さよなら、恋心
舞踏会の翌朝、私がホーエンベルク邸の庭を一望できるバルコニーで朝食前の紅茶を啜っていると、まだ早朝にもかかわらず、お父様がやってきた。
「リゼ、聞いたぞ。昨夜の舞踏会でのことだが……」
ヘルマン・フォン・ホーエンベルク侯爵。またの名を『百勝公』。帝国中の人々から憧憬と畏怖を込めてそう呼ばれているのが、私の自慢のお父様だ。
ホーエンベルクは代々騎士の家系で、かつては、帝国の辺境を守護する一族だった。けれども帝国が周辺諸国を平定した戦争で、お父様は一騎当千・百戦百勝の大活躍。おかげで今やホーエンベルクは、敵味方から恐れられる存在となっている。
そこに目をつけた皇帝陛下の招聘により、お父様は権威ある帝国の象徴として、皇家直属の帝国騎士団長に任じられることとなった。そうして、この帝都ユングフラウで女だてらに、稀代の騎士であるお父様の薫陶を受けながら暮らしているのがこの私、アシュタリゼ・フォン・ホーエンベルクというわけだ。
領地の方は今はお兄様がしっかり治めてくださっているし、皇室一族からの信頼も厚いホーエンベルクはまさに順風満帆──の、はずだったのよね。昨夜、私が皇太子であるフェルディナントに、突然の婚約破棄を突きつけられるまでは。
「あら、おはようございます、お父様。昨夜はせっかく訪ねてきてくださったのに、お話しできなくてごめんなさい」
とはいえ、私がこれを経験するのも既に一〇〇回目。おかげでまったく動じることなく──何なら昨夜の舞踏会から戻ったあとも、即行でベッドに入って爆睡してしまったのでお父様に会えなかった──爽やかな朝にぴったりの笑顔を返すと、途端にお父様はぶわっと涙ぐんで、ガーデンチェアの上の私をいきなり抱き締めた。
「おお、おお、愛しの我が娘よ! 公衆の面前で恥をかかされたばかりにもかかわらず、父を心配させまいとするその笑顔の、何と健気でいたわしいことか……!」
「あらあら、そう言うお父様もお元気そうで安心したわ。少し前のお父様なら、今にも憤死しそうなお顔で現れて、こんな風に娘の骨をミシミシ言わせたりしなかったもの」
「おおっ、すまん! うっかり気が昂って……危うく『ホーエンベルクの紅玉』を傷つけてしまうところだった」
「うふふ、心配しないで、お父様。私、この程度のことで傷モノになるほどヤワではなくってよ?」
まるで猫でも愛でるみたいに、今度はお母様譲りの私の金髪に頬擦りし始めたお父様は、戦場の姿からは想像もできないくらい情けない顔をしていた。
全体的に彫りが深くて、額に古傷まである強面にもかかわらず、お父様は昔からとんでもない親バカだ。と言ってもお父様がこうなるのは私に対してだけで、お兄様の前ではちゃんと厳格な父親なのだけど。これはたぶん、数年前の戦で、お父様の軍勢を恐れた敵国が私を誘拐し、帝国への離反を迫った事件が原因だろう。
お父様はあのとき、まだ幼かった私を恐ろしい目に遭わせてしまったことを、今も気に病んでいるみたい。そんなに心配しなくても、十八になった私はもう、過去の悪夢に怯えてばかりいた子どもじゃないんだけどな。
「それで、お父様──例の話は信じてもらえた?」
「……ああ。にわかにはとても信じられんが……ゾフィー」
「はい、旦那様」
「少し娘とふたりで話がしたい。朝食の支度ができたら呼んでくれ」
「かしこまりました」
侍女のゾフィーは一礼すると、静々と寝室をあとにした。昨夜、私が就寝したあとにお父様が訪ねてきた、と教えてくれたのも彼女だ。でもって、去り際にお父様の分の紅茶もさりげなく用意していくあたりは、さすが有能。昔から「お転婆」と揶揄されてばかりの私とは正反対の侍女だけど、こちらが何も言わずとも察して動いてくれるゾフィーの存在にはループ中、いつも救われてきたのよね。
「して、リゼ。おまえが何度も同じ時間を繰り返しているというあの話……どうやら真であるようだな」
「ええ。全部言ったとおりになったでしょ? フェルディ……ナントはアリマニカ王女との結婚を選んで、私との婚約関係は一方的に破棄してくるって」
小鳥の囀りを聞きながら、私が口もとにカップを寄せつつそう言えば、テーブルの向こうに腰を下ろしたお父様は、険しい顔で庭を睨んだ。
そう、私はもう最近のループでは、自分が同じ時間を何度も繰り返していることを、こうして周囲の人に明かすようにしている。以前はこんな話をしたところで到底信じてもらえないだろうと思ったし、実際、簡単には信じてもらえなかった。
でも、繰り返すループの中で見えてきたいくつかの確定事項を予言することで、私の証言が夢か空想と片づけられる回数は確実に減りつつある。
「はあ……アウグシュタ王が陛下に取り入り、ひそかに皇子と王女との婚姻を打診しているという話の裏が取れた時点で、おまえの予言を信じてはいたが……だとしても、まさかあの皇子が我々に何の相談もなく、婚約解消を押しつけてくるとは」
「まあ、私も最初の一〇ループくらいは信じられなかったわよ。だからきっと何か理由があるはずだと思って、必死に調べようとしたんだけどね。ところがフェルディナントは私のことを完全に拒絶して話し合いにも応じてくれないし、手紙も全部無視されるしで……」
