選んだかたち
実を言うと私には、園芸の知識がまったくない。侯爵邸の庭園を管理しているのは、名実共にお母様だ。領地にいた頃から花好きで、自分で花を育てたりしているお母様とは裏腹に、私は花の名前もろくに知らない。
唯一分かるのは、薔薇とか百合とか、誰でも知っていそうな有名どころの花くらい。あとは野花の類なら多少は覚えがあるのだけれど、それ以外はてんで興味が持てなくて、学院にいた頃なんかは、男子から贈られた花の花言葉まで瞬時に言い当てる同年代の令嬢たちに恐れ戦いたほどだった。そんな私が王女様を引き連れて庭を案内するなんてどうなることかと、最初はそう思ったのだけど──
「まあっ、素晴らしいわ! この花は薄雪草ですわね。低地で育てるのはとても難しい花ですのに、こんなにたくさん……あっ! あちらで咲いているのは丁香花ではなくて? 白い丁香花なんて珍しいですわね……」
「……」
──うん。私が案内なんかしなくても、アリマニカは勝手に楽しんでくれてるみたい。これはこれで何か複雑だけど、花の名前とか由来とか育て方とか、あれこれ訊かれなくてラッキーと思うべきよね。
とはいえ彼女に花を愛でる趣味があったなんて知らなかったわ。以前のループで彼女が訪ねてきたときも、私はこの庭園で接待をした。でもそのときは、花の話題なんて振られもしなかったのを覚えてる。まあ、当時は恋敵としてうちに乗り込んできていたわけだから、なごやかに園芸について語り合ってる場合じゃなかったと言われればそうなんだけど、意外すぎてこちらが呆気に取られている間にも、アリマニカは花から花へ渡る蝶々みたいに、どんどん先へいってしまった。
「お、王女様、待ってください! そっちは厩舎の方角で……」
と彼女が見当違いの方角へ歩き出したのを見た私は、慌ててあとを追いかける。
ここは高い塀で囲まれたホーエンベルク邸の敷地内だから、万が一にも危険なことなどないとはいえ、やはり他国の王女様をひとりで行かせるのは心配だった。
だから思わず彼女を追って駆け出したのだけど、ちらと背後へ目をやれば、ついてきていたはずのイリッヒ兄弟の姿がない。見れば植え込みの陰で足を止めて、ふたりで話し込んでいるみたい。しかもイェルクが驚いているところを見るに、ゲイヴは早速、彼を取り込もうと動いてくれているようだ。
なら、私もそろそろ動き出さなくちゃ……!
「あら? この花は……」
ほどなく私が追いつくと、アリマニカは今度は花壇ではなく、何かに気を取られた様子で地面にしゃがみ込んでいた。
彼女がじぃっと見つめた先で揺れているのは、群れるように咲いた青い花。
そして幸い、その花の名前だけは、私もよく知っている。
「それは女神の涙ですわ」
と後ろから声をかければ、アリマニカはようやく私の存在を思い出したとでもいう風にこちらを振り向いた。
「ラクリマータ?」
「ええ、ご存知ありませんか? ビュロンの西部ではよく見かける花なんですけど」
「いえ、生憎存じ上げませんわ。小さくてかわいらしい花ですわね。ですがどうしてこの花だけ地植えなのです?」
「ラクリマータは他の花と違って、飾るために植えた花じゃないからですよ」
「……? というと?」
「好物なんです。あの子たちの」
そう言って私が指差した先には、庭園の隅に建てられた、煉瓦造りの厩舎があった。そこでは馬房の小窓から顔を覗かせた馬たちが、真下の水桶に鼻を突っ込んで水を飲んだり、のんびり秣草を食んだりしている。
その厩舎の周辺は一面、ラクリマータの花でいっぱいだ。既に馬たちが食べ尽くしてしまって、土が露出している部分もあるけれど、野草であるラクリマータの生命力は強く、来年も春が来ればまた芽を出して花を咲かせるだろう。
「うちの馬たちはみんなホーエンベルク領で生まれ育ったので、ラクリマータの花が大好きなんですよ。戦や訓練がない日は馬たちを放牧して、のびのび好きなものを食べさせていたものですから」
「まあ……ではひょっとして、この花は馬たちのために、わざわざ領地から種を取り寄せて蒔きましたの?」
「ええ、そうです。ラクリマータには馬たちの食欲を増進させる効能もあるみたいで、健康にもいいですから」
