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きみの存在意義  作者: 柊原 ゆず


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第三話 新入社員


 数日後。

 『株式会社メティス・テクノロジー』の特殊防衛部門オフィスには、いつものようにキーボードを叩く音と、穏やかな日常の空気が流れていた。


「いやー、参りましたよ!まさかこんなに包帯巻くことになるとは……あはは!」

「全く……君の能天気さには呆れるよ。仕事に支障は出ないだろうな」

「大丈夫だって、凪!痛いのは腹と肋骨くらいだから!」

 頭と胸部に痛々しい包帯を巻いた夕日 奏が、同僚たちに向かって豪快に笑っている。同じく、シャツの下に包帯を巻いた水谷 凪は呆れたように溜息をつき、胡桃沢 小春は「無理しないでね」と心配そうに奏と凪を見つめていた。

 この部署の人間は、大半が対ミレトス防衛部隊『機動戦隊アイギス』の関係者だ。そのため、社内でもミレトスとの戦闘の話はごく日常的に飛び交っている。

 三人のやり取りを横目で見ながら、一般の事務員として潜り込んでいる尖 琴音は手元の資料に視線を落とし、安堵していた。

 あの傷は間違いなく、カケルがボコボコにした時のものよね……。翌日に動けるくらい、傷が深くなくて良かったわ。


「皆、少し手を止めて聞いてくれ」


 そこへ、書類の束を持った凪がフロアの中央に立ち、声を張った。


「今日から、我々の部署に新しいメンバーが配属されることになった。入ってきてくれ」


 凪の呼びかけに応じ、オフィスの自動ドアが開く。真新しいスーツに身を包んだ一人の青年が、フロアに入ってきた。


「今日から配属になりました、阿久戸 翔です!未熟者ですが、一生懸命がんばります。よろしくお願いします!」


 人懐っこい笑顔。元気の良い挨拶。しかし、その姿を見た瞬間、琴音の心臓は文字通り跳ね上がり、血の気が一気に引いていった。

 カケル……!?

 黒かった髪は眩しい金髪に染め上げられ、後ろへかっちりとオールバックに撫でつけられている。瞳の色はカラーコンタクトだろうか、透き通るような青色に変わっていた。一見すると別人のような出で立ちだが、そこから放たれる高貴な雰囲気は、どこか琴音が敬愛するボス――千石京之丞を彷彿とさせた。

 なんで千石様の真似みたいな格好を……?!って、違う!なんでこんな所にいるのよ!?しかも名前そのままじゃない!!

 琴音の脳内で絶叫が響き渡る。敵の本拠地に、よりにもよってこの男が現れるなど、悪夢以外の何物でもない。しかし、琴音の焦りとは裏腹に、奏や小春の反応は至って普通だった。


「おっ、なんかシュッとしてて雰囲気ある新人だな! 俺は夕日奏。よろしくな、翔!」

「胡桃沢小春です。よろしくお願いしますね」

「はいっ!よろしくお願いします、夕日先輩、胡桃沢先輩!」


 奏達は目の前で人懐っこく笑う青年が、数日前に自分たちを半殺しにしたミレトスの狂犬だとは全く気づいていないようだ。琴音が一人でパニックに陥っていると、凪が眼鏡を光らせて翔の前に立った。


「阿久戸くん。我が社は特殊な業務も扱っている。……君がここで『暴れる』ことのないよう、期待しているよ」


 その静かな声には、明らかな牽制が含まれていた。

 アイギスの上層部と、冷静で頭の切れる凪だけは、彼の正体を完全に把握していたのだ。その上で、どこに潜伏しているか分からないよりは手元に置いて監視する、という判断を下したのである。


「はいっ!俺、大人しく『お仕事』しますから」


 凪の鋭い視線を真正面から受け止め、翔は悪びれもせずヘラッと笑い返す。

 えっ……?ちょっと待って。凪くん……もしかして正体に気づいた上で牽制してるの!?

