第二話 特別
翌日。
自室のベッドでぐっすりと眠り、昨日の戦闘の疲労を少しばかり回復させた琴音は、幹部用の漆黒のスーツに着替えながら、最近自分の直属となった『イレギュラーな存在感を放つ男』について考えていた。
――阿久戸 翔。
数日前、このアジトを自力で突きとめ、ボスへ加入の意思を直談判したという異常者だ。琴音は数日前、ボスである千石から直々に彼を部下として与えられ、同時に『幹部』への昇格を言い渡された。彼女が千石に拾われ、下っ端として働きだしてからまだたったの一年。異例の早さでの幹部昇進には、正直なところ強い違和感があった。自分のような実力不足の者が、と恐れ多い感情に戸惑っていた琴音だったが。
『君には期待しているぞ』
その違和感を甘く塗り潰すような千石の言葉に、琴音は完全に舞い上がってしまったのだ。辞令を受け、浮かれた気分で自室へと戻った琴音だったが、その部屋の前には見知らぬ男が待ち構えていた。
『リリス様っ!初めまして~!僕のことはカケルって呼んでね♡』
事前に千石から翔の容姿を聞いていた琴音は、目の前の男が自分の部下となる阿久戸翔であることに気付いた。人懐っこい笑顔を向けられ絆されそうになった琴音であったが、彼は組織の入団試験で最高記録を叩き出したという逸材である。この行動には何か裏があるのではと、考えざるを得なかった。
『……お前の話はボスから聞いているわ。何故、私の部下に?』
琴音の問いに、翔はうっとりとした顔で口を開いた。
『リリス様、と~ってもカッコ良かったから』
『え……?』
翔の言葉はあまりにも思いがけないもので、琴音は思わず間の抜けた声を漏らしてしまった。
『アイギスの三人が攻撃しても、傷一つ付けられなかった。一週間前にリリス様を見つけてから、ずっとずっと、頭の中でキラキラしてるんだ~』
その言葉に、琴音の心臓は大きく跳ね上がった。一週間前と言えば、情けない醜態を晒してしまったあの日だろう。国と繋がりのある有名企業のデータを盗もうとしていた彼女であったが、機械は大の苦手であった。データ取得に手間取って失敗し、あろうことかアイギスにも見つかってしまった。彼女はアイギスの三人の攻撃を優雅に避けながらも、内心はパニックになりながら逃げ出したのだ。まさか、あの醜態を見られていたとは。顔を青くする琴音の手を、翔の両手が包むように握り込んできた。
『強くて美しいリリス様の傍にいたかったから、た~くさん調べたよ』
『……ああ、そう』
『リリス様のためにい~っぱい頑張るから、たくさん褒めてね♡』
翔は握っていた琴音の手を自身の顔に寄せ、うっとりと頬を擦り寄せた。琴音の背筋が粟立つ。初対面とは思えないほどの熱量。紫の瞳は、どろどろとした得体の知れない熱を孕んでいる。琴音は手を素早く解いた。それは、理屈ではない本能からの拒絶だった。
『……私の機嫌を損ねたくなければ、馴れ馴れしく触らないことね』
恐怖を隠して睨みつけると、翔は目を細めて笑った。
『ちぇ、ざんね~ん』
――翔の表情と言葉はちぐはぐで気色が悪かった。琴音は回想を振り払い、自室の扉を開ける。すると、扉のすぐ横には待ち構えていたように翔が立っていた。
「おはよう、リリス様♡ 今日もと~っても素敵だねえ♡」
すり寄ってこようとする彼に、琴音は冷たく背を向けた。
「これからボスに謁見してくるわ。お前は自分の部屋に戻っていなさい」
「え~?僕も連れてってよ」
「私の命令が聞けないの?」
ボスへの謁見は、琴音の数少ない幸福の一つだった。あの方と二人だけの時間を邪魔されたくない。
琴音が幹部としての威厳を振り絞って鋭く睨むと、翔は押し黙った。彼女はそれを肯定の意と捉え、そのまま『ミレトス』の最深部――ボスである千石 京之丞の玉座へと向かった。
「――昨日の作戦は無事完了いたしました、千石様。目標であった施設の破壊に成功しております。邪魔に入ったヒーロー共も、カケルが退けました」
大理石の床に恭しく片膝をつき、成果を報告する。玉座で足を組む千石はオッドアイの双眸を細め、満足げに頷いた。
「ご苦労だった、リリス。お前はいつも私の期待に確実に応えてくれるな」
「勿体なきお言葉です……!」
千石の静かな称賛の声に、琴音は胸の奥が熱く弾けるのを感じた。
すべてを失い、雨の降る路地裏で震えていた自分。誰からも見捨てられた惨めな女を拾い上げ、価値を与えてくれたのは、他ならぬこのお方だ。