「なるほど。ではひょっとすると、赫鷲騎士団が帝国最強と謳われる所以は、この花にあったりするのかしら?」
「あはは、どうでしょう。馬たちを元気にしてくれるという点では、確かに一因かもしれませんけど」
「そういえば、フェルディナント様がかわいがっておられる白馬も、ホーエンベルク領の産駒でしたわよね? ということは、このお花を持って帰れば、喜んで食べてくれるのかしら」
「ああ、ヴァイルですね。あの子も毎年ラクリマータを食べて育ちましたから、喜ぶと思いますよ」
「では、いくつか摘んで帰らせていただいてもよろしいかしら? ぜひ食べさせて差し上げたいわ」
「もちろんです。そういうことなら、私もお手伝いします」
言いながら、私はアリマニカの隣にしゃがみ込み、春風に揺れるラクリマータの花を摘み始めた。けれどもそうして花を集めていると、領地で過ごした収穫祭の情景が思い出されて胸が軋む。
アウグシュタ王国と国境を接するホーエンベルク領は、領地一帯がシャモワ山脈にほど近い高原だったから、ラクリマータの花が咲き出すのは毎年、初夏の頃だった。帝都のあるビュロン中部や東部では、この花で花冠を編んで豊穣を願うという風習が見られないのはそのせいなのかもしれない。だけどそれなら、アリマニカが持ち帰ったラクリマータを見て、フェルディナントは何を思うだろう?
また私への罪悪感に胸を痛めてくれるのかしら。あるいは、領地で共に過ごした日々のことなんて、とっくに忘れていたりして……。
「……。あの、アリマニカ王女」
刹那、私は次の花へ伸ばしかけていた手を止めて、アリマニカを振り向いた。
ドレスのスカートを花籠代わりにせっせと花を集めるアリマニカの横顔は、終始楽しそうにキラキラしていて。
その瞳が見ているのはきっと、大地を濡らす女神の涙ではなくて、この花を持ち帰ったときのフェルディナントの笑顔なのだろうな、と思う。
「あ、はい。なんでしょう?」
「その……フェルディ……ナント殿下のこと、なんですけど」
「……? はい、フェルディナント様がどうかされましたか?」
「え、えっと……最近、殿下のご様子に、何か変わったところはありませんか? どこか具合が悪そうだったりとか、誰かと仲違いしてたりとか」
「変わったところ……ですか? どうでしょう……わたくしの知る限りでは、侯爵令嬢とのご関係が険悪になってしまわれたことくらいですけれど」
「うっ……い、いえ、それは自覚してるので、他に誰かの恨みを買ったりしてないかな、と」
「え? どうしてそんなご心配をなさるのです?」
「いえ、その……以前、私との婚約を快く思わなかった貴族と対立したときに、殿下はたくさん敵を作ってしまわれたので。なのにその私との婚約を突然破棄したなんてことになったら、じゃああのときの粛清は何だったのかと、怒り出す貴族もいそうだなと……」
実際、以前のループでは、同様の理由でフェルディナントへの憎しみを募らせた貴族の子弟が、彼を暗殺するという凶行に及んだこともあった。
しかも私の知る限り、三回は同じ理由で殺されているはず。
ただ、厄介なことに、フェルディナントを襲う死の原因はループごとに違っていて、今回も同じ死に方をするとは限らない。
これが彼を救うことを難しくしている要因のひとつだ。
現に過去には、お父様やイェルクに頼んでフェルディナントの警固を厳重にしてもらい、暗殺や不慮の事故による死を防ごうと試みたこともあった。けれどもそういうときに限って、彼は突発的な病や防ぎようのない災害で命を落としてしまう。
だから今回もたぶん、アリマニカに「近い将来、フェルディナントが死んでしまう」と告げるだけではダメだ。周りがいくら警戒したって、最後はフェルディナント自身が信じて対策してくれなくちゃ彼の死は防げない。そのためにはきっと、アリマニカの信用と説得が不可欠になる。となればまずは、私に敵意がないことをアピールしつつ、のちのちのための伏線を撒いておかないと……。
