1.不思議だったこと
「昔、不思議だったことがあったんです」
水族館独特の青白い照明が、彫りの深い横顔を照らしている。鼻筋がすっと通っていて、頬骨が高い。
「と、言いますと?」
そのギリシャ彫刻系細マッチョ――もとい田上さんが私の方を向く。横顔もきれいだったけど、正面から見ても惚れ惚れするような男前だ。全然、私のタイプじゃないけど。
大水槽の中には多種多様な種類の魚が泳いでいる。それなのに、
「この子たちは、その、共食い?しないのかなって」
食べようと思ったらいくらでも食べられるのに。皆が思い思いに泳いでいるのが、幼い私にはひどく不可思議に思えたのだ。
それは、今もそうだけど。
「餌を十分に与えられているから、らしいですよ」
私の問いに対して、彼は静かな声で答えた。
「あと、互いの存在に慣れてしまうと襲うことは減るそうです」
田上さんは、すらすらとまるで水族館の職員かのように教えてくれる。
「なるほど」
「そもそも同じ水槽に入れる魚の種類は選ばれているようなので。食欲旺盛な魚は別の水槽で飼育されているらしいです」
にしても詳しすぎないだろうか。私が少し首を傾げたら、田上さんがふっと笑った。
「僕も小さい頃とても気になったので、調べてみたことがあるんですよ」
青い目は、水槽を横切るサメの姿を追いかけている。そのサメの横をアジが悠然と泳いでいく。
「お腹がいっぱいなのに無駄に動けば、またお腹が空いてしまうので。餌がちゃんともらえると学習したサメは、周りの魚を食べようとはしないそうです」
捕食者と非捕食者が、当たり前のように水槽の中で共存している。
この水槽は田上さんの目にどんな風に見えるのだろう。ある種理想郷のように映るのだろうか。
私の視線に気づいたのか、彼は顔を俯けた。時計に目を遣って、こう続ける。
「もうすぐイルカショーの時間ですね」
「あ、そうですね!」
イルカショーはこの水族館の目玉だ。こういうことを、彼は本当にきちんと調べてくれている。今日の私は本当についてきただけだ。
「行きましょうか」
促されるままに、スロープを下っていく。サメはまだ王者のように水槽を泳いでいる。
私の二歩先を行く広い背中を追いかける。この人がちゃんとゆっくり歩いてくれていることを、今の私は知っている。
田上さんは、厳密に言えば人間ではない。
八分の一の吸血鬼。その気になれば本当に、人間を食べてしまえる怪異の子孫だ。
*
イルカさんの尾ひれのサービスの水しぶきを少し浴びてから、田上さんが予約してくれていたお寿司屋さんに入った。
もう、それはもう素晴らしかった。
「田上さん」
当然のようにお会計を終えた彼に、私は恐る恐る尋ねた。
「ここ、すっごい高いお店じゃないですか?」
立地は都内の有数の商業地で、しかも個室だ。中にはクローゼットまで付いている。接待とかで使うお店じゃないだろうか。
塗りのお重に入っている宝石のようなちらし寿司を見て、私は美味しそうと思う前に震えがきた。さっき水族館で見た水槽の中を泳ぐ魚たちの姿は一瞬にして吹き飛んだ。
こう、庶民には遠すぎる世界だ。人のお金で高い寿司が食べたいとはずっと思っていたけれど、いざそんな時はがきたら楽しむよりも先に申し訳なさがきた。
いや、完食しましたけど。今まで食べたどのお寿司よりも、美味しかったですけど。
「いえ、そこまでではないですよ。ランチなので」
そりゃあ田上さんは、口が裂けても「貴様にはもったいない寿司だ。とくと味わえ」などとは言わないだろうけど。
「ほんとうに、そうですか?」
私が迫っても、端整な顔は少しも揺るがない。「ディナーだとまあ、僕もちょっとびっくりしますけどね」
だといいのだけれど。いやはや、本当においしいウニだった。
「それに、これはお礼なので」
律儀に、田上さんは言う。
そう、これはデートじゃない。
一緒に水族館に行ってランチを食べても、ただのお礼なのだ。
マンションに着いてから、田上さんは言った。
「島崎さん、ミネストローネかきんぴらごぼうか要りませんか?」
あんなお寿司をごちそうしてくれた人とは思えない、至って庶民的な申し出だった。
田上さんからこんな風におかずをおすそ分けしてもらうことは、何もはじめてではない。彼が料理上手なことはよく知っているけれど。
「ミネストローネか、きんぴらごぼう……?」
ちょっと組み合わせがちぐはぐな気がする。私は普段そこまで自炊をしない方だけれど、田上さんの丁寧な暮らしからは少し違和感がある。
すると、田上さんは形のいい額をかりかりと掻いた。
「これは……僕の気分転換みたいなものなんです」
「きぶんてんかん」
「野菜を刻んでいると、気分が晴れるというか心が落ち着くので」
ミネストローネは確か、野菜が沢山入っていたはずだ。それを全部小さく切る必要がある。
きんぴらごぼうは、ごぼうをささがきにしないといけない。
その過程のどこが気分転換になる、というのだろうか。死ぬほどめんどくさくないだろうか。
「めんどくさいから、いいんですよ」
まるで私の心を読んだかのように、田上さんが言った。
「めんどくさいな、が悩み事を押し出してくれるような気がするので。手がかかれば手がかかるほど、いいんです」
「はあ」
そういうものなのだろうか。めんどくさいことはただめんどくさいので、私にはあまり理解ができなかった。
「ということで無心でやっていたら作りすぎてしまって。どちらかもらっていただければ。ああ、もちろん両方でも構わないのですが」
「それは、とてもありがたいです」
万年自炊下手の私には神の恵みに等しい。
ただ気がついてしまったことがある。
少なくとも、今の田上さんにはひとつ、悩み事があるのだ。
自分で食べきれる量を見誤ってしまうぐらいに一心不乱に、野菜を刻んでしまうほどの懸案事項が。
「あの」
例えば彼女になら、悩みを相談することもあるかもしれないけど。
それを尋ねる権利が果たして自分にあるのかは、疑問がある。私は所詮、偶然隣に住んでいるだけのおとなりさんでしかない。
それでも、聞いてしまった。
「何か困ってることが、あるんですか?」
田上さんが、はっと青い目を見開いた。そのまま、まるで目を凝らすように二回瞬きをする。
「その、無理に聞こうってわけではないんですけど、話すと楽になることもあるとかないとか」
私がそう言うと、田上さんは少しの間顎に手を当てて考え込んでいた。
意を決したように、右手をぎゅっと握りしめる。
「……立ち話もなんですから、僕の家でもいいですか?」
「あ、はい」
うちには昨日部屋干ししたままの洗濯物がまだ干してある。さすがにあれを見られるのはまずい。私は首を縦にぶんぶんと振った。




