どうか幻のままでいて
バスラー伯爵邸での夜会から一夜明けた、翌日。
私とお母様が今後の展開に備えるべく、ゲイヴを屋敷に招いて話し合いの席に着いていると、執事が予想だにしていなかった知らせを持ってきた。
「ええっ!? あ、アリマニカ王女がうちに来るですって!? しかも今日、これから!?」
と、思わず身を乗り出してしまった私の向かいでは、執事が届けてくれた封書の中身を確認したお母様が、珍しく難しい顔をしている。隣ではゲイヴもまた強張った表情で、手にしていた紅茶のカップをカタリと置いた。
「……こちらの想定より、ずいぶん動きが早いですね。王女の独断でしょうか?」
「どうかしらね。イェルクの話ではこのところ、殿下は王女と頻繁に接触を図っていたのでしょう? だとすれば、殿下の差し金という可能性も捨て切れないわ」
「け、けど、だからって、どうしてわざわざ王女様を? フェルディナントの性格なら、まずはイェルクあたりを使って遠巻きに探りを入れてくるだろうと思ってたのに……」
「あるいはホーエンベルクの報復を警戒しての、牽制のつもりかもしれないわ。属国の王女とはいえ、王族は王族ですもの。身分だけで言えば、あちらの方が侯爵家より上なのだし」
「……ですが、仮にこれが殿下の差し金ならば、アシュタリゼお嬢様の計画が成功したとも言えます。今までは、殿下の方からお嬢様に接触してくることはなかったのでしょう?」
「え、ええ……正直、こんなに簡単にフェルディナントを釣り出せるなら、最初からこうしてればよかったと思うくらい。何だか拍子抜けというか……」
「オホホ。昨夜のゲイヴの名優ぶりが、それだけ殿下を動揺させたということね。よくやってくれたわ、ゲイヴ」
「お……恐れ入ります」
とお母様から褒められたゲイヴは目を泳がせて、少し気まずそうというか、気恥ずかしそうにしていた。それを見た私は内心、ゲイヴもこういう反応をすることがあるんだと驚いたものの、またひとつ彼の新しい一面を見られたのが嬉しくて、くすりと小さく笑ってしまう。
(だけど、ゲイヴの言うとおりだわ。これは一〇〇ループ目にしてようやく掴んだチャンスよ。正直、王女様の相手をするのは気が重いけど……前々からなーんか苦手なのよね、あの人。最近のループではほとんど関わってこなかったから、油断してた──)
アリマニカ・アウグシュタ。五年前にお父様が先陣を切って征服したアウグシュタ王国の王女様で、今は帝立学院に通う一年生。
年齢は確か、私のふたつ下だったはず。私は四年前の開校と同時に学院に入学して三年で卒業したから、幸いと言うべきか、彼女と学園生活を共にすることはなかった。おかげでもともとはあまり接点がなかったのだけど、向こうから近づいてくるようになったのは二度目のループからだ。
最初はフェルディナントの婚約者である私のところに「彼のことを色々教えてほしい」とやってきて、幼い頃の話や、趣味や食べ物の好みなんかを聞きたがった。
というのもアリマニカは学院での在学中、ユングフラウ宮殿で賓客としてもてなされている。だからこの機に帝国と王国の和平のため、年の近いフェルディナントと誼を通じておきたいのだ、と本人はさも無害そうに笑っていたけれど、私はその笑顔をどうしても信じられなかった。だって私との婚約を破棄したフェルディナントが、ほどなく彼女と婚約を交わすことを知っていたから。
だとしたら彼女の行動は、フェルディナントの婚約者だった私に対する宣戦布告なのではないか。そういう嫌悪と猜疑心とが、どうしても拭い切れなくて。
(おまけに初期の頃のループでは、私と会ってた王女が勝手に転んで怪我したせいで、私が王女を突き飛ばしたとか、フェルディと王女の仲に嫉妬したとか言われてひどい目に遭ったのよね。とはいえ今の私はあの頃とは違う。そんなにフェルディとくっつきたいなら、どうぞご自由にってなもんよ。そう思えば、前よりは冷静に話ができるだろうし──何より彼女を味方にすれば、今度こそフェルディを説得できるかも)
彼と直接話ができないのなら、宮廷勤めのお父様やイェルクに頼んで伝言してもらえばいい。そう思って、これまでに何度も試したけれど、結果はうまくいかなかった。フェルディナントの暗殺計画があるらしいとか、彼が死んでしまう予知夢を見たとか、とにかく色々な伝え方で警告したのに、どのループでも全然信じてもらえなくって。あげくの果てには、
「アシュタリゼはそんな陳腐な虚言を弄してでも、俺の気を引きたいんだろう」