「あの雨の日、路傍の石ころのように転がっていたお前を拾った時は、正直どうなるかと思ったが……。今や私の組織に欠かせない存在へと成長した。幹部へと引き上げた私の目に狂いはなかったな」
千石はゆっくりと玉座から立ち上がると、片膝をつく琴音の元へと悠然と歩み寄ってきた。カツ、カツと硬い靴音が響くたび、琴音の心臓が期待と緊張で早鐘を打つ。
「お前は、我々『ミレトス』が創る新世界の、強固な礎となる存在だ。……これからも私のために働き、その忠誠を示し続けろ」
千石は満足そうに頷くと、琴音の華奢な肩へ労うように軽く手を置いた。厚い手袋越しに伝わる、彼の手の重み。それは氷のように冷徹なはずなのに、琴音にとってはどんな熱よりも温かく感じられる。
ああ、千石様。もっとこのお方に褒められたい。もっと、私を見てほしい。千石様のためなら、この命すら惜しくはない――。
うっとりと千石を見上げ、その甘い余韻に身を委ねようとした、次の瞬間だった。
「――ッ?!」
不意に、千石の腕が弾かれた。いや、弾かれたのではない。置いてきたはずなのに、いつの間にか琴音の背後に立っていた翔が、琴音の肩に乗せられていた千石の手首を、ガシッと力強く掴み取ったのだ。一瞬、室内の空気が氷点下まで凍りついたように錯覚する。組織の絶対的な長と、最強の狂犬。一触即発の空気に、琴音は息を呑んだ。
しかし、翔は間の抜けた声で口を開く。
「ボスぅ、リリス様がお疲れみたいなので~。今日はもう、これで失礼しま~す」
千石の手首を乱暴に手放すと、翔は琴音の腕を引き、無理やり玉座の間から連れ出した。千石は何も言わず、ただオッドアイの瞳で冷ややかに二人の背中を見送っていた。
「ちょっと!勝手なことはするなと言ったはずよ!?」
重厚な扉が閉まり、長い回廊に出た途端、琴音は翔の拘束を振り払って声を荒らげた。
せっかくの、千石様との貴重な時間だったのに。もっとお側にいたかったのに。あのお方に触れられた肩の余韻すら、台無しにされてしまった。
理不尽な怒りをぶつける琴音に対し、翔は悪びれる様子もなくヘラッと笑う。
「リリス様、ごめんね~」
そう言いながら、翔は琴音の肩――先ほど千石が触れたばかりの場所を、手でパタパタと軽く払った。まるで、そこに付着した『千石の痕跡』を、汚い埃か何かのように削ぎ落とそうとする執拗な手つきだった。
「だってえ、ボス、リリス様に馴れ馴れしいんだもん。僕、妬けちゃうなあ~」
「……ボスなら、いいのよ」
「……はあ~~~」
琴音の言葉を聞いた途端、翔の表情からスッと温度が消え、ひどく深いため息を吐いた。空気が変わった。琴音は僅かに肩を震わせ、後ずさろうとする。しかし、それより早く、翔の手が動いた。
「僕は?」
「え?」
「トクベツ?」
「ッ……?!」
翔は琴音のスーツの襟首をガッと掴み、強引に自分の方へと引き寄せた。鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離。見開かれた紫の双眼が、猛禽類のようにじっ……と琴音を射抜いている。逃げ場のない視線の圧に、琴音の心臓が先程とは違う意味で早鐘のように鳴り始めた。
「ボスがリリス様のトクベツだって知ってるよ。……じゃあ、僕もトクベツ、だよね?」
低く、甘く、それでいて底知れぬ脅迫を孕んだ声。違う、と言えばどうなるか分からない。この男は、自分の思い通りにならなければ何を壊すか分からない存在なのだ。
「ッ……、え、ええ。特別……よ」
恐怖で引きつる喉から、ようやくその言葉を絞り出す。
「あはっ」
途端に、襟首を掴んでいた手がパッと離された。距離が出来たことに安堵して浅く息を吐く琴音の前で、翔はまるで欲しいおもちゃを買ってもらった子供のように、嬉しそうに笑う。
「だよね、そうだよねえ!あはっ。うれし~♡」
翔は両手で自分の顔を覆い、指の隙間からうっとりとした笑みを浮かべて琴音を見つめた。
「僕もだよ、リリス様。僕のトクベツは、リリス様だけ……♡」
底知れぬ熱と狂気を孕んだその瞳をこれ以上視界に入れることは出来なかった。琴音はいたたまれなくなり、弾かれたように目を逸らして自室へと歩み始めた。
「あ、待ってよリリス様~」
後ろからついてくる翔の口調は、いつもと何も変わらない。何を考えているのか、いつ暴発するのか、全く読めない。
背中に冷たい汗が伝うのを感じながら、琴音はただ真っ直ぐに前を向いて歩き続けるしかなかった。
つづく




