甘やかに落ちる
イェルク・フォン・イリッヒは、先刻、兄から聞かされた話について、馬上で考え込んでいた。
「──はあ? 殿下がお命を狙われてる?」
「ああ」
と、兄のゲイヴが短く返事をしたのは、先程まで滞在していたホーエンベルク邸の庭でのこと。昨夜急遽発表されたこの兄と主家の令嬢の婚約には、やはり何か裏がある。今日、改めてふたりの様子を間近に見て、そう確信したイェルクが問い詰めると、兄は観念したように──そしてひどく深刻な表情で、今回の件の裏事情を打ち明けてくれたのだった。
「先月、騎士団宛に差出人不明の投書があってな。そこには〝玉輪の月の二十日までに、フェルディナント殿下のお命を狙う計画がある〟とだけ記されていた。差出人は不明で、詳細は現在調査中だが……仮にこの密告が真実だった場合、殿下の身に万一のことがあったら、今の状況で真っ先に疑われるのはホーエンベルクだと思わないか?」
「た、確かに端から見れば、一方的に婚約を破棄されたホーエンベルクが報復のために殿下を、って筋書きが一番通りやすそうだけど……でも、だからってなんで兄さんが」
「そこは団長のご指名だ。俺ならお嬢様とは昔から面識があるし、近頃帝都に流布されている噂に便乗するのにちょうどいい配役だろう」
「ああ……あの〝アシュタリゼ嬢は男遊びの激しい尻軽女だ〟ってやつ? けど、いくら電撃婚約をカモフラージュするためとはいえ、リスクが大きすぎない? 昨夜の一件で、お嬢様と兄さんの評判はガタ落ちだよ?」
「だとしても、殿下のお命を狙う謀叛人に仕立てあげられるよりはいい。とにかく当面の間は、おまえも話を合わせてくれ。殿下の周囲で少しでもおかしなことがあれば、逐一俺か団長へ報告を。もし本当に謀叛を企てている者がいるのなら、泳がせて尻尾を掴みたい」
「うーん……それはいいけど、なんでまた〝玉輪の月の二十日まで〟なんて期限つきなんだろ。その日付自体が、僕らの捜査を攪乱するためのブラフ、ってことはない?」
「だとしても俺たちのやることは変わらない。単純な襲撃による暗殺だけでなく、遅効性の毒を使っての病死に見せかけた殺害や、自死や事故に偽装される可能性まで、あらゆる事態を想定して殿下をお守りせよ、というのが団長のお達しだ」
「ふーん……? ま、そういうことなら納得だけどさ。だったら、なんで昨日のうちに話してくれなかったわけ? おかげでこっちは朝から色んな人に呼び止められて、質問責めに遭ってるんだけど?」
「……すまない。昨日の時点では、団長から口外の許可が下りていなかったんだ。こちらとしても、殿下の反応を窺っておきたかったんでな」
「ん? なんで?」
「もしも殿下が、初めからアシュタリゼお嬢様との婚約を破棄するつもりでいたなら、あの投書はホーエンベルクの報復を牽制するために、殿下自身が投げ込んだものの可能性もあったからだ。しかし殿下はお嬢様と俺の婚約を知るや否や、偵察のためにおまえたちを送り込んできた……ということは少なくとも、密告は殿下の自作自演ではなさそうだな」
「あのさ、兄さん。確かに殿下はリゼお嬢様を裏切る形になっちゃったけど、あの方だって、望んで婚約を解消したわけじゃないんだよ。むしろ殿下は今でもお嬢様にぞっこんさ。なのに陛下が、強硬にアリマニカ王女との縁談を推し進めようとして……」
「だがそれなら、さっきの王女の話は何だ? 殿下は彼女に靡いたから、アシュタリゼお嬢様を遠ざけるようになったと言ってたが?」
「いや、あれは単に王女が、殿下の元婚約者にマウントを取りたかっただけだと思うけど? 王女も王女で、リゼお嬢様が本当に殿下のことを諦めたのかどうか、疑ってるんじゃないかな。王女の方は今回の縁談にかなり乗り気みたいだから」