「くっ……いかな皇太子とはいえ、許せん……我が娘の寛大な心をことごとく踏みにじるとは……!」
「過去のループのお父様もそう言って、何度か本気でクーデターを起こそうとなさったの。それを止めるだけで終わってしまったループもあるから、今は怒りを鎮めてちょうだいね」
「ううっ……だが、ホーエンベルクがこのような恥辱を受けるなど耐えられん! 陛下や皇子は、我々が今日までどれほど帝国の防衛と拡大に尽力してきたとお思いか! ましてやおまえは、幼い頃から陰に日向に皇子を支えてきた一番の理解者だというのに……!」
「まったくねぇ。一〇〇ループかけても、私たちがこんな目に遭わされる理由がちっとも見えてこないんだから、困ったものだわ。まあ、そこは私が途中から、理由を解明するより、ループを終わらせる方法を探す方に注力し始めたせいでもあるんだけど……」
たった一〇〇日、されど一〇〇日。
そのループを延々一〇〇回も繰り返してきた私は、すでに三十年近い歳月を同じ時間の中に閉じ込められて生きてきた。おかげで体は十八歳のままでも、もうずいぶん年を取ってしまったような気がするし、フェルディナントではなく私が死んだらどうなるか、を確かめるべきかと真剣に悩んだことも一再ではない。
何せ、ここまでのループで彼から受けた仕打ちは散々だった。
最初の婚約破棄は、このホーエンベルク邸で起きた火災が原因。
私がそこに巻き込まれ、顔に火傷を負った途端に婚約の解消を言い渡されて……以来、フェルディナントは見舞いにすら来てくれなかった。他にもちょっとした勘違いから、私がアリマニカ王女に嫉妬して彼女に狼藉を働いたという噂を流されたり、婚約破棄を事前に食い止めようと動いてもすげなく対応されて、
「君のようながさつな女性は、前々から皇妃にふさわしくないと思っていた」
なんて言われたり。ならばと婚約解消の阻止は諦めて、せめてループを終わらせるために彼の死を食い止めようと動き出してからも徹底的に拒絶され、視界に入ることさえ許してはもらえなかった。
──なら、もう、どうなったっていいや。
そんな思考が、この手にナイフを握らせたこともあったけど。
けれどもし私が死んだ時点でループが終わるとして、それがループだけでなく、私という存在の永遠の終わりをも意味するとしたら?
(……それだけはイヤ。絶ッッッ対にイヤ! こんな辱しめごと大人しく自死を受け入れるなんて、ホーエンベルクの血が許さないわ)
皇太子フェルディナント──いや、フェルディ。
私の幼馴染みで、ずっとずっと大好きだったひと。
かつて私は生涯をかけて彼を愛し、守り抜くとそう誓った。でも、今は彼への愛なんてものは完全に擦り切れて、憎しみすらも通り越し、あるのはほとんど〝無〟に近い感情だけだ。だって、いくら誓いを神聖視する騎士の家の娘といったって、一〇〇回もこんな仕打ちを受ければそうなるのは当然じゃない?
(もう彼を愛するのも憎むのも、疲れちゃった)
だから今の私には、フェルディナントが私との婚約を解消したがる理由なんてどうでもいい。私はとにかく、この終わりの見えないループから解放されたい。
それができたら、あんな男のことはきれいに忘れてのびのび生きるの。領地に帰って、お兄様や赫鷲騎士団のみんなと、昔みたいにワイワイしながら……。
「というわけで、お父様。かわいい娘の一生のお願いですもの。例の作戦、許可してくださるわよね?」
朝日の向こうにそんな自由な未来を透かし見て、私は尋ねた。
するとお父様もじっと手摺の向こうを見つめたまま眉を寄せ、顔色を曇らせ──やがて頭を抱えながら、おいおいと男泣きに泣き始める。
「ぐっ……ぐぐぅ……いくら愛しのリゼのためとはいえ、根も葉もない醜聞を放っておかねばならんとは……それだけでもわしの胸は張り裂ける寸前だと言うのに、加えてヤツとの婚約の承認など……!」
「あらお父様、ご自分の副官がそんなに信用できないの? ゲイヴがダメなら当初のアイディアどおり、トゥルペンの王子に嫁いだっていいのよ?」
「ダメだ! いくらものの試しとはいえ、あんなふしだらな王子のもとへおまえをやるなど、それだけは絶対にダメだ!」
と、駄々っ子みたいに騒ぐお父様のあんまりな泣き顔に、私は思わず笑ってしまった。お父様にとってはまったく笑いごとではないのでしょうけれど、ただ、どんなループでも必ず私を信じて、全力で守ろうとしてくれるお父様の優しさが嬉しくて……。
「では、どうか手筈どおりに。信頼してるわ、お父様」
そんなお父様の気持ちに少しでも報いたい一心で席を立った私は、後ろからそっと額の古傷にキスをした。
するとお父様はまたおいおい泣き出して、がばりと私を抱き寄せる。
「おお、リゼ、リゼ! おまえのためなら、父様はどんな苦難でも乗り越えてみせるぞぉ……!」
「ふふっ、お父様、痛いったら! ふふふふふっ……」
私が今なお心折れずに、こんな風に笑っていられるのは家族のおかげ。
だからこそ絶対にループを終わらせたいの。そして、まだきっとそこにあるはずの未来を──私が幸せを掴む未来を、お父様やお母様に見てもらいたい。
というわけで改めてさよなら、恋心。あなたのことはもうすっかり大嫌いだけど、どんなに拒絶されようと、絶対に救ってやるんだから……!