 何も知らない奏たちと、正体を知りながら腹の探り合いをする凪と翔。その恐ろしい空間に、琴音の胃痛はさらに加速する。


「しかし凪、カケルの一般業務の指導はどうするんだ? 俺たちは出撃任務があるし」


 奏の尤もな疑問に、凪は少し考える素振りを見せた後、淡々と告げた。


「そうだな。……尖さん。申し訳ないが、彼の一般業務の指導係をお願いできるか?彼が何か『分からないこと』があれば、すぐに私に知らせてくれ」

「へ……?!あ……、は、はい……」


 断れるはずもない。一般事務員の琴音は、ひきつった笑顔で頷くしかなかった。翔はパァッと顔を輝かせると、小走りで琴音の隣のデスクへとやってきて、ドカッと隣の椅子に座った。


「尖先輩っ!よろしくお願いします!俺、右も左も分からないんで……いろいろ教えてくださいね!」


 翔はいかにもやる気に満ちた新入社員を演じている。だが、凪達がそれぞれの業務に戻り、二人の間の距離が物理的に縮まった瞬間だった。机の下の死角。琴音の膝の上へ、翔の手がそっと這い上がってきた。


「ひっ……!」

「……やっと一緒にいられるね、リリス様♡僕、ずっと我慢してたんだよ……?」


 翔は琴音にしか聞こえない、甘く、ねっとりとした声で囁いた。その青い瞳が、至近距離で三日月のように細められる。金髪のオールバックという、千石を模したようなその姿。それは間違いなく、先日ボスへ向けた激しい嫉妬心の表れであり、琴音に対する『ボスじゃなくて、僕を見て』という歪なアピールに他ならなかった。だが、この歪な真意に琴音が気付くことはなく、不可解な翔の行動に恐怖を抱いていた。


「これから毎日、僕の教育……よろしくね、リリス様♡」

「……っ、ここは会社よ。手を離しなさい」


 琴音は周囲に気づかれないよう顔を前へ向けたまま、口の端だけを動かして小声で警告する。


「え〜?」

 

 しかし、翔は不満げに喉を鳴らし、あろうことか膝の上を撫でる手をさらに奥へと這わせようとした。


「琴音さーん!ちょっとここの資料のことなんだけど」


 その時。不意に奏が琴音のデスクへと近づいてきた。資料を指差すため、奏が琴音の背後から身を乗り出し、その顔が琴音の肩口に接近する。


「この続きの資料って、昨日のフォーマットに合わせればいいのかな?」

「あ、ええっと……」


 琴音が返事をしようとした、次の瞬間。机の下で琴音の足に触れていた翔の手に、ギリッ……と恐ろしいほどの力がこもった。「痛っ……!?」と声を上げそうになるのを、琴音は必死に喉の奥で飲み込む。隣の席の翔を見ると、その透き通るような青い瞳から、ごっそりとハイライトが消え失せていた。鷹のように細められた瞳孔が、琴音に馴れ馴れしく接近する奏を射殺さんばかりの殺意で見つめている。

 や、やばいやばいやばい! カケルの殺気が漏れ出してる!!

 今にも翔が、机を蹴り飛ばして奏の首をへし折りかねない。琴音は咄嗟に奏の手からバサッと資料をひったくった。


「わ、分かりました夕日くん!それ、私が後で作成しておきますから!夕日くんは怪我の身ですから、座って休んでいてください!」

「えっ、マジで!?琴音さんホント優しいっすよね!いつもありがとうございます!」


 人の良い奏は琴音の異常な焦りにも、翔から放たれるどす黒い殺気にも気づかず、呑気に笑って自分の席へと戻っていった。


「…………」

「はあ……」


 琴音がホッと胸を撫で下ろしたのも束の間。


「……ねえ。あいつ、リリス様との距離近すぎない?」


 地を這うような、恐ろしく冷たい声が隣から聞こえた。


「殺していい?」

「駄目よ!バカなこと言わないで!」

「なんで?あいつ、僕のリリス様に馴れ馴れしく触ろうとした。目障り。腹立つ。……ムカつく」


 ギリッ、と翔の奥歯が鳴る。千石の姿を模していながら、その中身は嫉妬に狂う見境のない子供そのものだ。ここで彼を暴走させたら、琴音の『表の顔』も、組織の計画もすべて水の泡になる。


「……仕事の話をしただけよ。機嫌を直しなさい、カケル」

「やだ」


 翔は唇を尖らせた後、ふと何かを思いついたように口角を吊り上げた。そして、急に声のトーンを『新入社員』のものに戻し、フロアに響くような声で言った。


「尖先輩! すいません、給湯室の場所、教えてもらえませんか?」

「え……?」

「俺、お茶の淹れ方とかも全然分かんなくて。先輩に教えてほしいなぁって!」


 凪がチラリとこちらへ視線を向けたのが分かった。しかし、新人の案内を止める理由もなく、彼はすぐにパソコンへと向き直る。逃げ場はなかった。琴音は重い足取りで立ち上がった。