「うーん、そうですわね……今のところは別段、そういった兆候はないように思いますけれど、侯爵令嬢のご心配ももっともですわ。念のため、フェルディナント様にも周囲の反応を警戒されるよう、お伝えしておきます」
「……! あ、ありがとうございます! あ、あと、これは私の考えすぎかもしれないんですけど、ここ最近、殿下の顔色がよくない気がして……お見かけするたびに悪くなっているような気がするので、しばらく定期的に医師の診断を受けるよう言ってもらえませんか? 王女様が気にかけてくだされば、殿下も素直に従うと思うので」
「まあ。それはもちろん構いませんけれど……侯爵令嬢って、ちょっと変わった方ですのね」
「え?」
「だって、殿下の交友関係にはまったくの無関心でいらっしゃるのに、殿下ご自身のことはそんな風にご心配されるだなんて、何だかちぐはぐじゃありませんか? そのご様子だと、殿下のことも普段からずいぶん気にかけていらっしゃるようですし……」
「あ、あー、そ、そこはほら、一応、幼馴染みとしての情はありますから! 何より殿下は、フランツ陛下唯一のご継嗣でいらっしゃるわけで、臣下として心配するのは当然というか……え、えと、殿下ってああ見えて、昔からちょっと抜けているというか、おっちょこちょいなところがあったりしますし」
「まあ。あのフェルディナント様が?」
「そ、そうなんですよ! 階段から足を滑らせて落っこちたりとか、転んで家具に頭をぶつけたりとか、しょっちゅうで! でもそういうのって命に関わることなので、もうちょっと気をつけてほしいっていうか!」
「確かに、それは……一国の皇子としては、やや不注意が過ぎますわね」
「でしょう!? な、なので私、どうしても心配になっちゃって! だからこれからはアリマニカ王女に、殿下を傍で守っていただけたらな、と……」
頭を掻いてそう言いながら、瞬間、ズキリと走った胸の痛みに、私は気づかないふりをした。だって、これでいいのよ。こうするしかないの。
私の目的はあくまでも、ループを終わらせて未来を取り戻すことなんだから。
たとえその未来に、フェルディナントがいないとしても。
「アシュタリゼ侯爵令嬢」
ところが刹那、至近距離から名前を呼ばれて我に返った。
はっと視線を上げればすぐそこに、紫水晶みたいなアリマニカの瞳がある。
彼女は正面からじっとこちらを見つめていて──私はその瞳に、何だかすべてを見透かされているような気がして。かと言って目を逸らすこともできず、どうしたものかとたじろいでいると、不意に紫水晶が微笑んだ。
「貴重なお話をありがとうございます。フェルディナント様のことは必ずやわたくしがお守りいたしますわ。あの方の未来の妻として」
「……! え……ええ……殿下のこと、どうか、よろしくお願いします」
「もちろんです。ですから侯爵令嬢もどうか心置きなく、ゲイヴ様と素敵なご家庭を築かれてください。宮廷では色々な噂をする方がいますけれど、わたくしはおふたりのこと、応援しますわ。だって、心から愛し合うふたりが夫婦として結ばれるだなんて、とっても素晴らしいことですもの!」
「そ……そう、ですよね。ありがとうございます……」
「ちなみに、先程のフェルディナント様のお話なのですけれど……」
「え? あ、か、顔色が優れないって話ですか?」
「いいえ。幼い頃のあの方の、おっちょこちょいなお話ですわ。そのお話、ぜひゆっくり聞かせていただきたいのですけれど」
あ、しまった。実を言うと、あれはループの中で私が観測したフェルディナントの死因の話であって、子どもの頃の話じゃない。
だから深掘りされるとボロが出ちゃうかも、と私が内心冷や汗をかいていると、アリマニカはにわかに立ち上がり、困ったように苦笑した。
「でも残念ですわ。わたくし、今日はもうそろそろ帰らないといけないんですの。このあと別の予定が入ってしまっていて……」
「え……あ、そ、そうなんですか。じゃあ、そろそろイェルクと合流した方がよさそうですね」
「ええ。ですが、侯爵令嬢。また後日、日を改めて、先程のお話の続きをしていただいても?」
「え、ええ、もちろんです! 私ももっと色々、王女様とお話ししたいので……」
