼ができるといいんだが」
「あ。ではひとつ、お願いをしてもよろしいですか?」
「ん……? 何だ? 俺にできることがあるなら、言ってくれ」
「実は次の星の日に、帝立劇場でわたくしの大好きな歌劇が上演されるのです。よろしければ、そちらを一緒に観に行きませんか? フェルディナント様のご感想もぜひ伺ってみたいのです」
珍しく目を輝かせながらアリマニカがそう話すのを聞いて、俺は思わず笑みを零した。ああ、そうか。『銀薔薇の騎士』か。
以前のループでも何度かアリマニカに乞われて、観に行ったことのある劇だ。
「君は本当にあの劇が好きなんだな」
「え? 何かおっしゃいました?」
「いや、何でもない。その日なら空いているよ。俺でよければご一緒しよう」
「まあ、ありがとうございます! それでは星の日の夜、楽しみにしておりますわね!」
さっきまでは子をあやす母のようだったのが、今度は子どものように無邪気な笑顔を覗かせている。アリマニカ・アウグシュタというのはやはり不思議な少女だ。
彼女もきっと小国の王女として、幼い頃から様々な苦労を重ねてきたのだろう。
そんな彼女のことを、今度は俺が理解してやれたらと思う。
これから共に、ビュロンを支えてゆく夫として。




