第四話 嘘の設定?
給湯室での絶体絶命のピンチは、凪の介入によって事なきを得た。
……得た、はずだったのだが。
「おっ、ちょうどお昼休みだな!琴音さん、阿久戸!よかったら俺達と一緒にランチ行かない?」
オフィスに戻るなり、時計を見た奏が無邪気な笑顔でそう提案してきたのだ。普段なら喜んで一緒に行く琴音だが、今は隣に爆弾を抱えている。丁重に断ろうと口を開きかけた、その時だった。
「行きます!俺、先輩達とご飯食べたかったんです!」
食い気味に返事をしたのは、もちろん翔だ。その青い瞳は『琴音がアイギスと親しくするのが気に入らない。絶対について行って監視する』というドロドロの執着で濁りきっていたが、奏や小春には『やる気のある新入社員の笑顔』にしか見えていない。
「お、いいじゃん!凪も小春もいいよな?」
「……まあ、彼から目を離さない方がいいだろうな」
凪が眼鏡を押し上げながら、意味深に呟く。監視目的で翔を同行させることに異存はないようだ。小春も「歓迎会も兼ねて、美味しいところ行きましょう!」と微笑んでいる。
こうして、琴音の意志など関係なく、地獄のランチタイムが幕を開けた。
やってきたのは、会社の近くにあるお洒落なイタリアンレストランだった。席に着く際、当然のように翔が琴音の隣をキープし、向かい側に奏、凪、小春が座るという構図になった。
「そういえば阿久戸、高校の時の琴音さんってどんな感じだったんだ?」
注文を終えた後、奏が興味津々に尋ねてきた。いきなり話を振られた琴音はビクッと肩を揺らす。設定など何も打ち合わせしていないのだ。ボロが出たらどうしようかと冷や汗をかく琴音をよそに、翔は嬉しそうに語り出した。
「尖先輩ですか?もう、すっごく優しくて、可愛くて……俺の憧れだったんですよ!俺、高校の時あんまり目立たないタイプだったんですけど、なんとなく入った美術部で、先輩が優しく歓迎してくれて」
「へえ〜!琴音先輩、昔から優しかったんですね!」
「はい!先輩がキャンバスに向かってる横顔、すっごく綺麗で……俺、いつも影からず~っと見てたんですよ♡」
なんで私が美術部だったこと知ってるの……!?
小春がほわほわと感心する中、琴音は心の中で激しく動揺していた。確かに高校時代、自分は美術部に所属していた。しかし、目の前にいるこんなに目立つ、しかも狂気を孕んだ後輩がいた記憶など微塵もない。おそらく、自分の経歴をどこかで調べ上げ、もっともらしい『嘘の設定』をでっち上げているのだろう。『ずっと見ていた』というのも、ストーカーアピールのようでひどく気色が悪い。
愛想笑いを浮かべてやり過ごそうとする琴音だったが、テーブルクロスの下――完全な死角で、翔の手が琴音の太ももを撫で上げてきた。
「っ……!?」
「ん?どうしたの、尖さん」
「な、なんでもありません!お水が冷たくて、ちょっと咽せちゃって……!」
ビクンと身を捩った琴音に、凪が訝しげな視線を向ける。琴音は必死に取り繕いながら、机の下で翔の手を抓って抵抗するが、翔は全く痛がる様子もなく、むしろ琴音の細い指を絡め取ってギュッと握り込んできた。
離しなさい、バカカケル! バレたらどうするの!
やだ。リリス様、あいつらに笑いかけないでよ。
無言の攻防戦。翔の手のひらの異常な熱が、ストッキング越しに伝わってくる。
「いやー、でも阿久戸が入ってくれて助かるよ! 最近、物騒な事件ばっかりで部署もピリピリしてたからさ」
大盛りのパスタが運ばれてくると、奏が明るく話しかけた。
「そうなんですか? 俺、平和主義なんでそういう物騒なのはちょっとやですね〜」
どの口が言っているのよ……!
数日前に市街地を鼻歌交じりで破壊し、目の前の奏を半殺しにした張本人のセリフに、琴音の胃がキリキリと痛む。
「そうなんですか?随分と鍛えているようですが」
すかさず、凪が冷ややかな声で追求した。彼の言う通り、翔の着ているスーツの上からでも、その無駄のないしなやかな筋肉は隠しきれていない。常人離れした身体能力を持つミレトスの狂犬なのだから当然だ。
「あはっ、俺こう見えてジム通いが趣味なんですよ~。ほら、健康第一じゃないですか」
翔は悪びれもせず、ヘラッと笑って言い返す。正体を知っている者同士の、表面上は穏やかだがバチバチと火花を散らす牽制の応酬。琴音はいたたまれなくなり、ただ無言でパスタを口に運ぶしかなかった。
「阿久戸くん。あまり尖さんに『負担』をかけないことだ。君のような『血の気』の多い新人は、扱いが難しいからな」
凪が眼鏡の奥の瞳を鋭く光らせる。それは、『妙な真似をすれば容赦しない』というアイギスとしての明確な牽制だった。しかし翔は、微塵も怯むことなく青い瞳を細めて笑い返す。
「心配性ですね~、水谷先輩。大丈夫ですよ。俺、尖先輩の言うことなら何でも『絶対』聞きますから」
だから、私を巻き込むのをやめてぇぇ!!
正体を知っている凪からすれば、『ミレトスの狂犬は一般人の尖さんにも牙を剥きかねない』と警戒しているのだろうが、実態は逆だ。狂犬は、琴音にしか懐いていないのである。
「ほ、ほらほら二人とも! ご飯冷めちゃいますよ?」
テーブルに漂い始めた一触即発の空気を、小春が慌てて和ませる。
「阿久戸くんは、休日はどんな風に過ごしてるんですか?」
「俺ですか?うーん……ずっと『好きな人』のこと考えてますね。どこにいるのかなーとか、何してるのかなーって」
「まあ! 阿久戸くん、好きな人いるんですね。一途なんだあ」
ほわほわと感心する小春に対し、琴音は一気に食欲が失せるのを感じていた。一途というより、ただのストーカーである。事実、翔は琴音の家はおろか、休日の行動パターンまで全て把握している節があった。
「でも、その人、他の男のところにばっかり行っちゃうんで……俺、最近すっごくイライラしてるんですよ」
「えっ……」
翔の声のトーンが、一瞬だけ地を這うような低さに変わる。千石の姿をした彼が、恨みがましく琴音をチラリと横目で見た。
「邪魔な男は、いっそミンチにして消しちゃおうかな~って」
「み、みんち……?あ、阿久戸くん、ジョークが過激だなぁ……あはは」
「あはっ、冗談ですよ~!」
小春が引きつった笑いを浮かべ、奏も「おいおい穏やかじゃないな」と苦笑いしている。凪だけが、フォークを持った手をピタリと止め、殺気を孕んだ瞳で翔を睨みつけていた。
ジョークじゃない……!この男、本当にやる気だわ……!
琴音の胃の中で、パスタが完全に石のように重くのしかかっていた。
表向きは『先輩たちと新入社員の和やかなランチ』。しかしその実態は、ヒーローと悪の幹部、そして狂犬がテーブル一つを挟んで睨み合う、生き地獄だった。
「琴音先輩?顔色悪いですよ~?あ~ん、してあげましょうか?」
「け、結構ですっ……!」
ニコニコと笑いながらパスタを差し出してくる翔を前に、琴音はただひたすらに、早くお昼休みが終わることだけを神に――千石に祈り続けるのだった。
つづく