「しかし殿下はこのところ、頻繁に王女とふたりきりで過ごされているそうじゃないか。第一、事前に一切の相談も謝罪もなく、いきなり婚約解消というやり方を取られたのも理解できない」
「そこはまあ僕も同意見だけど、殿下には殿下なりのお考えがあったみたいだよ。婚約解消する・しないで揉めに揉めて、もともと険悪なホーエンベルクとアウグシュタ人の関係がさらに悪化するのを防ぎたかったとかなんとか……」
「だとしても、あの方がお嬢様のお気持ちを散々に踏み躙ったことは事実だ。正直なところ、殿下には失望した」
「でも兄さんとしては、それで得した部分もあるんじゃないの?」
「……どういう意味だ?」
「いや、何でも。とりあえず事情は分かったから、僕も今まで以上に気を引き締めて殿下の警固に当たるとするよ。けどこれって、殿下本人のお耳にはまだ入れない方がいい感じ?」
「いや。例の投書が殿下の工作でないと確認できた以上、黙っている理由もない。殿下にはおまえから伝えてくれ。この件は騎士団が内々に調査を進めるから、しばらくご静観ください、ともな」
「了解。ま、団長も今は殿下と顔を会わせたくないだろうしねえ。事前に察してたからとはいえ、あの団長が今回の件で殿下を殴りに来なかったのは、女神の再臨に匹敵する奇跡だよ」
「投書の件がなければ、間違いなく怒鳴り込んでいただろうしな。とはいえ、皇家に対するホーエンベルクの忠誠は薄らいだと思った方がいい。謀叛まではいかないにせよ、裏切りの代償は高くつく。団長も奥様も、実際には怒り心頭でいらっしゃるからな」
と、どこか遠い目をして話していた兄の横顔を思い出しながら、それはそうだろうな、とイェルクは思った。ホーエンベルクは代々、ビュロン帝国の防衛と拡大に多大な貢献をしてきた一族であり、特に当代の侯爵夫妻は、騎士修行時代をかの地で過ごしたフェルディナントのことを我が子同然に慈しんでいた。
その信頼を裏切り、夫妻の宝物である娘を深く傷つけてしまった以上、以前のような関係はもう二度と望めない。そう思うと自然、物憂いため息が漏れた。
幼い頃から、従者としてフェルディナントに仕えてきたイェルクとしては、主家と主人との間に挟まれて、今後立ち回りに苦労するのが目に見えていたから。
(それもこれも、この王女のせいだ。彼女さえ現れなければ、何もかも穏便に運んでたはずなのに……)
内心そう悪態をつきながら、ちらと目をやった先には、アリマニカを乗せた馬車がある。宮殿への帰り道、彼女の護衛として馬を並走させるイェルクは、窓の向こうに見えるアリマニカの横顔が、妙にご機嫌なのを目敏く見抜いていた。
普段は本心を隠すような微笑みばかり浮かべている彼女が、これほど分かりやすく浮かれているのは珍しい。フェルディナント──の愛馬──への手土産を、籠いっぱいに持ち帰れたことがそんなに嬉しいのだろうか。はたまた、アシュタリゼがフェルディナントとの婚約を完全に諦めたと知れて安堵したのだろうか……。
(……やっぱり、この王女は得体が知れない)
フェルディナントは既に心を許しつつあるようだが、イェルクはアリマニカ・アウグシュタという王女のことが、どうしても好きになれなかった。学院や宮廷内でも、聡明で人当たりのいい王女だと評判なのは知っているものの、イェルクの目には、それが巧妙に作り上げられた虚像のように思われてならないのだ。
(なかなか尻尾を出さないから、みんなまんまと騙されてるが……この王女は単に〝祖国のため〟だとか〝殿下に気に入られるため〟だとか、そんな理由で動いているわけではないような気がする。帝国や殿下への敵意こそ感じないとはいえ、誰にも本心を見せないよう、器用に立ち回ってることだけは確かだ)