「まあ、よかった! では、よろしければこちらを受け取っていただけます?」
そう言って、ドレスの上に乗せた花が零れないようアリマニカが慎重に取り出したのは、一通の封筒だった。何だろうと思って受け取れば、私が中身を確認するよりも早く、アリマニカが笑って言う。
「そちらは次の星の日に帝立劇場で開かれる、歌劇の入場券ですわ。本当は今日、突然押しかけてしまったお詫びにとお持ちしたのですけれど、当日はわたくしも足を運ぶ予定でおりまして……よろしければそのときに、またお会いしませんか?」
「えっ……! そ、そんな、わざわざありがとうございます……! わ、私、歌劇とかあまり詳しくないんですけど……いいですか?」
「もちろんですわ! では劇の閉幕後、劇場内のサロンで開かれる感想会で合流するというのはいかがでしょう? 感想会といっても格式張ったものではなくて、参加者が自由におしゃべりする場ですので、そちらでぜひ今日のお話の続きを伺いたいわ」
「分かりました! じゃあ当日、ぜひまたお話ししましょう」
「ありがとうございます! あ、ちなみに、入場券はふた組ご用意いたしましたから、よろしければゲイヴ様とおふたりでいらしてください。とっても素敵な恋愛劇と評判の演目ですから」
「わあ、そうなんですね、楽しみです!」
──正直言うと、私は歌劇の中でも恋愛劇なんて一番興味がない。
でも、これはアリマニカと友情を深めるチャンス……!
今はとにかく話を合わせて、彼女との距離を縮めなきゃ。こうやってお互い歩み寄っていけば、案外彼女とも本当に、いい友達になれるかもしれないし。
「では、アシュタリゼ侯爵令嬢。ゲイヴ様も、本日はご歓待、どうもありがとうございました。ご機嫌よう」
ほどなく庭園内で私たちを探していたイリッヒ兄弟と合流すると、アリマニカは丁寧な淑女の礼をして帰っていった。彼女が乗り込んだ馬車が遠ざかっていくのを見送りながら、ようやく人心地ついた私は、はあ、と思わずため息をつく。
「つ、疲れた……何だか一日中、剣の立ち合いをしてた気分だわ」
「大丈夫か、リゼ? ふたりきりでいる間、王女に何か言われたんじゃ……」
「ううん、大した話は何も。フェルディナントのことを気にかけてもらえるよう、ちょっとだけ忠告はしておいたけど、本題に踏み込むにはもう少し時間がかかりそうかも。ゲイヴの方はどうだった?」
「俺も〝殿下に危険が迫っている〟と、イェルクにそれとなく話しておいた。しかし、あれが君と俺の関係をやたらと勘繰るものだから、その点については〝殿下への謀叛の噂があって、今の状態だと真っ先に疑われるのはホーエンベルクだから、皇家への敵意がないことを示すためにお嬢様とひと芝居打っている〟……ということにしてしまったんだが、構わなかったか?」
「あら、いいんじゃない? イェルクならむしろ、そっちの方が素直に信じると思うわ。私たちが必死にラブラブの演技をしてる間も、彼だけ詐欺師を見るような目をしてたから、ちょっと心配だったのよ」
「詐欺……というわけでもないんだが……」
「え? 何か言った?」
「い、いや……弟は今まで以上に気をつけて警備に当たると言っていたし、あとは王女を味方に引き込めれば、布陣はより磐石になるな」
「そうね。意外と好感触だったし、このままうまくいくといいんだけど。あの様子を見る限り、王女もきっとフェルディナントに死なれちゃ困るでしょうから……」
──アリマニカはたぶん、本気でフェルディナントを愛してる。
ただの政略結婚とか、ホーエンベルクへの当てつけだとか、そんなもののためじゃなく、フェルディナントのことが好き……なんだと思う。
なら彼女だって私のように、何が何でも彼を守りたいと願うはずだ。
……願ってほしい。私はもう、彼の隣にはいられないから。
(それがあなたの望んだ未来のかたち。そうでしょう、リゼ?)
こんなに想い続けてきた私より、元敵国のお姫様に目移りしちゃうフェルディなんて大嫌い。だから、これでいいはずよ。そう自分に言い聞かせる。
いつの間にか足もとに一輪落ちた、ラクリマータの花を見つめながら。