「……こちらです。阿久戸くん」


 カチャリ。

 給湯室に入り、ドアが閉まった瞬間。


「ちょ、カケル……っ!?」


 琴音の体は、乱暴に壁へと押し付けられていた。ドンッ、と琴音の顔の横に翔の腕が突き立てられる。逃げ場のない密室。すぐ目の前には、金髪オールバックの端正な顔が迫っていた。


「ねえ、リリス様。僕、すっごくイライラしてる」


 翔は甘えるように、琴音の首筋に自分の金髪をすり寄せてくる。いつもなら『犬みたいだ』と思える仕草も、彼が『ボスの姿』を模しているせいで、琴音の脳をひどく混乱させた。千石に迫られているような錯覚と、翔の狂気に対する恐怖が入り混じり、心臓がバクバクと五月蠅く鳴る。


「あいつがリリス様に近づくのも、リリス様がアイツに愛想よく笑うのも……全部、壊したくなる」

「っ……ここは、あのアイギスの本拠地よ。誰かが来るかもしれないわ」

「来たら、首を折ってあげるから大丈夫だよ」


 一切の躊躇もない、残虐な宣告。翔の手が、琴音のブラウスの襟元にするりと入り込み、その白い肌を直接撫で上げた。


「ひゃっ……!」

「僕、イイ子で我慢したんだよ。……ここで『ご褒美』、くれるよね? リリス様」


 半ば脅迫じみた、甘く重い要求。断れば、機嫌を損ねた狂犬がオフィスの外で暴れ出すのは目に見えている。琴音の胃は、かつてないほどの鋭い痛みで悲鳴を上げていた。


「……っ、わ、わかった。わかったから……!」


 琴音は震える声で絞り出し、目をギュッと瞑った。ここで翔を暴走させ、アイギスと戦闘になれば全てが終わりだ。自分の正体もバレかねない。琴音は恐る恐る背伸びをすると、千石によく似たその端正な頬にほんの一瞬だけ、触れるだけのキスを落とした。


「……これで、いいでしょ」

「え~っ、これだけ~? 全然足りないよ、リリス様」


 不満そうに唇を尖らせる翔だったが、その青い瞳は獲物をいたぶるような愉悦に満ちていた。彼の手が琴音の腰に回り、さらに深く密着しようと力を込めてきた、その時。

 コン、コン。

 静かな、しかし確かなノックの音が給湯室のドアを叩いた。


「尖さん、阿久戸くん。……少し遅いようですが、何かトラブルでも?」


 ドアの向こうから聞こえてきたのは、凪の冷静な声だった。新人を案内に行ったきり戻ってこない琴音を心配して様子を見に来たのだ。得体の知れない危険人物と、一般の事務員である琴音を二人きりにすることへの危惧からだろう。


「ッ……!」


 琴音は火のついたように翔の胸をドンッと押し返した。翔は小さく舌打ちをしたが、あっさりと腕を離し、先ほどまでの狂気を一瞬にして消し去った。

 カチャリ、とドアが開く。


「あ、水谷くん!お茶の保管場所を忘れてしまって……少し探していたんです。心配して来てくれたんですよね。ありがとうございます」


 琴音は裏返りそうな声を必死に抑え、なんとかひきつった作り笑いを浮かべた。


「水谷先輩!尖先輩に美味しいお茶の淹れ方、教えてもらってたんです!」


 翔は爽やかな新入社員の顔で、ニコニコと凪に笑いかける。しかし凪は、眼鏡の奥の鋭い瞳で二人の間に漂う不自然な空気をスッと見咎めた。


「……そうか。阿久戸くん、尖さんはあくまで一般の事務員だ。あまり彼女を困らせないように」


 それは、翔の正体を知るアイギスとしての、明確な牽制だった。


「は~い。気をつけま~す!」


 表面上は和やかに終わったやり取り。しかしその裏で、翔は凪から見えない角度で、琴音にだけ意味深な視線を送る。


『続きは、また後でね♡』


 声に出さずとも、その瞳が雄弁に語っていた。翔は未来を想像し、自らの唇をペロリと舐めた。

 もう、嫌だ……帰りたい……っ!

 凪の優しさに救われたと同時に、琴音はズキズキと痛む胃を押さえる。これから続く地獄のような日常の始まりに、琴音はただ絶望するしかなかった。


つづく

翔くんは、琴音ちゃんの前では『僕』、それ以外には『俺』と一人称を分けています。

本人的にはかわいこぶっているつもりです。

どう足掻いても勝てない相手の手綱を引かなくてはならない重責に苦しむ琴音ちゃん。

可愛い女の子は囲ってしまいたいので、どんどん窮地に陥る琴音ちゃんを楽しんでもらえたらと思います。

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