感情を表に出さない理性的な振る舞いは、王族や貴族ならば身につけていて当然の処世術だということはイェルクにも分かっている。が、少なくともイェルクは、ここまで徹底的に〝自分〟というものをひた隠しにする人物を見たことがない。
どんなに自制して過ごしていても、人間というのは往々にして、ちょっとした言葉の端々や目尻、口もとなどの仕草に己の本性を覗かせるものだ。
しかしアリマニカには、それがない。どれほどつぶさに観察しても、彼女の本当の人となりというものが見えてこない。アリマニカが身にまとっているものは、言葉も表情もほんの些細な所作さえも、すべてが完璧な作りものに思えてならないのだ。もっと別の言い方をするなら、人間味を感じない、というか。
(とにかく彼女のやること為すこと、すべてに違和感がつきまとう。さっきのリゼお嬢様とのやりとりだって、どこまでが本気で、どこまでが鎌かけだったのか……そういう部分がまったく読めないのが薄気味悪い。こんなのが未来の皇妃陛下だなんて、僕は御免だぞ)
そんなことを考えながら馬を進めるうち、行く手にようやくユングフラウ宮殿が見えてきた。濠にかけられた跳ね橋を渡り、正門まで辿り着くと、見張りの騎士たちがイェルクの姿を認めて敬礼を返してくる。そこから広大な庭園を横切り、やっとのことで宮殿の入り口に降り立ったイェルクは、愛馬を同行した騎士に預け、自らはアリマニカのエスコートのために、馬車の扉へと手をかけた。
「お疲れ様でした、王女殿下。さ、どうぞこちらへ」
とイェルクが手を差し出せば、アリマニカは礼を言ってその手を取り、慎重に馬車を下りてくる。次いで同乗していた彼女の侍女も下ろしてやると、役目を終えた馬車は颯爽と走り去った。
「はあ。それにしても、侯爵邸では素晴らしいひとときを過ごせましたわ。ビュロン帝国広しと言えども、ユングフラウ宮殿の庭園の美しさに勝るものはないと思っておりましたけど、侯爵夫人の手がけられたお庭も実に見事でしたわね。ビュロンには優秀な庭師が多いようで羨ましいわ」
ほどなく宮殿の入り口をくぐりながら、アリマニカが独白のようにうっとりとため息をついてみせるのを、イェルクは数歩離れた後方からじっと見つめた。
そんな他愛もない言葉さえ、どこか演技めいていて白々しいと感じてしまうのは、もはや疑心暗鬼の領域だろうか。
──陛下も殿下も、この女に騙されている。直感は常にそう警告しているのに、彼らを説得するだけの根拠を掴めないのがもどかしい。
もっとも一伯爵家の次男坊が何を言ったところで、ふたつの国の間で取り交わされた密約が、今さら覆ろうはずもないのだけれど。
「ところでイェルク様、侯爵邸ではゲイヴ様とずいぶん長く話し込んでいらっしゃいましたわね。ひょっとして何かあったのですか?」
ところがイェルクがひとり、悶々と考え込みながら歩いていると、不意にアリマニカがこちらを振り向いて言った。
にわかに兄との密談に踏み込まれたイェルクは内心ぎくりとしたものの、それを表には出さずに、にこりと微笑み返して言う。
「いえ、そういうわけではないのですが、アシュタリゼお嬢様と兄の婚約を巡って少々口論になってしまいまして……何せうちの兄ときたら、長年、お嬢様との関係を私にまで隠していたものですから、さすがに文句を言い足りなくて」
「まあ、そうでしたの。ですが、意外ですわね。イェルク様ほどのご慧眼をお持ちなら、侯爵令嬢とゲイヴ様が隠れて愛し合っていたことなんて、すぐに見抜けてしまいそうなものですけれど」
「ははは、買い被りですよ。不器用な兄の背中を見て育った分、人より要領がいい自覚はありますが、慧眼とまでは……」