なんて嘲笑されて、まったく埒が明かない始末。そこで思いついたのが今回の悪役令嬢作戦──私がフェルディナントのことなんて眼中になかったことにすれば、彼の受け止め方も変わるはず──だったわけだけど、ここでアリマニカが出てきてくれるなら話は別だ。私の話には耳を貸さないフェルディナントでも、愛しの王女様の言葉なら信じようという気になるかもしれない。
正直、ゲイヴとの婚約の件すらも「俺の気を引きたいだけ」なんて戯言でスルーされたらどうしようと思ってたから、これは僥倖という他なかった。
このループは、ずっと同じ一〇〇日間を繰り返しているとはいえ、すべての人々の言動や起こる出来事まで同じというわけじゃない。
(だから今回を逃したら、こんな機会は二度とないかも……だとしたら絶対に失敗したくない。何とかうまくやらなくちゃ。フェルディの死を回避するために……)
と、私がソファに戻って体を硬くしていると、そのとき、膝の上できつく握った両の拳に、ふっとゲイヴの手が重なった。
驚いて振り向けば、彼は真剣な眼差しで、まっすぐに私を見つめて言う。
「大丈夫だ、リゼ。王女との面会には、俺も同席する。王女の相手をするのがつらいなら、俺が代わりに話してもいい」
「ゲイヴ……」
「君はもう充分耐えたし、頑張った。だから、遠慮なく俺たちを頼ってくれ。俺も君の力になりたい」
言いながら、両手を包み込んでくれたゲイヴの手つきや声の響きがあまりにも優しすぎて……私は不覚にも、泣いてしまいそうだった。
(君はもう充分頑張った、って……それ、私がずっと、フェルディに言ってほしかった台詞──)
──彼の死を食い止めて、ループを終わらせて。そうしたら今までのことを全部フェルディナントに打ち明けて、好きなだけ泣いて、最後はきっと優しく抱き締めてもらえるはずだと一途に信じていた頃の記憶が、今さら胸を締めつけた。
それをゲイヴが代わりに言ってくれたことが嬉しい。だけど同時に、彼の優しさは私が主家の娘だから向けられているだけだと思うと、ひどく苦しい。
「……ありがとう、ゲイヴ。でも私なら大丈夫。このループは、自分の手で終わらせたいの。ただ、同席してもらえるのは心強いわ。私がヘマしそうになったら、うまくフォローしてくれる?」
「もちろん、それなら俺の得意分野だ。何せ昔、マヌエル様のお説教から逃げ回ってばかりいた君を、何度フォローしたか分からないからな」
「うっ……そ、そりゃ、お兄様に叱られるのがイヤで、あなたを盾にしたこともあったけど……」
「ホホ。やはりゲイヴを新たな婚約者として迎えたのは正解だったわね。うちのおてんば娘を任せるのに、彼以上の適任者はいないわ」
「お、お母様まで……っ!」
「正直ね……わたくしは、あなたとフェルディナント殿下との婚約に不安があったのよ、リゼ。あの方は昔からあなたを支えるというより、むしろあなたに支えられてどうにか立っているという風だったでしょう? 他にも、ホーエンベルクがこれ以上力を持つことを恐れた諸侯が、あなたを排除しようと躍起になっていた時期もあったし……ですから包み隠さず本心を言えば、少しほっとしているの。あなたと殿下が心から愛し合っていたことは知っているけれど、あなたの幸福のためには、こうなるのが一番だったのではないかしらとね」
と、お母様が急に真面目な顔で言うものだから、私は思わず言葉に詰まった。
お母様の本音が刃となって、ズキリと私の胸を刺しただなんて、とてもじゃないけど言えなかった。
(でも……お母様。フェルディはそんな連中から私を守るために『氷血皇子』の噂を利用して、必死に戦ってくれたのよ。本当は誰よりも優しくて、平和を一番に愛する彼が……)
三年前、私とフェルディナントの婚約が正式に発表されたことに端を発した、貴族たちの粛清事件。あのときホーエンベルクを不法に陥れようとした彼らを裁くため、フェルディナントは徹底的に犯人たちを追及し、断罪し、やはり『氷血皇子』の噂は本物だったのだと人々に信じさせた。
だけど私は、あんなに優しかったフェルディナントが、私のために人々から「血も涙もない人間だ」と謗られ続けるのが悲しくて……だからこれからは妻として、彼を支えていきたいと思ったの。
その想いすら、今はもう幻だったと割り切った気でいたけれど。
(なのに、どうして……どうして、こうなっちゃったんだろう──)
──ねえ、フェルディ。
やっぱりこれまでのこと全部、私のうぬぼれだったのかな。
それとも気づかないうちに、私はあなたを失望させてしまったんだろうか。
本当は、会いたい。会ってもう一度だけ話がしたい。
だけどその願いが叶うことは、たぶんもう、ないのよね?