「あら、ご謙遜を。現にこの宮殿で未だにわたくしを警戒しているお人なんて──イェルク様。あなたしかいらっしゃいませんのに」
刹那、笑みを含んだ口調でそう告げたアリマニカが、壮麗な廊下の真ん中で足を止めた。途端に刺すような悪寒がぞわりと、イェルクの背筋を駆け上がる。
「は、はあ……警戒している? 私が、王女殿下をですか?」
「ええ。実際、あなたはフェルディナント様とわたくしの関係を快くお思いではないでしょう?」
「そ、そんな、まさか……もちろん、私もホーエンベルクに連なる貴族の端くれですから、今回の件に思うところがないとは言いませんがね。とはいえ、陛下と殿下がお選びになった相手なら、私も帝国騎士として誠心誠意──」
「では、今ここでお話しくださる? 侯爵邸で、ゲイヴ様と本当は何を話されたのか」
「な……」
「あの方はこうおっしゃっていたのではなくて? 〝玉輪の月の二十日までに、フェルディナント殿下のお命を狙う計画がある〟と」
「あ……アリマニカ王女、何故それを……」
「あら、やっぱり聞いてしまったのね。困りましたわ──そんな話を聞いたらフェルディナント様が、侯爵令嬢もループを繰り返しているという確信を強めてしまうじゃない」
「は……」
──この女は、さっきから何を言っている?
イェルクがそう動揺を強めた瞬間、アリマニカは改めて、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その面輪にはにっこりと、見る者の心の臓を凍らせるような微笑みが乗っていて──
「あと少しでわたくしの願いが叶うのに、邪魔をされてしまっては困りますわ。というわけで面倒ですけれど、やはりあなたには今回も、お人形になっていただかないと……」
「な、にを……アリマニカ王女、あなたは、一体──」
「ふふ……世の中には知らない方が幸せなこともありますのよ、イェルク様。ですのでわたくしが、きれいさっぱり忘れさせて差し上げますわ」
言いながら、一歩、アリマニカがこちらへ踏み出したのを見たイェルクは、反射的に半歩右足を引き、腰の剣へ手をかけた。が、次の瞬間、視界の外から現れた手が、剣把にかかったイェルクの左手を押さえ込む。驚いて見やった先にいたのは、瞳から自我の光が消え失せた、アリマニカの侍女だ。
(この眼は、まさか──)
そちらに気を取られた、一瞬の隙だった。突然、アリマニカの白い繊手がイェルクの顎を掴み、視線を固定する。とっさに振り払おうとしたときには遅かった。
直後、爪先立ちした彼女のやわらかな唇がイェルクの口に押し当てられ、するりと舌の上を転がった何かが腑へ落ちる。
まるで生きもののような体温を帯びた、形のない何かが。
「ぐっ……ぅ──」
一拍ののち、アリマニカの肩にかかっていたイェルクの右手が、引き離そうとする力を失った。彼の青鈍色の瞳からは急速に生気が抜け落ち、焦点の定まらない、ぼんやりとした視線を宙へ漂わせ始める。
「はあ……こうしてあなたと唇を重ねたのも、何度目かしら。フェルディナント様に隠れて悪いことをしているみたいで、胸が痛むわ」
「……申し訳ございません、アリマニカ様」
「ふふ……いいのよ。その代わりあなたには今回も、しっかり働いてもらいますからね、イェルク。かわいいかわいいお人形……どうか今度こそ、わたくしをハッピーエンドへ導いて──」
甘く、甘く囁きながら、今度は彼の頬へもう一度、アリマニカはキスをした。
されどイェルクはもう抵抗どころか、表情ひとつ変えはしない。また新たな手駒の出来上がりだ。それを確かめたアリマニカはくすり、と、再び妖しく微笑んだ。
「さあ、アシュタリゼ。今度という今度こそ、決着をつけましょう」




